玉生城とは? わかりやすく解説

玉生城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 02:09 UTC 版)

玉生城(たまにゅうじょう)は、栃木県塩谷郡塩谷町大字玉生(下野国塩谷郡)にあった日本の城山城)。建長6年(1254年築城慶長2年(1597年)10月13日廃城


  1. ^ a b c 『塩谷町史』第4巻
  2. ^ a b 平井聖〔ほか〕編 『日本城郭大系』新人物往来社、1979年。
  3. ^ 「玉生氏系図」(塩谷町史編さん委員会編『塩谷町史』第2巻中世資料編、塩谷町、1993年。収録)によれば、康平2年(1059年)8月に下野国宇都宮に下った藤原勝経により玉生氏が創始され、その5代後の子孫である玉生勝家の養子に、塩谷周防守の3男忠昌が入って玉生城を築城したとされるが、宇都宮氏や塩谷氏などの系図などでは、忠景が玉生氏の祖とされている。
  4. ^ 「玉生氏系図」では塩谷周防守の三男「忠昌」となっており、のち「隆昌」と改めたとする
  5. ^ 宇都宮氏の系図には享年が58とあり、これに基づくと、忠景の生年は元久元年(1204年)となるが、忠景の伯父に当たる塩谷泰朝の生年が建保2年(1214年)となっており時系列的に矛盾している。
  6. ^ 宇都宮泰綱の6男という(「玉生氏系図」)。
  7. ^ 「玉生氏系図」では貞治3年(1364年)と記されているが、富高が討死したとされる苦林野の戦いは貞治2年に起きており、系図の誤りであるとされている。(『塩谷町史 第2巻』「玉生氏系図」解説文)
  8. ^ 「宇都宮広巳文書」で玉生権太夫式部丞と表記されるが、玉生氏の誰なのかは不明である。年代的に見て、勝泰の次男泰忠であったとする説[要出典]、あるいは、宇都宮大明神社務職を務めた玉生綱家の弟忠家の子孫(代々「権太夫」を名乗った)とする説もあるが、定かではない。
  9. ^ a b c 「宇都宮広巳文書」(『塩谷町史 第2巻』117-123頁に収録)
  10. ^ 那須記の宇都宮国綱家臣という項目に玉生城主石於露志(いしおろし・石下)源兵衛として記されている。
  11. ^ 『塩谷町史』
  12. ^ 「塩谷町の文化財」塩谷町公式HP


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