塩谷家臣時代とは? わかりやすく解説

塩谷家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 13:51 UTC 版)

岡本正親」の記事における「塩谷家臣時代」の解説

岡本家は、祖父・重親以来代々塩谷氏重臣であったが、正親の代には、正親の姉が主君塩谷義孝側室となって長子義通を生み、正親自分の娘を義通に嫁がせていたため、義孝家督継いだ義孝正室の子である義通の弟・義綱に疎まれ一時実質的な追放の形で塩谷の地を追われる追放後正親は、照富と正富の2人の子と共に皆川広照仕えるが、天正12年1584年5月7日北条氏佐竹宇都宮連合軍戦った佐野沼尻の戦い(越名沼の戦い等とも呼ばれる)において正富・照富が討死し、落胆した正親は、2人亡骸大中寺葬り、その菩提を弔うためにそのまま出家し梅屋称して高野山に向かう。 この際、「塩谷軍記によれば高野山立ち寄った後、京都隠遁生活をしていた正親は、かつて奥州遊覧途中で盗賊襲われ難儀していたところを助けた京の謡曲師道慶と再会しこの道慶のつてにより豊臣秀吉との面会叶い、この秀吉後ろ盾得て正親は、塩谷家臣として復帰する事が出来たという。この話の真偽不明だが、事実正親塩谷家臣として復帰し、この時、正親は、秀吉北条氏攻める際には必ず参陣する誓ったとされ、小田原征伐では、塩谷家の名代として参陣している。 そして、この功が認められて、正親秀吉より所領15郷3800石を安堵され塩谷氏から独立するこの際塩谷氏は、直接陣しなかったので改易となったとする見解があるが、塩谷氏系図によれば改易となったのは文禄4年1595年2月8日であり、時の当主・義綱は、天正17年1589年6月29日上洛して秀吉面会し恭順の意を表している事実あわせて考えると、改易になったとは考え難い。ただ、塩谷家には所領加増はなく正親独立したため、塩谷氏にとっては、実質的な減封となったことは確かである。 なお、正親及び岡本氏が完全な塩谷氏家臣ではなく宇都宮氏との両属関係にあったとする見方がある。これは、同族推定される岡本宗慶宇都宮広綱重臣として活動しており、正親一族単なる陪臣であったとは考えにくく宇都宮氏から塩谷氏行動監視する役目命じられていたとするのである。しかし、小田原征伐先立って正親直接秀吉より安堵得た時点豊臣政権直臣となったために塩谷氏宇都宮氏との主従関係からは切り離され両氏改易後そのまま所領安堵されたと考えられている。

※この「塩谷家臣時代」の解説は、「岡本正親」の解説の一部です。
「塩谷家臣時代」を含む「岡本正親」の記事については、「岡本正親」の概要を参照ください。

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