将軍となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
石虎の性格は残忍であり、馬を走らせて猟を行うのを好み、その放蕩ぶりには限りが無かった。また、弾弓(矢の代わりに弾丸を射る弓)を好んで行い、幾度も人を撃った。その為、軍中では石虎の存在は大きな患いとなった。石勒は密かにこれを殺そうと考え、母の王氏に「この子は凶暴無頼でありますが、兵士にこれを殺させては評判を落とします。自ら死んでもらうのがよいでしょう」と告げた。すると王氏は「快牛でも犢子(子牛)の時は、多く車を壊してしまうものです。汝はこれを少し我慢なさい」と諫めたので、石勒は思いとどまった。 312年2月、石勒は葛陂に留まって建業攻略を目論んでいたが、飢餓と疫病により兵の大半を失い、戦どころではなくなってしまった。さらに、琅邪王司馬睿(後の元帝)は石勒を迎え撃つ為、江南の将兵を寿春へ集結させると、石勒は遂に撤退を決断した。石虎は輜重が北へ退却するまでの時間稼ぎをするよう命じられ、騎兵2千を率いて敢えて寿春に進んだ。その途上、江南から到着した米や布を積んだ輸送船数10艘を発見すると、石虎の将兵は我先にとこれらに群がり、守備の備えをしなくなってしまった。そこに晋軍の伏兵が一斉に姿を現わしたため、石虎は巨霊口において敗北を喫し、500人を超える水死者を出してしまった。さらに退却時には西晋軍の指揮官紀瞻により、100里に渡って追撃を受けた。紀瞻軍が石勒の本隊にまで逼迫すると、石勒は陣を布いて来襲に備えたが、紀瞻が石勒の伏兵を警戒して寿春に戻ったので難を逃れた。石勒は無事退却に成功して北へ帰還すると、以後は襄国に拠点を置いた。 12月、石勒は対抗勢力の段部と講和を図る為、石虎を首領段疾陸眷の下に派遣した。石虎は彼と義兄弟の契りを結ぶと、盟約を交わしてから帰還した。
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