将軍との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 06:07 UTC 版)
京都の将軍と鎌倉公方の対立は、持氏の祖父・足利氏満の時代にすでに始まっていた。この時は関東管領上杉憲春の諫死で対立は未然に防がれたが、関東に支配権を延ばそうとする将軍と、それに抗する鎌倉公方の衝突は宿命的なものであった。 応永30年(1423年)に京都扶持衆の小栗満重が室町幕府の命令を受けて反乱を企てたとしてこれを攻め滅ぼし、続いて同じく扶持衆の宇都宮持綱・桃井宣義を倒して関東から親幕府勢力の一掃を図った(小栗満重の乱または応永の乱)。これに対して室町幕府4代将軍足利義持は持氏討伐を計画するが、持氏の謝罪によって討伐は中止された。だが、関東御扶持衆を用いて持氏の勢力拡大を牽制しようとする幕府側とそれに対抗しようとする持氏の対立は深刻化する一方であった。 応永32年(1425年)、5代将軍であった足利義量が病死し、正長元年(1428年)に前将軍であった義持も病死して将軍職が空位となると、持氏は自身が足利氏の一族であるという名分から6代将軍の座を望んだ。しかし、管領の畠山満家や三宝院門跡満済らの協議によって、6代将軍は義持の弟4人のうちから籤引きで選ばれることになり、この結果、天台座主義円が還俗して足利義教として将軍職を継承することとなった。 この将軍職相続に義持の猶子となっていた持氏は不満を持ち、新将軍の義教を『還俗将軍』と軽んじ、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなかった。さらに元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。 関東管領・上杉憲実は持氏と義教の融和を懸命に努めたが、持氏はこれに応じずに逆に憲実を遠ざけ、上杉氏庶流の上杉憲直や一色直兼・簗田満助ら近臣を重用し、やがて憲実が持氏に討たれるという噂が流れるまでになる。永享9年(1437年)には憲実は施行状の発給を止め、間もなく関東管領を辞職している(なお、これ以降関東管領の施行状の発給は途絶する)。一方、幕府においても義教と度々対立していた斯波義淳が永享4年(1432年)に管領を辞し、また宥和派であった畠山満家が翌永享5年(1433年)に、満済が永享7年(1435年)に没すると義教を止めることのできる人間は存在しなくなった。
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