将軍になるまでとは? わかりやすく解説

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将軍になるまで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:14 UTC 版)

徳川家継」の記事における「将軍になるまで」の解説

宝永6年1709年7月3日、第6代将軍徳川家宣の四男として生まれる。家宣の子病弱で、正室近衛熙子天英院)との間に生まれた豊姫天和元年1681年)に早世し、宝永4年1707年)に側室・おこうの方との間に生まれた千代も2か月早世し、宝永5年1708年)に生まれた大五郎宝永7年1710年8月早世した。正徳元年1711年)にお須免の方との間に生まれた虎吉早世し、鍋松だけが生き残った正徳2年1712年)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日家宣新井白石間部詮房呼び寄せて、「次期将軍尾張徳川吉通にせよ。鍋松処遇は吉通に任せよ」と「鍋松将軍にして、吉通を鍋松世子として政務代行せよ」の2案を遺言したと『折たく柴の記』には記されている。そして家宣死去する白石は「吉通公を将軍迎えたら、尾張からやって来る家臣幕臣との間で争い起こり諸大名巻き込んで天下騒乱なりかねぬ。鍋松君を将軍として我ら後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、鍋松擁立推進した。これに対して幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。また一説家宣が、「鍋松成長見込めなかった場合は、吉通の子五郎太徳川吉宗嫡男長福丸養子として、吉通か吉宗後見させよ」と遺言したという。 徳川将軍家慣例では、将軍家世子は父である将軍から名字書出受けて元服して朝廷から大納言任じられた後に将軍を継ぐことになっていた。ところが、鍋松元服済ませ前に父である家宣亡くなってしまった。元服の際に名字書出行って諱を定めるのは上位者行為であり、徳川将軍家世子である鍋松に対して諱を与えられる者がいなくなってしまった。そのため、幕府はその役目を担う人物朝廷求めた。そこで当時院政行っていた霊元上皇名字書出を行うことになった当時中御門天皇13歳幼かった)。幕府要請受けた上皇12月12日京都所司代松平信庸に対して家継」の名字書出記した宸翰授け同時に正二位権大納言任じる消息宣下授けた宸翰位記21日江戸到着し23日江戸城御座間安置された。家継徳川将軍唯一の朝廷(院)から諱を与えられ将軍となったその後、翌正徳3年1713年3月25日江戸城勅使院使迎え大老井伊直該烏帽子親として元服の儀式を行ったこの際霊元上皇烏帽子を、中御門天皇は冠を家継贈っている。そして、4月2日家継将軍宣下受けて第7代将軍就任した

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将軍になるまで

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徳川家重」の記事における「将軍になるまで」の解説

正徳元年12月21日1712年1月28日)、御三家紀州藩の第5代藩主(後に第8代将軍徳川吉宗長男として江戸赤坂紀州藩邸で生まれる。母は側室須磨の方(深徳院)。幼名長福丸吉宗将軍就任する同時に江戸城入り享保10年1725年)に元服それまで徳川将軍家慣例倣い通字の「家」の字を取って家重名乗る生来虚弱の上障害により言語不明瞭であったため、幼少から大奥籠りがちで酒色ふけって健康を害した享保16年12月1731年)、比宮増子結婚した発話の難に加え猿楽(能)を好んで文武怠ったため、文武長けた次弟の宗武と比べて将軍継嗣として不適格と見られることも多く吉宗幕閣散々悩ませとされるこのため一時老中首座勝手掛老中)の松平乗邑によって廃嫡および宗武の擁立をされかかったことがある吉宗家重選び延享2年1745年)に吉宗隠居して大御所となり、家重将軍職譲られ第9代将軍就任した。しかし宝暦元年1751年)までは吉宗大御所として実権握り続けた家重将軍職継承は、才能云々次男などに家督を渡すことが相続における長幼の順を乱すことになり、この規律守らない兄弟徳川御三家などの親族さらに派閥家臣らによる後継者争い権力乱れを産む、と吉宗考えたとされる吉宗自身徳川本家外から来た人間であり、将軍として血統正統性が確実ではなかったため、才覚云々ではなく「現将軍最長子が相続者」というルールを自らが示し守らねばならなかったこと、吉宗自身将軍後継争い当事者であったことが背景にある。またこれとは別に家重長男家治が父とは逆に非常に聡明であったこと、つまり次世代期待ができると判断されたことも背景にあったと言われている。家重吉宗存命中に松平乗邑老中首座から次席とし、さらに罷免し、さらに減封加増没収)、さらに隠居、さらに跡を継いだ乗祐に対し下総佐倉から出羽山形転封命じた。弟の宗武には謹慎命じ3年後謹慎解いた後も生涯謁見を許さなかった。

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