増子女王
増子女王(ますこじょおう、正徳元年10月19日(1711年11月28日) - 享保18年10月3日(1733年11月9日))は、江戸幕府第9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中(正室)。伏見宮邦永親王の第4王女。幼称は比宮(なみのみや)。院号は證明院(しょうめいいん)[1]。諱には培子と記されたものもある。家重の父・徳川吉宗の紀州藩主時代の御簾中だった理子女王は叔母にあたる。
来歴
享保16年(1731年)12月15日に家重と婚姻し、江戸城西御丸に入って「御簾中様」と呼ばれた。この際の婚礼は盛大であり、増子女王の江戸下向に際しては同年4月に諸国に伝えられ、「道途の邸宅大門は閉ざし、傍門は建寄置べし、長屋は窓蓋に及ばず、うちより戸を建置べし」(『徳川実紀』)とあり、5月7日に増子女王の到着にあたっては、「道路市店の招聘、商もの等、常のままになしをくべし、婦女は嵂店にありてくるしからず、されどつつしみてあるべし、男子は出べからず」(『徳川実紀』)とある[1]。
享保17年(1732年)には家重と船で隅田川を遊覧した。
享保18年(1733年)に懐妊したものの、9月11日(あるいは12日[1])に早産となり、生まれた子はまもなく死去、増子も産後の肥立ちが悪く10月3日[1]に23歳で死去した。寛永寺に葬られ、従二位が追贈された。戒名は證明院智岸真恵大姉。
家重はその後、2度と正室を迎えることはなかった。
関連作品
- NHK大河ドラマ
- 民放テレビドラマ
- 漫画
関連項目
参考文献
- 「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻、続群書類従完成会)
- 北島正元『徳川将軍列伝』秋田書店、1989年。
固有名詞の分類
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