藤姓塩谷氏
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源姓塩谷氏の最後の当主・朝義の養子となった竹千代が元服して朝業と名乗り、家督を継いだことで藤姓塩谷氏の歴史が始まる(「秋田塩谷系譜」)。朝業は婿として養子になったとも伝わる(「喜連川塩谷系譜」)。藤姓とは、朝業の実家である宇都宮氏が藤原氏の出自であったためである。 朝業は、堀江山城の山続きの北側500mほどの山頂に新たに川崎城を築き居城とする。菩提寺は長興寺。 藤姓塩谷氏は、約260年~300年間に渡り続くが、応永30年(1423年)8月9日、教綱の時、関東公方足利持氏と結び、宇都宮氏に謀反。時の宇都宮当主、宇都宮持綱を自領の幸岡原に狩りに招いて殺害。この35年後の長禄2年(1458年)5月8日、今度は教綱が、和睦を口実に宇都宮城に招かれたところを殺害され、藤姓塩谷氏は衰退する(5月13日に宇都宮城からの帰りの氏家で討たれたと記す文献もあり)。 教綱殺害により、藤姓塩谷氏時代が終焉するが、その経緯には2説がある。教綱の死で藤姓塩谷氏が断絶し、宇都宮正綱の四男弥五郎が名跡を継いで宇都宮氏の影響下に入ったとする説(『下野国誌』所収「塩谷系図」)と、教綱の子に隆綱があって文明10年(1478年)正月18日に塩谷弥五郎を養子に迎え家督を継がせたという説(「秋田塩谷系譜」)である。後者の説では、この養子関係に拠って宇都宮氏と塩谷氏は和睦したという。
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