喜連川源姓塩谷氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 17:23 UTC 版)
本家では源姓塩谷氏は断絶したが、塩谷惟純の次男惟広の子孫によって血脈は維持された。同じ塩谷郡の喜連川の大蔵ヶ崎城を中心に三千町の領地を支配し、惟広は治承・寿永の乱(源平合戦)に参戦して戦功を挙げ、鎌倉幕府に源姓塩谷氏の地位を確立していくが、その子惟守が和田合戦において和田義盛に同調して討死すると、喜連川塩谷氏は鎌倉において地位を失い勢力は大きく衰退する。惟守の甥である4代惟縄の時、惟縄に嗣子がなかったことから、藤姓塩谷氏から塩谷忠朝を婿養子に迎えて家督を継がせることになり、源姓塩谷氏は完全に途絶えた。
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