源姓塩谷氏とは? わかりやすく解説

源姓塩谷氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 17:23 UTC 版)

塩谷氏」の記事における「源姓塩谷氏」の解説

塩谷荘を支配したと伝わる清和源氏一族塩谷氏系譜伝承軍記物にみられ、かつては伝説存在とされたが、現在では存在していた可能性が高いと推定される。ただし存在裏付ける確実な同時代史料存在していない。 『矢板市史』によれば源義親の子である堀江頼純が、父のために流罪となり、大治5年1130年)頃に下野国塩谷郡下り塩荘司として塩谷氏名乗ったのが始まりと伝わる。ただし、その頃には頼純は没している可能性高く、『矢板市史』のこの見解については、年代整合性検討する必要がある。なお系図所伝では、「喜連川塩谷系図」は義親討伐後に頼純が下野流罪となり孫の惟頼が塩谷少将名乗ったという所伝記載し一方秋田塩谷系譜」は、堀江頼純塩谷荘司として塩谷創始した記されている。 塩谷33郷38千町支配した居城は『堀江山城』と『御前原城』の両説がある。しかし、御前原城築城年代には二説あり、一説は、築城者とされる塩谷頼純存命しない治承寿永年間(1177年1183年。間に養和年号あり)の築城とする説であり矛盾があるため、この点において、もう一説正安4年1315年)説が有力とされており、この場合堀江氏時代には御前原城存在していないことになる。しかも、仮に治承寿永年間御前築城年代正しかったとしても、塩谷氏は、その半世紀も前から塩谷郡支配しており、当然、御前築城以前居城があったはずで、少なくとも御前原城は、塩谷氏最初居城とはなりえず、さらに平成発掘調査によって、御前原城築城年代1400年初め頃と推測されたため、より年代の近い正和4年築城説が有力となった一方で堀江山城説では、のちに御前原城となる旧塩谷郡衙に塩谷頼純滞在した後、堀江山城築いて移り5代の間、堀江にあったとしており、堀江山の名前からも堀江氏堀江山城居城説の有力となっている。 菩提寺は、奉り墓として寺山観音寺埋め墓として六房寺の両墓制であったと言われているが定かではない5代目朝義に子が無かったため、宇都宮業綱次男竹千代(朝業)を養子迎え家督相続させ、源姓塩谷氏の時代終焉する。

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