紀姓氏家氏養子説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 11:28 UTC 版)
公頼を宇都宮朝綱の子(末男と記す)とする点においては、宇都宮氏出自説とは変わらないが、公頼を氏家氏の創始とはせず、紀姓氏家氏の四代目氏家公広の養子となり、氏家氏を継いだとする。この場合の氏家氏の創始は、氏家公幹(長元元年(1028年)生 - 永長元年(1096年)1月11日没)とし、公幹を紀氏の出自であるとする。七郎と名乗り、始めは公重、次に公頼、次に公綱と名乗り、官途は従五位下美作守であった。これは、相沢家氏家氏系図に記されたものだが、この系図以外に公頼以前の氏家氏について記す文献が無いことから、諸説のひとつという扱いになっている。 しかしながら、同じ下野には紀党と呼ばれた紀氏を出自とする益子氏という有力国人が存在しており、公頼以前の氏家氏の存在の可能性は否定出来ない。また、公頼を氏家氏の創始とする下野国誌も完全ではなく、例えば、同じ下野の豪族である塩谷氏について、下野国誌では、宇都宮氏を出自とする塩谷朝業を塩谷氏の創始とし、朝業以前に存在したとされる源姓塩谷氏(朝業以降の塩谷氏は藤姓)の存在を肯定していなかったが、その後の研究により、源姓塩谷氏の存在を肯定する文献が見つかり、源姓塩谷氏が肯定された実例もあるので、この説を完全否定する事は出来ない。
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