紀子と三島由紀夫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:46 UTC 版)
紀子が1歳の赤ん坊の時、三島夫妻は、同居している梓と倭文重に紀子を預けて、2人だけで3か月ほどアメリカ、ヨーロッパ、エジプト、香港に海外旅行に出かけた。三島はディズニーランドに行った際に、ドナルドダックの絵葉書を買って紀子宛てに、「のり子ちゃん元気ですか? お父様とお母様はディズニィ・ランドへ行きました。とても面白く、のり子ちゃんの喜びさうなものが一杯ありました」と書き、「元気でね絵本とお帽子を送りました」と締めくくっている。 紀子が4歳の時に、軽井沢滞在中の川端康成から紀子に可愛い鞄が贈られ、喜ぶ紀子の様子を三島は嬉しそうに、「早速『幼稚園のピクニックにもつていく』と、大喜びで飛んだり跳ねたりしてをります」と川端への礼状に報告している。 その約半年前に三島は、子供が生れたての赤ん坊の頃は、「怪物的であつて、あんまり可愛らしくないので、これなら溺愛しないでもすみさうだ」と安心していたが、少し成長してくると「これは並々ならぬ可愛いもの」だと不安を感じたとし、「人から見て可愛くも何ともないものが可愛くみえるといふことは、すでに錯覚である。困つたことになつたものだと私は思つた」と語っている。 子供が可愛くなつてくると、男子として、一か八かの決断を下し、命を捨ててかからねばならぬときに、その決断が鈍り、臆病風を吹かせ、卑怯未練な振舞をするやうになるのではないかといふ恐怖がある。そこまで行かなくても、男が自分の主義を守るために、あらゆる妥協を排さねばならぬとき、子供可愛さのために、妥協を余儀なくされることがあるのではないか、といふ恐怖がある。(中略)静かな道の外灯のあかりに、影法師が出た。これを見て、私はギョッとした。家人と私との間に、ちやんと両方から手を引かれた小さな影法師が歩いてゐる。(中略)動物的必然とはいひながら、正に人間と人生のふしぎである。(中略)私は、何ともいへぬ重圧的な感動に押しひしがれ、もう観念しなければならぬと思つた。 — 三島由紀夫「子供について」 三島と楯の会候補生の陸上自衛隊体験入隊中に助教官を務めた江河弘喜は、自分の初めての子供(女児)の名付けを三島に依頼した。候補名を3つ挙げた手紙の中で三島は自身の経験をふまえて、「どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく」と祝福しながら、「人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が驚きであり㐂びであり、……天の啓示の如きものを感じますね」と綴って、ピンクと水色の産着2着を江河に贈ったという。 1970年(昭和45年)11月25日の自決の日、三島は楯の会の4名と車で市ヶ谷駐屯地へ向かう途中、学習院初等科校舎近くの手前に一時停車した際に、「わが母校の前を通るわけか。俺の子供も現在この時間にここに来て授業をうけている最中なんだよ」と、紀子のことを気にかけていたという。
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