紀尾井町事件へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:50 UTC 版)
「紀尾井坂の変」も参照 決起6人に斬姦状も揃い一同は5月7日、8日に最後の会合を行い4と9の日は大久保が太政官に出仕する事を突き止め5月14日を決行日とし又、襲撃場所は北白川宮邸(現・赤坂プリンスホテル付近)と壬生邸(現・ホテルニューオータニ付近)に挟まれた人通りの少ない路上と決めた。 1878年(明治11年)5月14日の朝、一同6人は四谷尾張町林屋に合流し7時30分頃、斬姦状を懐にして宿を出て決行予定地に赴くやそれぞれの持ち場に散会し大久保を待った。翌15日、東京日日新聞に報じられた事件の大要は以下のとおりである。 大久保は午前8時に馬車にて裏霞が関の大久保邸を出、紀尾井町1番地に差し掛かった。ここは進行方向右に北白川宮邸の裏にあたり、左には華族壬生邸であった。両側とも小高い土手を築き道との間には夏草が人の丈以上に一面に生い茂っていた。早朝といい今にも雨の降りそうな天候であり、道行く人も無い路上に2人の若い男(長連豪、脇田巧一)が手に花束を持ち佇んでいた。 先払いの馬丁芳松が2人の前を駆け抜けた頃、遅れて馬車は赤坂御門を左に曲がり壬生邸に差し掛かった時、今曲がって来た角にある街厠の陰から4人の男(島田一郎、杉村文一、杉本乙菊、浅井寿篤)が現れ各々表衣を肩脱ぎ両袖を腹の辺りに束ね、白い筒袖の肌着のままで手に手に刀を抜き放ち、左右同時に馬の前足を薙ぎ倒した。馬は堪らず足を折り一声嘶いて倒れ臥した。駆者太郎は驚いて手縄を放し「狼藉者!」と叫んだところを凶徒によって一刀のもとに肩先から乳の下まで切り下げられ敢えなく落命した。6人は馬車の上に駆け上がった。内務卿が車の左から地上に降りようとしたところを1人の凶徒が大久保の手を力一杯掴んで頭目掛けて刀を振り下ろし、眉間より目際まで削ぎ取った。その後、大久保を車より引き出し、血溜まりの中に倒れた大久保に対して一同は乱刃を浴びせた。最後は短刀を抜き放った1人が頸の横から鍔元まで貫きとどめを刺した。時は8時30分頃のことであった。 一行は刀を近くの藪に棄て予ねてからの打ち合わせ通り自首するために仮御所に向かった。これより先、馬丁はすわ大変と宮内省に駆け込んだ。すでに参朝していた陸軍中将西郷従道はこの変を聞きつけ馬車にて紀尾井町に駆け付けた。すでに大久保は事果てた後であり1間ばかり三ヶ所に血潮夥しく流れ馬車の轍にも数ヶ所の刃の痕あり、空しく骸のみ横たわっていた。中将は車を降り警部に検死の済んだ事を確かめ自ら指揮を執り遺骸を毛布に包み車に載せ内務卿邸に急いだ。
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