紀州の海女説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 07:52 UTC 版)
梅原猛は、『海人と天皇』新潮文庫(9503)で、宮子は不比等の養女であり、紀州の海女であったとする説を考証している。 「文武天皇が持統太上天皇と共に大宝元年(701)に紀伊国の牟婁の湯に行幸した時、美しい海女を見初めたが、いくら美女でも海女の娘では后にはなれないので、権力者・不比等が一旦養女とし、藤原の貴種として嫁入りすることとなった」というのである。 もともとこの伝説は、室町時代に初演された能『鐘巻』で最初に記録されている。紀州の海女が海から小さな観音像を拾い上げ、その御利益で光り輝く美人となり雲居に召され、その両親への恩返しのために紀州に道成寺を建てたとされたが、『鐘巻』に宮子の名は登場しない。江戸時代になると、宮子と文武天皇の物語として道成寺等が流布するようになった。近年の発掘調査で、道成寺が観世音寺式伽藍の寺であることが確認され、福岡県の太宰府観世音寺や宮城県の多賀城観音寺で行われたような、日本の東西南北の鎮護を祈る儀礼が道成寺でも行われた可能性が示された。藤原宮子と道成寺を関連させて語る伝説は、道成寺での観世音寺式儀礼を目立たない形で語り継ぐ手段だったと解釈されている。
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