紀国守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 17:13 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動紀 国守(き の くにもり)は、平安時代初期の貴族・医師。常陸介・紀真人の子。官位は従五位下・典薬頭。
経歴
仁明朝の承和元年(834年)外正五位下に昇叙され、承和3年(836年)には内位の従五位下への叙位を受ける。承和9年(842年)に弟・魚守と共に、臣姓から朝臣姓に改姓する(この時の官位は外従五位下・侍医)[1]。のち内薬正・典薬頭を歴任した。
逸話
春宮(貞明親王(のち陽成天皇)か?)が腹痛を伴う病気となった際、硝石から成る薬品を調合し「この薬を服用した後、一旦悩み苦しむが、のちに効果が現れるはずである」と言った。春宮が薬を服用したのち、もだえ苦しみ始めたため、国守は春宮帯刀所に送られた。帯刀舎人らは剣を抜いて、「もし春宮が崩じることがあれば、当然国守を刺し殺すべきだ」と言ったが、結局、薬の効果により春宮の病気は快癒した。後日国守は「春宮に万一のことがあったなら、国守の命もなかっただろう」と言って、医道を止めてしまい、子孫にも医道を伝えることはなかった(『古事談』)[2]。
国守は家業として医道を伝えて来たが、紀氏の衰退から脱却するために、新しく家を継ぐ者には紀伝道を学ばせるという遺誡を残し、子息の貞範は紀伝道を学んだという(『三国伝記』)[3]。
官歴
『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天長4年(827年) 正月21日:外従五位下
- 承和元年(834年) 正月7日外正五位下
- 承和3年(836年) 正月7日:従五位下
- 承和9年(842年) 3月8日:臣姓から朝臣姓へ改姓[4]
- 時期不詳:内薬正。典薬頭[5]
系譜
脚注
参考文献
紀国守(き の くにもり)
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「応天の門」の記事における「紀国守(き の くにもり)」の解説
長谷雄の祖父。代々の医師の家系で、名高い内薬正だったが、子孫には紀伝道を学び文章博士になるよう勧めた。
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