藤姓足利氏滅亡の時期について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 15:12 UTC 版)
「足利俊綱」の記事における「藤姓足利氏滅亡の時期について」の解説
志田義広の蜂起と野木宮合戦は、寿永2年(1183年)2月に起こったことが『吾妻鏡』の切り貼りの誤謬により養和元年(1181年)閏2月に挿入されたものと見られている。従来は足利俊綱の滅亡は志田義広の蜂起に連動したものであり、俊綱滅亡の9月の記事も同じく養和元年(1181年)条に誤って挿入されたものと考えられてきた。 一方で九条兼実の日記『玉葉』養和元年(1181年)8月12日条には「伝え聞く、足利俊綱頼朝に背くの聞こえあり」とある。時期的に『吾妻鏡』の日付と符合しており、以後は貴族の日記に俊綱の名が現れることはない。また、俊綱追討軍を率いた和田義茂は頼朝の寝所警護衆であるが、『吾妻鏡』寿永元年(1182年)12月7日条が最終所見で以後は姿を消すため、寿永2年(1183年)には死去していた可能性もある。養和元年(1181年)は源姓足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、佐位七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど、藤姓足利氏は外圧と内部崩壊の危機に晒されていた。折りしも平氏政権は藤原秀衡を陸奥守、城助職を越後守に任じるなど各地の有力者を味方に引き入れようと躍起になっており、追い詰められた藤姓足利氏が平氏政権の勧誘によりこの時期に蜂起する蓋然性は高いといえる。その場合、足利忠綱は養和元年(1181年)に帰順した子息兄弟に含まれており、寿永2年(1183年)に再び頼朝に反抗したとも考えられる。 もっともこれに対しては、養和元年(1181年)閏2月条には前年の夏に志田義広が以仁王の令旨を受けた事が明記されており、以仁王の乱の翌年にあたる養和元年に志田義広の蜂起と野木宮合戦の記事を置くことを単純な切り貼りの誤謬で片づけることにも疑問が出され、志田義広の蜂起と野木宮合戦を養和元年(1181年)閏2月の出来事が正しいと解した方が時系列として無理なく説明できるとする説もある。
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