以仁王の令旨とは? わかりやすく解説

以仁王の令旨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:38 UTC 版)

以仁王の挙兵」の記事における「以仁王の令旨」の解説

治承4年1180年4月9日源頼政謀った以仁王は、「最勝親王」と称し諸国源氏大寺社に平氏追討令旨下した皇太子どころか親王ですらなく、王に過ぎない彼の奉書形式命令書は、本来は御教書と呼ばねばならないが、身分冒してこう称した原文『吾妻鏡』『平家物語』納められているが、令旨としての形式不備があり、史料によって文言異同がある。内容は自らを壬申の乱天武天皇なぞらえ皇位だまし取る平氏討って皇位に就くべきことを宣言するものであった『平家物語』には、挙兵呼びかける諸国源氏の名が列挙されている。源光信美濃源氏)、多田行綱多田源氏)、山本義経近江源氏)、武田信義一条忠頼安田義定甲斐源氏)、伊豆源頼朝陸奥源義経などの名があるが、当時重要人物欠落錯誤多く後世の創作考えられている。その一方で以仁王園城寺退去以後に1通の文書作成しており、これが令旨であった可能性指摘されている。これは『愚管抄』以仁王滞在している間に「宮の宣」が出されたというもので、『平家物語』においては5月19日源行家伊勢神宮納めたとされる願文にも「最勝親王の勅」というものが登場し4月9日令旨類似する部分もあるものの、5月15日園城寺逃れた件まで引用されている。つまり、園城寺逃れた直後作成されたもので、行家が(4月9日令旨ではなく)これに基づいて活動しているというものである。宣者が源仲綱頼政の子になっており作成日時が頼政らが合流した22日以後になるという矛盾はあるものの、「最勝親王の命」・「一院第三親王の宣」という命令書が出されて王の没後流布していたことが『玉葉』や『明月記』にも登場すること(ただし、両書とも以仁王生存説かこつけた偽書推測しているが、両者とも実物見ていない)から、4月9日令旨創作としても、園城寺入った後に「以仁王の令旨」と呼ばれるのに相応し文書作成され『吾妻鏡』先行して成立したとみられる『平家物語』がそれをモデルとした可能性考えられる。 この令旨伝達する使者には、熊野隠れ住んでいた源行家源為義末子)が起用された。行家は八条院蔵人で、以仁王と近い関係にあった。行家は令旨日付と同じ4月9日に京を立ち、諸国廻った4月27日には、山伏姿の行家が伊豆北条館訪れ源頼朝令旨伝えたという。

※この「以仁王の令旨」の解説は、「以仁王の挙兵」の解説の一部です。
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