熊野動乱と湛増の立場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 14:50 UTC 版)
治承・寿永の乱初期における湛増の立場や動向を述べる説には諸説があり、今のところ一致を見ていない。 『覚一本平家物語』や『源平盛衰記』では、湛増が冶承4年(1180年)4月終わり頃から5月初め頃にかけて熊野本宮勢力を統率して反平氏方の熊野新宮勢力や熊野那智勢力を攻め、以仁王の令旨のことを平氏に報せたとされており、その記載の影響で湛増は治承・寿永の乱初期において親平氏であったと見られることが多い。しかし、『覚一本平家物語』などよりも成立年代が古いとされる『延慶本平家物語』では、以仁王の令旨のことを六波羅の平氏に報せた人物は湛増ではなく「熊野別当覚応法眼」(別名「オホエノ法眼」、「六条判官為義ガ娘ノ腹」、「平家ノ祈師」)とされている。その一方で、『玉葉』などに書かれているように、湛増の属する田辺別当家と新宮別当家との間、また田辺別当家内部でも権別当の湛増と弟湛覚との間で家督や主導権を巡る争いはあったが、治承・寿永の乱初期の段階において湛増が平氏方であったかどうかを断じることができないとする見解もある。 これに対して、『延慶本平家物語』に描かれた、冶承4年(1180年)4月終わり頃から5月初め頃にかけて起こった「熊野新宮合戦」に出てくる本宮勢の大将「田辺法橋覚悟」や以仁王令旨の注進者「熊野別当覚応法眼」について、「僧綱補任」や「熊野別当代々次第」諸本、「熊野別当系図」(那智山実報院道昭法印家本)、『平家物語』諸本などを検討した結果、彼等は架空の人物であったか、実在の人物の名前を間違って記した可能性があり、『覚一本平家物語』などを手掛かりに実在の人物として湛増の活躍を肯定する見解が出されている。この見解に従えば、以仁王・源頼政らの挙兵前後の段階において、湛増は親平氏の立場から、いわゆる熊野動乱以前の「熊野新宮合戦」で本宮勢の指導者として活動していたことになる。
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