くまの‐さんけい【熊野参詣】
読み方:くまのさんけい
⇒熊野詣で
熊野参詣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:55 UTC 版)
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熊野参詣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 04:18 UTC 版)
平安時代中期ごろから、熊野三山が阿弥陀信仰の聖地として信仰を集めるようになると、法皇・上皇などの皇族、女院らの参詣(熊野御幸)や貴族の参詣が相次ぐようになった。 その嚆矢は907年の宇多上皇とされ、鎌倉時代まで盛んに参詣が行われた。1081年には藤原為房(『為房卿記』)、1201年には後鳥羽上皇(藤原定家著『後鳥羽院熊野御幸記』)、1254年には藤原経俊(『経俊卿記』)が参詣したことが文献に記されているが、白河上皇、後鳥羽上皇などのように何度も参詣する例もあった。 室町時代以降は、上皇や貴族に代わって武士や庶民の参詣が盛んになった。その様子は、蟻の行列する様に例えて「蟻の熊野詣」と言われるほどの賑わいだったという。江戸時代には伊勢詣と並び、庶民が数多く詣でたという。熊野信仰の御利益を説く、小栗判官を題材とした説教本『をぐり』が出版されたり浄瑠璃として演じられたりしたのもこの頃であった。 室町時代以降は、熊野御幸の御師をつとめた熊野修験が参詣経営から後退したため、畿内からの熊野への参詣道が複数成立するようになり、渡辺津から紀伊田辺までを紀伊路、紀伊田辺から熊野本宮までを中辺路と区分するようになった。これにともない、熊野街道の称は熊野へ通ずる街道を全体として総称する、やや曖昧な用語になった(注1)。 (注1)同じく熊野古道のひとつ小辺路も、熊野(街)道と称されることがあるが、歴史的由来からすると(少なくとも参詣道としては)比較的浅いものである。 明治以降は熊野への参拝は少なくなり、街道は鉄路の発達や近代的道路の整備などによりその道筋や機能を失っていく。しかし、熊野に近い山間部には、今なお当時の姿を残す熊野古道があり、貴重な歴史的遺産および地元の観光資源として重要な役割を果たしている。
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