平家物語の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:55 UTC 版)
『平家物語』には多くの異本があるが、以下は現在最も流布する、覚一本系の高野本[1][2][3][4]の内容である。
注釈
- ^ この数え方は24歳で死んだ清盛の次男平基盛を飛ばしている。
- ^ これらは安元3 (1177)以後のこと。
- ^ これは治承3年の政変後のこと。
- ^ 『愚管抄』によれば、この事件の報復を命じたのは、清盛ではなく重盛。
- ^ 「俊寛沙汰鵜川軍」から「一行阿闍梨之沙汰」に至る一連の事件と、鹿谷の陰謀との関係が、平家物語はわかりにくい。早川厚一や川合康の説は、清盛が後白河から比叡山攻めを命じられたため、それを拒否するために「鹿谷の陰謀」を捏造して、後白河院の側近を排除したとする。
- ^ 俊寛は鬼界が島でいつ死んだか、信頼できる資料はない。なぜ赦免されたのが2人だったのか、赦免時にすでに死んでいたとすれば自然に説明できる。
- ^ 『方丈記』や『明月記』によればこれは治承4年のこと。
- ^ 『玉葉』によれば重衡・維盛軍。
- ^ 頼朝は以仁王の宣旨を受けたが、後白河院の院宣をこの時受けた史実はない。
- ^ これは平兼盛の歌。
- ^ 市古貞次の編集では玄肪、岩波書店の編集では還亡。
- ^ 寿永二年十月宣旨は、徴税権など頼朝の東国支配を認めたもの。頼朝の征夷大将軍就任は1183年ではなく、1192年。
- ^ 『玉葉』によれば大将は重衡。
- ^ 『吾妻鏡』によれば70騎。
- ^ 当時身分が上の者が下の者に対して自ら名乗る必要はなかった。
- ^ この乱は平定までに3日ではなく1ヶ月余要した。平家物語の作者は三日平氏の乱 (鎌倉時代)と混同したのかもしれない。
- ^ 『吾妻鏡』によれば基盛の子平行盛。
- ^ これは範頼への酷評。『吾妻鏡』によれば範頼は屋島攻撃はしなかったが、葦屋浦の戦いをして九州を平定した。
- ^ 戦いの途中に潮の流れが変わったという記事は、平家物語にも、当時の他の記録にもない。
- ^ 『吾妻鏡』は教経は一ノ谷で戦死したと書いている。一方『玉葉』は首渡の時点で教経は現存と書く。
- ^ 平家物語のすべての巻に登場する唯一の人物が後白河法皇である。
出典
[続きの解説]
- 平家物語の内容のページへのリンク