平時子とは? わかりやすく解説

たいら‐の‐ときこ〔たひら‐〕【平時子】

読み方:たいらのときこ

[?〜1185]平清盛の妻。重盛宗盛知盛重衡徳子の母。三后に准ぜられ、清盛没後剃髪して二位の尼称された。壇ノ浦の戦い安徳天皇抱いて入水


平時子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 12:31 UTC 版)

平 時子(たいら の ときこ、大治元年(1126年) - 元暦2年3月24日1185年4月25日)は、平安時代末期に活躍した平清盛継室位階従二位二位尼(にいのあま)として知られる。下級公家の平時信の女で、母は二条大宮(令子内親王)の半物(はしたもの、下仕えの女房のこと、氏素性は未詳)[1]権大納言平時忠の同母姉、平滋子(建春門院)の異母姉あるいは同母姉、能円の異父姉にもあたる[2]。清盛との間に宗盛知盛徳子(建礼門院)重衡らを生む。


注釈

  1. ^ 清盛女が八十島典侍として下向した記事があるが[3]、八十島典侍は天皇の乳母が務めるものであり、清盛女は清盛室の誤りであるとされている(五味文彦)。
  2. ^ 同日滋子も従三位に叙せられている。清盛は東宮大夫だった。

出典

  1. ^ 吉記治承5年(1181年)5月28日条
  2. ^ 『日本人名大辞典』. 講談社 
  3. ^ 『山槐記』同年12月15日条
  4. ^ 山槐記』同日条
  5. ^ 五味文彦『平清盛』吉川弘文館<人物叢書>、1999年
  6. ^ 元木泰雄『平清盛の闘いー幻の中世国家』角川叢書、2001年
  7. ^ 兵範記』同日条
  8. ^ 百錬抄』治承4年6月10日条
  9. ^ 平家物語
  10. ^ (4959) Niinoama = 1958 TZ = 1966 CB = 1968 MC = 1972 EB = 1979 OU13 = 1980 TG1 = 1980 TS8 = 1984 OO = 1985 OD = 1986 VS1 = 1989 FE1 = 1991 PA1”. 2022年8月7日閲覧。


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遮那王義経」の記事における「平時子」の解説

通称二位尼平清盛の妻で平家兄弟の母。壇ノ浦の戦い敗北決まったあと、知盛の言を入れすべての財宝を海に捨てと言い、帝とともに入水自決する。その際清盛幻影を見つつ息を引き取る

※この「平時子」の解説は、「遮那王義経」の解説の一部です。
「平時子」を含む「遮那王義経」の記事については、「遮那王義経」の概要を参照ください。

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