高棟流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 12:35 UTC 版)
葛原親王長男の高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。 高棟は大納言まで進み、三男の惟範、その子の時望・伊望、時望の孫平惟仲も議政官まで栄達している。その後時望の孫親信の子孫は代々受領を務める中級貴族として存続する。親信の孫・範国の家系は平安末期には後白河法皇の寵愛を受けた建春門院平滋子が高倉天皇を産んだことで、弟の平時忠や姉の平時子(二位尼)、そして時子が嫁いだ平清盛を始めとする平家一門の繁栄を招いた。時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。江戸時代には西洞院家とその庶流平松家・長谷家・交野家・石井家が堂上家となった。さらに地下家の生島家もこの系統である。親信のもうひとりの孫行親の流れは鎌倉時代前期に平経高を輩出するも、その後は振るわなかった。この両流は歴史物語の『今鏡』に、「日記の家」と紹介されているように『平記』、『兵範記』・『平戸記』をはじめ多くの古記録を残している。 時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、能登国輪島の豪農・時国家は時忠が流刑先で儲けた子・時国の後裔を称している。江戸時代には天領大庄屋を勤め、上時国・下時国の二家に分かれている。
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