平時の運用
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「パーミャチ・メルクーリヤ (防護巡洋艦)」の記事における「平時の運用」の解説
黒海艦隊では、新たに配備した巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」をそれぞれ、前者は水雷分艦隊に、後者は戦列艦戦隊に配属した。 1909年5月29日23時27分、夜間雷撃訓練中であった黒海艦隊で衝突事故が発生した。練習艦隊の旗艦「ロスチスラフ」が潜水艦の 1 隻に衝突、これを誤って沈めてしまったのである。事故現場の近くにいた「パーミャチ・メルクーリヤ」は一人の潜水艦乗員を救出したが、彼は潜水艦「カンバラ」の指揮官 M・M・アクヴィローノフ海軍中尉であり、事故発生時には司令塔(英語版)にいたが、船外に吹き飛ばされて冷たい海上を漂っているところを「パーミャチ・メルクーリヤ」に救助されたのである。彼以外に助かった者はおらず、潜水艦分遣隊長の N・M・ベールキン 2 等佐官以下、 20 名が殉職した。潜水艦は真っ二つになって、深さ 57 m の水底に沈んでいるのが確認された。この事件の責任をとって、黒海海軍長官 I・F・ボストレム(ロシア語版)海軍中将は任を外れた。 1909年12月5日にミハイル・ニコラエヴィチ大公がフランス・カンヌで没すると、ビゼルトで僚艦とともに訓練に従事していたバルト艦隊所属の巡洋艦「ボガトィーリ」が、その遺体を祖国まで送り届けるよう命が下った。オスマン帝国政府の許可の下、「ボガトィーリ」は地中海からオスマン帝国管轄のダーダネルス・ボスポラス両海峡を抜けてセヴァストーポリを訪問することになった。「パーミャチ・メルクーリヤ」と「カグール」は、「ボガトィーリ」がボスポラス海峡を抜けてセヴァストーポリに入港するまで護衛を担当した。 「パーミャチ・メルクーリヤ」では、1910年末までにようやく昇降機とレールが調整された。明けて次年度の活動が開始した1911年4月16日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」は黒海作戦艦隊長官 V・S・サルナーフスキイ(ロシア語版)海軍中将の提督旗を掲げた戦列艦「イオアン・ズラトウースト」以下、戦列艦「ロスチスラフ」、巡洋艦「カグール」、輸送船で工作艦の「クロンシュタット」、第 5 水雷艇予備隊とともに艦隊を編成してカフカース沿岸へ向けて出港した。艦隊はノヴィ・アフォン沖で軍事演習を行った。しかし、日露戦争での精鋭の喪失と第一革命での士気の低下は深刻で、艦隊の訓練成果は辛うじて落第を免れる程度であった。艦隊は最初、 10 kn の航行速度を保つのがやっとであった。「パーミャチ・メルクーリヤ」では、 152 mm 砲の射撃訓練で以前は 57 % の命中率を記録していたのが、今次は 36 % に達するのがやっとであった。艦隊は6月7日に一旦中止され、艦船は予備役に入れられた。潜水艦沈没事故で任を外れていた I・F・ボストレム海軍中将が黒海艦隊司令官に復職すると、7月1日に訓練は再開された。7月9日には、艦隊はドナウ川河口で第 5 水雷艇隊と水雷攻撃への対処訓練を実施した。ベリベーク川(ウクライナ語版)河口での一連の訓練を終えた艦隊は、7月21日にオデッサへ移動し、その後ジェブリヤン(ウクライナ語版)投錨地に向かった。7月26日には、カーチャ川(ウクライナ語版)河口で夜間の水雷攻撃への対処訓練を実施した。その後。イェウパトーリヤに連泊し、さらにもう一度、水雷攻撃への対処訓練を実施した。セヴァストーポリへの帰路は、ポルト=アルトゥールでの戦訓を元に、掃海船を先頭に立てて航海した。 8月9日には、「パーミャチ・メルクーリヤ」は黒海艦隊司令官旗を掲げた戦列艦「ロスチスラフ」以下、「イオアン・ズラトウースト」、「エフスターフィイ」、「パンテレイモン」、巡洋艦「カグール」、第 2 水雷艇隊とともにバトゥーミへ向かった。艦隊はバトゥーミへは寄港せずにアナトリア沿岸を回り、航海訓練に従事した。トラブゾン、サムスン、スィノプ、エレーリを訪問した。8月9日には、アナドルフェネリから 3 海里の海上までボスポラス海峡へ接近した。その後、艦隊はルメリアを周回してイーネアダ(英語版)を経由し、そこからブルガリア王国へ向かってブルガスへ投錨した。8月19日にはヴァルナを訪問し、軍ならびに市民から大きな歓迎を受けた。艦船はヨアンナ王妃の行啓を受け、士官らは郊外の宮殿、エフクシノグラト(ブルガリア語版)へ招かれた。 クリミアへの帰路、巡洋艦と水雷艇は 18 kn の速度で航行し、艦隊は標的を用いた射撃訓練を実施した。この航海は、艦隊にとって黒海全周にわたる、途中で補給を受ける最初の自立した航海となった。9月6日には、艦隊は海軍大臣(ロシア語版) I・K・グリゴローヴィチ(ロシア語版)海軍中将が黒海艦隊を視察に訪れ、9月8日には、皇帝ニコライ2世の行幸を受けた。 黒海艦隊は9月にはルーマニア王国の港湾都市コンスタンツァを訪問し、ブルガリアにおけるのと同様の歓待を受けた。ルーマニア市民は戦列艦「パンテレイモン」を訪問し、見学した。帰路、艦隊は海軍大臣の診察の下、機動演習に従事したが、途中で一旦中止を余儀なくされた。9月19日、隊列の先頭を走っていた戦列艦「パンテレイモン」と、それに続いていた「エフスターフィイ」が座礁し、浸水を含む大きな損傷を負ったのである。両艦はセヴァストーポリへ引き返して修理が必要となったが、残りの艦船は演習を続行した。その引責としてボストレム海軍中将は艦隊司令官を辞任し、10月29日付けで A・A・エベルガールト海軍中将が艦隊司令官へ任官した。 1911年から1912年にかけて、黒海艦隊では再び革命運動が影を伸ばしていた。これに対し、政府は蜂起計画の容疑者を次々に逮捕したが、1912年6月から7月にかけての期間に、戦列艦「イオアン・ズラトウースト」、「エフスターフィイ」、「パンテレイモン」、「シノープ」、「トリー・スヴャチーチェリャ」、巡洋艦「カグール」ならびに「パーミャチ・メルクーリヤ」から 500 名の逮捕者を出した。
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