イェウパトーリヤとは? わかりやすく解説

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イェウパトーリヤ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/28 09:00 UTC 版)

イェウパトーリヤ
Євпаторія
Евпатория
Кезлев
位置

イェウパトーリヤの位置
位置
イェウパトーリヤ
イェウパトーリヤ (クリミア)
イェウパトーリヤ
イェウパトーリヤ (ウクライナ)
イェウパトーリヤ
イェウパトーリヤ (黒海)
座標 : 北緯45度12分 東経33度21分 / 北緯45.200度 東経33.350度 / 45.200; 33.350
行政
ロシア(事実上)
 ウクライナ国連総会決議
 行政区画 クリミア共和国
クリミア自治共和国
 基礎自治体 イェウパトーリヤ英語版
イェウパトーリヤ
地理
面積  
  域 120 km2
標高 10 m
人口
人口 (2015年現在)
  域 106,100人
  備考 [1]
その他
等時帯 モスクワ時間 (UTC+3)
市外局番 +380-6569
公式ウェブサイト : http://www.kalamit.info

イェウパトーリヤウクライナ語: Євпато́рія,ロシア語: Евпатория, Yevpatoriya)は、クリミア半島にある都市で、基礎自治体イェウパトーリヤ英語版に属す。クリミア・タタール語の呼称はケズレブ(Кезлев,Kezlev)

歴史

このエリアでの居住に関して、最初に記録に残っているものとしては、紀元前500年ごろのギリシャ植民者によって建てられた"Kerkinitis"と呼ばれた居住地である。他のクリミア地方と同様に、ポントス王国のミトリダテス6世の支配地の一部であった。7世紀から10世紀頃、イェウパトーリヤは、ハザール語で"Güzliev (美しい家)"という名のハザールの居住地であった。 その後、クマン人モンゴル人クリミア・ハン国の影響を受けた。その間、街はクリミア・タタール人には"Kezlev"、オスマントルコ人には"Gözleve"と呼ばれていた。中世のロシアにおける"Kozlov"という名前は、クリミア・タタール人の都市名がロシア化されたものである。1478年から1485年までの短期間、街はオスマン帝国の支配を受けた。その後、クリミア・ハン国の中心地となった。1783年、クリミア半島全体がロシア帝国により併合された。1784年街の名前が"Evpatoriya"に改名された。クリミア戦争中の1854年、イギリス軍、フランス軍、トルコ軍によって街は占領された。ロシアによるクリミア半島の併合の後、イェウパトーリヤはクリミア・カライムの指導者"Gakham"の拠点となった。

現在も280人ほどのユダヤ人、130人ほどのクリミア・カライム人が生活している。主要民族はロシア人71.06%、ウクライナ人13.37%、クリミア・タタール人6.32%など

交通

施設

出身人物

姉妹都市

脚注

  1. ^ population.city”. 2023年5月2日閲覧。

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