概要・運用
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片側に流線形の前面を有するボギー車で車体デザインは71-616に準拠しており、右側面4箇所にプラグドア式の乗降扉を有し、総括制御による連結運転も可能な構造であった。電気機器もサイリスタ位相制御に対応したものが搭載されていたが、71-616が海外製(シーメンス製)であった一方、71-619はロシア連邦・モスクワのクロスナモーター(ЗАО "КРОСНА-ЭЛЕКТРА")が開発した主電動機「MRK-1」(МРК-1)やサンクトペテルブルクのラジオポール(Радиопри бор)製の制御装置(サイリスタ位相制御方式)が採用され、機器の国有化が図られた。制動装置は発電ブレーキ、ドラムブレーキ、電磁吸着ブレーキが用いられた。 1998年から1999年にかけて2両が製造され、チェリャビンスク市電に導入された1両は71-616と同様に強制換気・暖房機能を有する空調装置が搭載され側窓が固定式となっていた一方、モスクワ市電向けの1両は空調装置が搭載されておらず、上部の小窓が開閉可能となっていた。両車とも導入後は営業運転に使用されたが、国内製電気機器の信頼性の低さにより故障が相次ぎ、早期に運用を離脱した。そのうちモスクワ市電向けの1両については2005年にツシノ技術工場(Тушинский машиностроительный завод)に修繕のため送られた後、2008年に路面電車修理工場(ロシア語版)(TRZ、ТРЗ)でモスクワのEPRO(ЭПРО)が製造した誘導電動機の搭載が行われ、形式名も「KTMA(КТМА)」に改められている。
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概要・運用
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「韓国鉄道6300形ディーゼル機関車」の記事における「概要・運用」の解説
1969年2月10日に登場した、ソウル駅 - 釜山駅間を結ぶ空調装置搭載の優等列車・観光号(관광호)が同年6月10日から本格的な営業運転を開始するにあたり導入された旅客用ディーゼル機関車。従来導入されていたアメリカ製のディーゼル機関車と比べ車体寸法が小型化した事により運転整備重量が減少し、軸重も16.5tとなり導入時に韓国鉄道庁が所有していたディーゼル機関車の中で最も軽い数値を記録した。また最高速度150km/hの高速運転を実現させるため出力は2,000馬力と従来の車両から向上し、登場時の減速比も2.85(57:20)と高速運転に適した構造となった。その一方で蒸気発生装置は搭載されず、燃料搭載量も半減した。 7000形の導入により観光号の所要時間はそれまでの5時間45分から4時間50分へ大幅に短縮し、1974年にセマウル号と改称して以降も韓国の重要幹線である京釜線の主力として活躍した。また、1970年代まで一部車両のショートノーズ側に0系新幹線に類似した流線型のカバーが被せられていた。一部車両はしかし1977年以降より強力な3,000馬力の旅客用機関車である7100形や7300形の導入が始まった事で第一線から退き、更に1986年11月に登場したセマウル号牽引用ディーゼル機関車の形式名が7000形と同一になった事で、それに先立つ4月1日に形式名を6300形に改めた。また減速比についても後年に4.13(62:15)に改められた。 1997年初頭の時点で2両が残存し、京元本線のピドゥルギ号牽引などに使用されたが、9501系気動車導入により同年6月16日をもって引退、その後廃車された。
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概要・運用
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ロシア連邦の輸送用機器メーカーであるウラルトランスマッシュは、チェコの企業連合であるアライアンスTWとライセンス契約を結び、同連合が展開する部分超低床電車のヴァリオLFを基にした標準軌(軌間1,435 mm)向け車両である71-412を開発している。この項目で取り上げる71-411は、この71-412を基に狭軌(軌間1,000 mm)の路面電車に適した車両として開発された車両である。 車体の片側に運転台や乗降扉が設置されているボギー車で、狭い車両限界や急曲線を有する路線向けに設計が行われており、最小通過半径は14 mとなっている他、車幅も71-412(2,490 mm)より狭い2,200 mmとなっている。また、既存の車両(タトラT3SU)から台枠など一部部品を流用する前提で設計された71-412と異なり、71-411は車体を含めた全ての部品が新造されている。そのうち台車は整備が不十分なレールの上でも安定した走行や振動の抑制が可能となるよう設計がなされている。 低床部分は車体中央に存在しており、車内全体の40 %に該当する。この部分にはベルトや音響・視覚情報案内装置を備えた車椅子用のフリースペースが設置されている他、両開き式の乗降扉付近には開閉時に点滅するランプが設置されている。 最初の試作車は2019年に完成し、翌2020年からクリミア半島のイェウパトーリヤ(イェウパトーリヤ市電)での試運転が実施された。これを基に、市電を運営する路面電車管理公社(МУП "Трамвайное управление")は同年に27両の量産車の発注を実施しており、2021年7月23日以降順次営業運転に投入されている。これらのうち7両については両運転台車両として発注が行われており、形式名も71-411-03として区分されている。 車内 イェウパトーリヤ市電に導入された量産車(2021年撮影)
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概要・運用
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「バリオバーン (ヘルシンキ市電)」の記事における「概要・運用」の解説
フィンランドの首都・ヘルシンキ市内を走るヘルシンキ市電で初となる、車内全体(100 %)が低床構造となっている超低床電車。1998年に最初の車両が製造され、翌1999年から営業運転に投入された。中間に台車がないフローティング車体を挟んだ片運転台の5車体連接車で、床上高さ380 mmの低床構造を実現させるため台車は車軸がない独立車輪式台車が用いられ、主電動機は各車輪の外側に1基づつ設置されていた(ハブモーター方式)。 製造当初はアドトランツがフィンランドの国内企業であるトランステック(英語版)(現:シュコダ・トランスポーテーション)と共に製造を実施していたが、2001年にアドトランツがボンバルディア・トランスポーテーションへ吸収されて以降は同社が製造を担当した。 2004年までに40両(201 - 240)が導入されたが、営業開始当初からバリオバーンは故障や破損を頻発するという大きな問題を抱えていた。ヘルシンキ市電各所にある急カーブを走行する際、回転軸がない台車を有したバリオバーンは車輪に大きな負担がかかり従来の車両から非常に速い頻度で摩耗が発生した他、線路への負担も大きかった。更に車体の台枠にも亀裂が発生し、導入から10年が経過した2010年代中盤時点でも多数の車両が運用から離脱する事態となり、ドイツの路面電車路線で引退した旧型電車(デュワグカー)を急遽譲受するにまで至った。 製造を担当したボンバルディアはバリオバーンの修繕を実施し、2006年から2007年には連接部や台車の交換も実施された他、2008年以降はヘルシンキ市電を運営するヘルシンキ市交通局との間で10年間の保守に関する契約が結ばれ、運休した車両に応じてボンバルディアが罰金を支払い修繕を実施する事が義務付けられた。だが、それでも低い信頼性の改善には至らず、2017年11月に両者はバリオバーンを営業運転から撤退させる事で合意し、保守契約の期限が切れた2018年までに全車とも営業運転から撤退した。その後はヘルシンキ市電の各車庫で長年留置されていたが、2021年1月に全車とも他都市へ譲渡される事が発表されている。
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概要・運用
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「箱根登山鉄道ケ2形客車」の記事における「概要・運用」の解説
1950年(昭和25年)に導入された2代目車両ケ1形に代わる車両として登場した車両。先代の車両と定員は同数だが、扉数が2箇所に減少した他、前面の形状も2枚窓に変更された。塗装は車体の上半分が銀色、下半分が赤色、窓下に白の帯が入るというものだった。 箱根の観光ルートの一環を担う鋼索線の車両として、登場以降1990年代前半まで多数の乗客を乗せて活躍した。しかし、利用客の増加に伴いケーブルカーの待ち時間も増え、箱根登山鉄道との乗換駅である強羅駅で1時間以上待たされる事も珍しくない事態に陥った。それを受け、箱根登山鉄道は輸送力を強化するため鋼索線の大規模リニューアルを決定。それを受けて1994年(平成6年)の秋から運休を実施した。その際、車両も4代目にあたるケ100形・200形に更新し、1995年(平成7年)3月16日から営業運転を開始したため、本形式は1994年をもって引退している。
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概要・運用
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「箱根登山鉄道ケ1形客車」の記事における「概要・運用」の解説
戦時中の不要不急線として1944年(昭和19年)2月10日に運行休止となった鋼索線は、戦後5年目となる1950年(昭和25年)7月1日に営業運転を再開した。その際に導入された新型車両が本形式である。 戦前に使用されていた木造車両であるケ形とは異なる片側3扉の鋼製車体で、全席クロスシートであったが、制御装置はケ形と同様のギーセライ・ベルン式を採用していた。登場当初の集電装置は小型のビューゲル2基であったが後に小型パンタグラフ2基に改装されている。また、登場当初の塗装は上半分がクリーム色、下半分が薄青色であったが、後に小田急3000形(SE車)の登場に合わせ、窓回りを黄色、下半分と屋根付近を赤色、窓下に白帯、そして前面をV字の金太郎塗りと呼ばれる塗装へと改めている。 1971年(昭和46年)に3代目車両にあたるケ2形が登場するまで使用された。
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概要・運用
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「箱根登山鉄道ケ形客車」の記事における「概要・運用」の解説
1921年12月1日に開通した鋼索線用に、線路や巻き上げ機などの施設や機材と共にスイスから輸入した木造車両。車体は扉がないオープンデッキとなっており、運転台部分にも窓は設置されていなかった。車体は中央部に吹き抜けの荷物室が備わっており、それを境に山上側に並等座席が、山下側に特等座席が設置されていた。塗装は鉄道線のチキ1形と同じものであった。 関東大震災に伴う運行休止期間を含め20年以上に渡って使用されたが、鋼索線が第二次世界大戦中の不要不急線に指定された結果1944年(昭和19年)2月10日に休止され、本形式も運行を停止した。終戦後、路線は1950年(昭和25年)に再開したが、それ以降は2代目にあたるケ1形が用いられている。
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概要・運用
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1993年と1994年に試作された、最大定員450人を目標とした3車体連接車。両運転台車両(LVS-8-1-93)と片運転台車両(LVS-8-2-93)が1両づつ製造され、前者はヴォルゴグラード・メトロトラムに、後者はサンクトペテルブルク市電に導入された。 外見上の特徴は、従来の連接車(LVS-86、LVS-89)と台車の位置が異なり、連接部に設置されていた台車が中間車体に移動した事である。これにより中間車体の全長が長くなった一方、前後車体の全長は僅かに減少した。また、中間車体の中央部には両開き式の折戸乗降扉が連続して配置された他、座席配置も全席進行方向から1人掛けのボックスシートに変更された。運転室は客室から独立しており、独自の乗務員扉が設けられていた。出力は運転台の数によって異なり、片運転台車両は一部が主電動機が搭載されていない付随台車であった。制御装置は電機子チョッパ制御方式が採用された。 ヴォルゴグラード・メトロトラムの両運転台車両は2009年に解体された一方、サンクトペテルブルク市電の片運転台車両は2008年まで営業運転に使用された後、ペテルブルク電気車両博物館(Ретро-трамвай — петербургская классика)の収蔵品として保管されている。片運転台・両運転台車両共に量産化は行われず、LVS-93は2両のみに終わったものの、この形式で試用された連接構造や電気機器は、その後ペテルブルク路面電車機械工場で量産された路面電車車両(LVS-97、LM-99)の開発に活かされた。 片運転台車両の左側面には乗降扉がない(サンクトペテルブルク)
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概要・運用
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ユーゴスラビア崩壊後、クロアチアの首都となったザグレブの路面電車・ザグレブ市電では、車両の老朽化が深刻な問題となっていた。だが、当時はユーゴスラビア紛争(クロアチア紛争)を始めとした混乱により資金難に陥っていた事から、同市電を運営するザグレブ電気軌道(ZET)(クロアチア語版)は既存の車両の機器を用いた車体更新車(機器流用車)を導入する事を決定した。そして半年の開発期間を経た後、コンサール(クロアチア語版)とTŽVグレデリ(クロアチア語版)によって製造が開始された。これがTMK 2100である。 前後車体に動力台車、連接部分に付随台車が設置された3車体連接車で、ループ線が存在する路線での運用を前提としているため乗降扉は右側面のみに設置されているが、前後車体共に運転台が存在する。車体や電気回路はコンサール、構体や制動装置、補助電源装置、主電動機の冷却装置はTŽVグレデリが手掛けた新造品である一方、台車や主電動機はユーゴスラビア時代に製造された電動車(TMK 201)や付随車から流用されている。 1994年9月5日に試作車が公開され、1997年から2003年まで製造された量産車も含めた16両がザグレブ市電に在籍する。この近代化プロジェクトはザグレブの企業が有する高い技術力を示すものとして高く評価され、1998年にクロアチア商工会議所のゴールデン・プラーク賞を受賞している。 乗降扉は右側面のみに存在する(2016年撮影) 新塗装(2017年撮影) 広告塗装(2010年撮影)
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概要・運用
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1990年代以降、世界各地の鉄道車両メーカーがバリアフリーに適した超低床電車の開発に取り掛かり、多数の形式が世界中の路面電車に導入されるようになった。その中で、ポーランドで長年独占的に路面電車車両の生産を行っていたコンスタルが開発した初の超低床電車が112Nである。 片側のみに運転台を有する2車体連接車で、後方車体の連結面寄り、車内全体の24 %が床上高さ340 mmの低床構造になっている。その他の箇所の床上高さは890 mmで、双方の空間を行き来する際には3段のステップを経る必要がある。主電動機は従来コンスタルが製造していた路面電車と同様に直流電動機が用いられる一方、電機子チョッパ制御(サイリスタ位相制御)に対応した制御装置を搭載する事で電力が回収可能な回生ブレーキの導入を可能としており、消費電力が大幅に抑えられている他、スムーズな加減速が図られている。また、車両デザインや内装、運転台の形状も従来の車両から大きく変更され、集電装置もシングルアーム式パンタグラフが用いられている。 1995年に1両のみ試作され、ポーランドの首都・ワルシャワのワルシャワ市電に導入された。当初の車両番号は2014であったが1997年以降3001に変更され、その後は2度の修繕工事を経て2018年現在も他の超低床電車と共に使用されている。 導入初期の塗装の112N
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概要・運用
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鉄道車両製造に関わる3つの企業(プラゴイメックス、クルノフ修理機械工場、VKVプラハ)によって設立された企業グループのアライアンスTWは、独自ブランドの路面電車車両として"ヴァリオ"(Vario)と言う愛称を持つ部分超低床電車を展開している。その中でも、乗客数が多い都心や高速路線向けに設計された3車体連接車については"ヴァリオLF3"という愛称が与えられている。 動力台車が設置されている車端や連接部分(床上高さ860 mm)を除いた車内の50 %が床上高さ350 mmの低床構造になっており、運転台や乗降扉が片側に設置されている車両はヴァリオLF3(VarioLF3)、両側に設置されている車両はヴァリオLF3/2(VarioLF3/2)という形式名が付けられている。両形式とも前後車体の側面に2箇所、中間車体に1箇所、幅1,300 mmの両開き式乗降扉が設置されている。 台車にはクルノフ修理機械工場が開発したボギー台車「コンフォート(KOMFORT)」を用い、垂直に搭載された誘導電動機から自在継手や歯車を介して動力が伝達される垂直カルダン駆動方式が導入されている。主要な電気機器は屋根上に設置され、マイクロプロセッサによる制御・管理が行われている。 ヴァリオLF3、ヴァリオLF3/2共に2020年現在の時点でオストラヴァ交通局(チェコ語版)(DPO)が運営するオストラヴァ市電(チェコ語版)にのみ導入されており、前者は2両(2006年・2007年製)、後者は3両(2008年製)が使用されている。 ヴァリオLF3の後方には運転台がない(2007年撮影)
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「コンスタル102Na」の記事における「概要・運用」の解説
1950年代以降、ポーランドの鉄道車両メーカーのコンスタル(ポーランド語版)(現:アルストム)は、アメリカ合衆国で開発された高性能路面電車・PCCカーの技術を用いた車両の製造を進めていた。その中で1969年以降は2車体連接車の102Nの量産が開始されたが、従来の車両から刷新された車体デザイン、特に車体側へ斜めに傾いた前面窓は前照灯などの光が反射し視認性が低下するという欠点があった。それを受けて改良が実施された形式が102Naである。 102Nで問題とされた前面形状は変更され、従来製造されていたボギー車の13Nと同型へ戻された他、運転台が存在しない後方車体の後部形状も変更が加えられた。一方で車体や機器は102Nと同型であり、前後車体の動力台車や連接部分の付随台車も同形式のものが採用された。 製造は1970年から1973年に行われ、ポーランド各地の標準軌(軌間1,435 mm)の路面電車へ導入され、チェンストホヴァ市電(チェンストホヴァ)やクラクフ市電(ポーランド語版)(クラクフ)では2両編成の連結運転も実施された。また、1973年にはヴロツワフ市電(ポーランド語版)向けに一部機器を変更した102Ndの製造も行われた。一方、狭軌(軌間1,000 mm)の路線向けに同型車両の102NaW(1972年 - 1973年製造)や803N(1973年 - 1974年製造)が製造されたが、そのうち後者については直並列組合せ制御に対応した電気機器への変更が実施され、消費電力の削減が図られた。 2021年現在、営業運転に使用されている車両は存在しないが、一部車両がポーランド各地の路面電車で保存されている。その中でポズナン市電(ポーランド語版)に導入された車両のうち1両については102Naの営業運転の実績がないワルシャワ市電(ワルシャワ)で動態保存されている。 車内(シュチェチン) 後方(アッパーシレジア地方)
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タトラ国営会社スミーホフ工場で生産されていたタトラK2を基に開発された2車体連接車。コルゲート加工が施された流線形の車体や両端に動力台車、連接部分に付随台車が配置されている構造はK2と同様であったが、同形式が投入されたヨーロッパの東側諸国と条件が異なるエジプトへの導入に向け、以下の設計が変更された。 車内・車体構造 - K2はループ線が存在する路線での運用を前提としており運転台は集電装置がある車体にのみ設置されていたが、K5はループ線がない路線へ導入されるため両方の車体に運転台が設置された他、集電装置も双方の車体に搭載された。また、車内には女性専用フロアが存在した。 通風・暖房 - 亜熱帯気候に属するカイロでの運用に備え、K2に設置されていた暖房装置が撤去された一方、2段窓は双方とも上下にスライドさせる事が出来た。 電気機器 - K5の電気機器として、K2に搭載されたUA12を基に亜熱帯気候に適した改良が施された「UA14」が開発され、主電動機の出力も44.5 kwに増大した。 試作車は1968年に完成し、1970年から1973年にかけて量産車200両がチェコからユーゴスラビアを経由しエジプト・カイロへと輸出された。最初の150両は下半分が緑色、上半分がクリーム色と言う塗装だった一方、残りの50両は車体下半分が赤色に変更された。だが、メンテナンス不足に加え軌道条件や気象条件の悪さが重なった結果、老朽化や故障が早期に進行した。1975年から1978年にはスミーホフ工場の従業員がカイロに赴き電気機器の修繕や不要な機器の撤去などの修理を実施したものの、最終的に近畿車輛(日本)とセマフ(エジプト)製の新造車両に置き換えられる事となり、1980年代までに全車廃車となった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 09:53 UTC 版)
ビロード離婚を経て分離したチェコやスロバキア各都市の路面電車では、財政難の影響から車両の新造が抑えられた一方、既存の車両の車体や機器の更新が積極的に行われるようになった。その1つが、ブラチスラヴァ市電に1975年から1983年に導入された2車体連接車のタトラK2を改造したK2Sである。1998年以降、以下のような改造工事がパルス・ノヴァ(Pars Nova a.s.)によって行われた。 車体修繕・更新 - 長年の使用で老朽化が進んでいた車体や構体に対し、腐食対策を含めた修繕が実施された。また、一部車両についてはT2と同型の車体を新造した上で交換された。 乗降扉の変更 - 最初に更新された6両(7101 - 7106)は乗降扉の形状が両開き(プラグドア)に変更されたが、以降に更新された車両は両開き・2枚折戸式となった。 運転室の変更 - 前面をグラスファイバーを用いた新造構体に交換した。デザインはインダストリアルデザイナーのパトリック・コタス(チェコ語版)が手掛けている。また運転台には従来の暖房に加えて冷房装置が追加された他、速度制御の方法が足踏みペダルからハンドルに変更された。 内装の更新 - プラスチック製の座席が滑り止めも兼ねた布張り構造に変更された他、車内照明用の蛍光灯も交換され、車内案内表示装置も設置された。座席下部に設置されていたヒーターは側壁に移設され、性能も強化された。 制御装置の交換 - 従来のK2は抵抗制御方式のUA12形制御装置を有していたが、これをIGBT素子を用いた電機子チョッパ制御方式の制御装置に交換した。同時に電力が回収可能な回生ブレーキも搭載され、消費電力が大幅に抑えられた。最初に更新された6両(7101 - 7106)はČKDタトラ製のTV14形が用いられたが、同社の倒産後に改造された残りの車両はアルストム(現:セゲレツ)製のTVプログレス(TV Progress)への交換が行われた。 その他 - 上記に加え、側窓の交換や台車の改造や電動発電機の静的コンバータへの交換、集電装置のシングルアーム式パンタグラフへの交換が実施された。 車体改造車は1998年から2006年、2009年(7101 - 7125、7135)にかけて26両が導入された一方、車体新造・機器流用車は2007年 - 2009年(7126 - 7134)に9両が製造されており、後者は「新造車両」扱いとなっている。そのうち車体改造車の2両については訓練車としても使用するため、運転台には運転席の隣に教員用の座席も設置されている。この改造により、K2Sの車両寿命は10 - 15年程伸びている。
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「タリン市電500形電車」の記事における「概要・運用」の解説
タリンで公共交通機関を運営するタリン市交通会社(エストニア語版)は、二酸化炭素の排出量削減を始めとした環境対策の一環として2012年にタリン市電向けの新型路面電車に関する国際入札を実施し、翌2013年までにスペインの鉄道車両メーカーであるCAFとの契約が決定した。その後、オプション権を行使する形での追加発注を経て2015年から導入が行われたのが、高速運転に適した車種のウルボスAXL(Urbos AXL)である。 全長30.9 mの3車体連接車で、終端にループ線が存在する線形を有するタリン市電での運用に合わせ、運転台や乗降扉は片側のみに存在する。台車は全て主電動機を有した動力台車で、運転台側および後方には車端に回転軸や車軸を有する台車が備わる一方、中間車体は車軸を持たない独立車輪式台車が用いられている。車内全体の低床率は車端部分を除いた全体の70 %で、車椅子スペースは2箇所に存在する。また冷暖房双方に対応した空調装置に加え、進行方向や次の停車電停、経路を表示する車内案内表示装置や安全対策のための監視カメラも搭載されている。両開き式の乗降扉は各車体とも低床部分に存在する。 車体の大半が低床構造である事から主要な電気機器は屋根上に搭載され、エストニアの寒暖差が激しい気象条件にも対応可能な設計となっている。またスーパーキャパシタを用いた充電システムである「Greentech」システムを搭載しており、回生ブレーキ使用時に電気を貯める事で、電化されていない区間や架線の送電が停止した場合でも最大1 kmの距離を走行する事が出来る。 2015年3月31日から営業運転を開始し、翌2016年までに全20両の導入が完了した。主に3・4系統で使用されており、そのうち2017年の延伸によりタリン空港との接続した4系統に関しては全列車に500形が用いられている。また2020年以降は全車両においてwi-fiの使用が可能となっている。 車内 乗降扉 車椅子スペースには折り畳み座席が設置されている 後方には運転台がない
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概要・運用
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エストニアの首都・タリンを走るタリン市電が2018年に開業130周年を迎えるのに合わせ、2車体連接車のタトラKT4のうち6両に対し、15年間の延命も兼ねた近代化工事を実施した車両。種車からは台枠や台車が流用され、車体や電気機器の多くは新規に製造されたものを用い、改造はチェコのイネコン・グループの指導の下、2016年から路面電車車両の近代化や保守事業に参入したGOグループの傘下企業であるÜhinenud Depoodによって行われた。 新造した車体は1940年代から60年代までタリン市電で使用されていた車両を基にしたレトロ調のデザインを用い、塗装も世界遺産に認定された地域を有するタリンの街との調和が図られている。車内についてもオーク材を用いたロングシートやランプを意識した機材や配色を取り入れたLED照明など旧型電車を意識した要素を盛り込む一方、通勤客をはじめとした一般利用客の利用し易さにも配慮した設計になっている。 主要機器や乗降扉はチェコ製の部品が用いられ、電気機器としてセゲレツ(Cegelec)製のTVプログレス(TV Progress)を搭載する。 2017年から改造が行われ、試運転を実施した後、同年の10月10日から営業運転を開始した。合計6両が改造され、設計・改造費用の総額は4,452,000ユーロを記録した。これらの車両にはコンスタンティン・パッツを始めとしたエストニアを代表する政治家の名前が付けられている。 タリン市電では2020年代に最大28両の超低床電車を導入し、乗降扉付近にステップが存在する高床式車両を置き換える計画が存在するが、KT4TMRに更新された6両に関してはそれ以降も残存する予定となっている。 車内 右側面 後方
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概要・運用
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「仙台市交通局モハ300形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1950年代の仙台市交通局は仙台市電へ多数の大型ボギー車を導入し、従来の小型2軸車の置き換えを進めていた。その中で、仙台市電が開通した1926年から1928年まで30両が製造されたモハ1形の車体や一部機器を利用する形で製造されたのが、仙台市電初にして唯一の連接車となった300形である。工事は東洋工機によって行われ、書類上は「新造車両」扱いであった。 車体は1形の車体を改造の上で使用したため木製車体であった一方、台車は住友金属工業製の新造品であるFS72(動力台車)とFS72A(付随台車、連接台車)が用いられた。これは鋼製車体への更新を念頭に入れていたためであったが、後述の通り実現する事は無かった。集電装置には菱形パンタグラフが用いられた。車内はロングシートが設置され、照明は種車である1形の白熱灯から蛍光灯に変更された。 1955年に2両(301・302)が製造され、高い収容力を活かし、主にラッシュ時や多客時の運用に用いられた。製造当時は乗降扉が片側2箇所設置されていたが、乗客の乗降に時間がかかる事が指摘され、1958年に自局工場で片側3箇所に改造された。だが、日中など前述の時間帯以外では利用客数に対して収容力が過剰となる事から実際の運用は限定的なものとなった。更に1964年6月に起きた1形と貸切バスとの衝突による死傷事故によって木造車全廃の声が高まった結果、300形も短期間の使用のみで営業運転から離脱し、休車状態となった。この時点では今後も使用する事が検討されていたものの、復帰する事なく2両とも1966年に廃車・解体された。
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概要・運用
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制御方式にサイリスタチョッパ制御を導入したČKDタトラ製の路面電車車両であるタトラT6の中で、ループ線が終端に存在しない路線でも走行可能な両運転台車両として開発された形式。両側面の右側と中央部に乗降扉が設置され、運転台上部には空調装置が搭載されている。集電装置は製造当初からシングルアーム式パンタグラフを使用する。 1998年に製造された試作車1両はデモンストレーション走行も兼ねてアメリカ合衆国・ニューオーリンズの路面電車であるニューオーリンズ市電(英語版)へ導入され、翌1999年から営業運転に使用された。将来的にはこの車両を基にした本格的なアメリカの路面電車市場への参入も視野に入れていたが、製造元のČKDタトラの経営状態が悪化した結果それらの計画は破棄され、T6C5についても同社が倒産した2000年にニューオーリンズからチェコ・プラハにあった工場へと返却され、以降は長期間に渡って留置されていた。 一方、ドイツ・ベルリン郊外の路面電車路線であるシュトラウスベルク鉄道(ドイツ語版)では主力車両としてスロバキアのコシツェ市電から譲渡されたタトラKT8D5を使用していたが、同形式は定員数が多い3車体連接車であり利用客が少ない時間帯では輸送力が過剰となる事が課題であった。しかしシュトラウスベルク鉄道には終端に方向転換用のループ線が存在せず、ドイツの路面電車で主流となっている片運転台車両の導入は難しい状況だった。そこで購入が決定したのが、1両でも運転が可能な両運転台車両であるT6C5であった。標準軌(1,435 mm)用の台車に交換した上でプラハ市電で実施された試運転を経て、2003年以降同鉄道の営業運転に使用されている。
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概要・運用
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1960年代、レニングラード市電(現:サンクトペテルブルク市電)を始めとするソビエト連邦各地の路面電車は急増する需要への対応が課題となっていた。そこで、多数の乗客を一度に輸送可能な連接車に加えて、1両でも運用可能な路面電車車両(単車)を複数連結し、先頭車両から一括で制御を行う総括制御運転が検討されるようになった。それに対応した車両としてまず1967年に試作車であるLM-67が作られ、その結果を基に設計が行われたのが量産車のLM-68である。 総括制御に対応させるため、集電装置から主電動機へ電力を流す回路と別に制御用の別の回路を用意する間接制御方式がLM-57に続いて導入された。これにより最大3両までの総括制御運転が可能となった他、高い電圧が運転台を経由しないため安全性が向上した。車体に関しても構造が大きく変更され、それまでの曲線的なデザインから側梁を減らした直線的なデザインに改められた他、側面窓が大型化し、天井と側面の間には天窓も設置された。乗降扉は車体の右側面に3箇所、両開きの2枚折り戸が設けられており、コンプレッサーを用い圧縮空気で稼働した。系統表示器や行先表示幕は右側に寄せる形に配置されていた。主要機器はウスチ=カタフ車両工場で製造されていたKTM-5と同様の機器が用いられており、各台車に2基設置されていた主電動機のDK-259G7(ДК-259Г7)からの動力はカム軸を介して車軸に伝えられた(直角カルダン駆動方式)。 1968年に最初の車両が製造され、翌1969年からレニングラード市電を含むソ連各地の路面電車へ向けて量産が始まった。総括制御を用いた連結運転による定員数増加や速度向上は利用客から高い評価を得た一方、「水族館」とも称された天窓が存在する車体構造によって製造工程が複雑化した事、車体自体の強度が不十分であった事、更にガラスの清掃を始めとするメンテナンス面でも難があった事から1975年に量産が終了し、以降は設計の簡素化、メンテナンスの容易化を図ったLM-68Mへと移行した。 最初の導入先となったレニングラード市電では1988年に引退したが、1970年代にサイリスタチョッパ制御方式の試験車として改造された1両(6249)については1993年まで在籍した。試験終了後に試験に用いた電子機器は撤去・解体されたが、1997年に登場当時の外見や内装を含んだ動態復元工事が行われ、2020年現在ペテルブルク電気車両博物館(Ретро-трамвай — петербургская классика)で保存されている。 車体後方には運転台が設置されていない(サンクトペテルブルク) 扉がない左側面(サンクトペテルブルク) 総括制御による2両編成(レニングラード)
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概要・運用
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「ソ連運輸省TGM7形ディーゼル機関車」の記事における「概要・運用」の解説
入換や小運転用に残存していた蒸気機関車の置き換え用として開発されたディーゼル機関車。車体はソ連本土に導入されていたTGM3A形(ロシア語版)やTGM4形(ロシア語版)を基に設計され、左右非対称のセミセンターキャブ型を採用した。ディーゼルエンジンはサハリン向けの本線用ディーゼル機関車であるTG16形と同じV形12気筒4ストローク機関のM756V形(М756В)を用い、部品の共用を可能とした。台車はTGM4形のものを基に設計が行われ、TG16形と同じ直径950 mmの車輪を採用した他、枕ばねを柔らかくした事で床面高さを低くし、サハリンで標準的に採用されていた連結器の床面高さ880 mmに対応した他、ロシア本土の広軌(1,520 mm)にも台車の交換のみで対応可能であった。 1974年から1983年まで断続的に量産が実施され、最終的な製造両数は49両であった。車庫の入換に加えて旅客列車や貨物列車の牽引にも使用されており、一部車両は台車を交換し広軌のオハ・モスカリヴォ鉄道にも導入された。TGM7-008以降はソ連で製造されたロード・スイッチャーの量産形式で初めて空気ばねが台車に採用されたが、高い湿度によるゴムの破損や冬季の減圧バルブの凍結などの不具合が多発した事でTGM7-024以降は従来のコイルばねに戻った。2010年代以降は狭軌路線の広軌への転換に伴い廃車が進行しており、2019年現在は12両が在籍している。 TGM7-017 TGM7-045
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「ドレスデン市電NGT D12DD形電車」の記事における「概要・運用」の解説
フレキシティ・クラシックは、ボンバルディア・トランスポーテーションが展開する路面電車ブランドで、動力台車に回転軸を有するボギー台車を用いる事で走行特性の向上や騒音・振動の抑制、線路の摩耗の減少を図る部分超低床電車である。その中でNGT D12DDは、全長45 mの長大編成で構成される「フレキシティ・クラシック・XXL」と呼ばれる車種となっている。 ステンレス鋼製の車体を有する片運転台の5車体連接車で、ボギー台車を有する3つの車体が台車が存在しないフローティング車体を挟み込む編成となっている。両開きの乗降扉は各車体の右側面に1箇所づつ配置され、シングルアーム式パンタグラフが屋根上に設置されている前方車体には乗務員扉も存在する。座席配置は2 + 1列掛けのクロスシートを基本としているが、低床構造となっている中間車体にはロングシートが設置されている他、車椅子が設置可能なフリースペースも存在する。動力台車は前後車体にあり、編成全体の出力は680 kwである。 2000年に32両の発注が行われ、2003年から製造が始まった。更に2008年には11両の追加発注が行われ翌2009年から導入されたため、2020年現在43両(2801 - 2843)が在籍する。これらの車両のうち、最初に導入された32両(2801 - 2832)については2006年にザクセン自由州に属する各都市の名前が付けられている他、ドレスデン市電における100両目の超低床電車となった2817については「ザクセン自由州(Freistaat Sachsen)」と命名されている。 側面図 車内 車内案内表示装置 広告塗装(2014年撮影)
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1960年代以降、ソビエト連邦では中規模都市の混雑解消の一環として、従来地上や道路上を走っていた路面電車の一部を地下に移し高速運転を可能とした高規格路線「メトロトラム(ロシア語版)」計画が策定され、1980年代にヴォルゴグラード(ヴォルゴグラード・メトロトラム)とクルィヴィーイ・リーフ(クルィヴィーイ・リーフ・メトロトラム)で開通した。これらの路線に適した車両として設計された車両がKTM-11(71-611)である。 同時期に製造されていたウスチ=カタフスキー車両製造工場製の路面電車であるKTM-8(71-608)を基にした車体を有するが、終端にループ線が存在しない、プラットホームが両側に存在するなどの条件が存在するメトロトラムに対応するため、車体の両側に乗降扉が設置されている。また、2両 - 4両編成の連結運転が可能なように総括制御が可能な機器が搭載されている。車内の座席は大型規格の地下鉄車両と同様にロングシートが設置されている。 1990年にクルィヴィーイ・リーフ市からの要請を受けて開発が始まり、まず1992年に試作車(2両編成1本)が完成しヴォルゴグラード・メトロトラムで試験運転が実施された。その中で屋根上に設置された静的コンバータの信頼性や加減速の性能に問題が指摘され、翌1993年から1995年まで製造されクルィヴィーイ・リーフ・メトロトラムに導入された量産車ではそれらの改良が実施され、車両限界の都合上コンバータは床下に移設された。この量産車11両の編成の内訳は2両編成1本と3両編成3本であり、うち3両編成の中間には運転台や集電装置が設置されていない中間電動車のKTM-11P(71-611P、71-611П)が連結されている。2015年の時点で10両が残存しており、うちヴォルゴグラードから譲渡された2両がヴォルシスキー市電に、8両はクルィヴィーイ・リーフ・メトロトラムに引き続き在籍する。
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概要・運用
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1960年に試作車が製造され、1963年から量産が開始されたタトラT3は、タトラ国営会社が生産する路面電車車両「タトラカー」でも最大の生産数を記録し、1989年までに1,4011両もの車両が東側諸国各地に導入された。これらの車両はアメリカ合衆国で開発されたPCCカーと呼ばれる路面電車の技術を基にしており、制御装置についても円状に多数の抵抗器を配置し回転式の接触器によって抵抗の増減を行う多段式の抵抗制御方式が用いられたが、この機構には抵抗器の保守の手間に加え、熱損失や消費電力の多さという欠点が存在した。これを解消すべく、制御装置をサイリスタチョッパ制御方式を用いるTV1形に交換したのがT3Mである。この改造を受けた車両は、前後の屋根上に直方体のカバーに包まれた抵抗器が設置されている。 1971年に試作車が完成し、1973年からプラハ市電で試験も兼ねた営業運転に投入された。補助電源装置のブラインドのフィルターの追加など改良が必要となった点はあったものの、起伏の多い路線での高頻度運転に適し、車庫での低速運転も容易になったT3Mは高い評価を受け、TV1形制御装置の量産と共に1977年からチェコスロバキア各都市のT3が改造を受けた。その一方で、初期の電機子チョッパ制御装置であったTV1は製造・設置費用が嵩んだ事に加えて故障が頻発し、オストラヴァ市電ではコンデンサーの破損やショートによる火災が発生する事態となった。だが、改良型のTV2形制御装置の開発が難航していた事に加え、製造元がタトラT3の更新用の電機子チョッパ制御装置の生産を終了した事で、タトラT3Mの改造は1981年に終了し、以降は従来型の抵抗制御装置を用いたT3(T3SU、T3SUCS)の導入が再開される事となった。 その後、チェコスロバキアの民主化やチェコとスロバキアへの分離(ビロード離婚)を経た1996年から1997年にかけて、プラハ市電に在籍していた車両のうち車体の老朽化が進行した18両を対象に、より新しいT3SUCSと同型車体への交換や暖房装置や電気機器、運転台の改良を行ったT3M.2-DMCへの更新工事が行われている。更に一部車両については2000年以降制御装置を再度交換したタトラT3R.Pへの改造が実施されている。
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「フレキシティ・リンク」の記事における「概要・運用」の解説
ザールバーン(ドイツ語版)(Saarbahn GmbH)は、ドイツ・ザールブリュッケンを中心とした公共交通網を運営する企業で、軌道交通としてザールブリュッケン市内の路面電車区間からドイツ鉄道に乗り入れ、国境を越えてフランスのサルグミーヌ(Saargemünd)まで向かうトラムトレインの運行を実施している。この路線の開通に合わせ1995年に発注が行われたのが、トラムトレイン用電車として世界で初めて低床構造を採用した部分超低床電車のフレキシティ・リンクである。 ドイツでは路面電車(BOStrab(ドイツ語版))と普通鉄道(EBO(ドイツ語版))で異なる規格が用いられている他、電化方式も路面電車は直流電化、ドイツ鉄道は交流電化と異なる。そのため、フレキシティ・リンクはこの双方の規格に対応した構造を有しており、デッドセクションを通過する際に自動的に対応電圧が切り替わる他、電力が回収可能な回生ブレーキも双方の電圧で使用可能となっている。車内は乗降扉が存在する前後車体の連結面寄り、車内全体の48 %が低床構造(床上高さ400 mm)となっている他、乗降扉下部には併用軌道走行時に展開する収納式ステップが設置されており、プラットホームの高さが異なる区間にも対応可能である。主電動機(三相誘導電動機)や制御装置、抵抗器、空調装置などの電気機器はキーペ(英語版)が製造を担当しており、マイクロプロセッサによる自動制御・診断が行われる。 1997年10月24日のトラムトレイン開通と共に15両(1001 - 1015)が営業運転を開始し、2000年に路線延伸に合わせて13両(1016 - 1028)が増備された事で、2020年現在全28両が使用されている。ただし2025年以降、ザールバーンも参加する「VDVトラムトレイン・プロジェクト(VDV TramTrain project)」の一環として開発されるトラムトレイン用標準型車両への置き換えが検討されている。 併用軌道上を走る列車(2002年撮影) ドイツ鉄道の駅に停車する列車(2015年撮影) 車庫に停車する列車(2008年撮影)
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概要・運用
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「韓国鉄道狭軌用液体式気動車」の記事における「概要・運用」の解説
韓国に残存していた762mm軌間の路線の動力近代化のため、1965年に仁川工作廠で6両が製造された液体式気動車。両運転台式の車体を有し、座席はオールロングシートで、車内の一端に便所が設置されていた。エンジンは床下に1基搭載され、製造当初は新潟鐵工所製のNHHB-6000を使用していたが、老朽化に伴い1975年(4両)と1990年(2両)にカミンズ製のSN855Rに交換された。 1965年の時点でナローゲージ路線として残存していた水驪線、水仁線に導入され、単行運転から気動車同士の連結運転に加え、客車を連結した運用も組まれていた。だが路線自体の赤字に加え車両の保守管理費用の高騰に伴い、水驪線は1972年3月31日をもって廃止された。それに伴い水驪線で使用されていた車両は水仁線に転属したものの、1995年12月31日をもって水仁線の全路線が休止となった事で営業運転から引退した。 2019年現在、1両が鉄道博物館に保存されている。
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概要・運用
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「カザン地下鉄81-553.3/554.3/555.3形電車」の記事における「概要・運用」の解説
2005年8月27日のカザン地下鉄開通に併せて製造された形式。運転台・主電動機を有する電動制御車の81-553.3形、主電動機を有する中間電動車の81-553.4形、動力を持たない付随車の81-555.3形による4両編成(81-553.3形+81-554.3形+81-555.3形+81-553.3形)で運用される。 非常扉を有する左右非対称の前面デザインは、当初サンクトペテルブルク地下鉄へ向けて生産していた81-540.8形(ロシア語版)と同型を計画していたが、カザン地下鉄からの依頼によりワゴンマッシュが新たに設計した丸みを帯びたデザインを用いる事となった。81-540/541形を基にした車体や内装は白を基調としており、ロングシートが並ぶ車内の連結面側にはLED式車内案内表示装置が設置されている。また車内やドア付近の車外には監視カメラが設置されており、運転台で情報が確認できる他、映像の録画も可能となっている。 電気機器はチェコのシュコダ・トランスポーテーション製のものを採用し、主電動機は軽量かつ保守や効率の面で有利な誘導電動機を使用している。マイクロプロセッサ制御を有しており、機器の信頼性の向上が図られている。 最初の車両はカザン地下鉄開業前の2005年2月に落成し、サンクトペテルブルク地下鉄での試運転が行われた。開業までに5編成が製造されたが2019年現在は4編成が使用されており、第2編成(10290-11515-11514-10289)については修理のため運用を離脱している。 車内
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「横浜市交通局1600型電車」の記事における「概要・運用」の解説
1957年に滝頭車庫に併設されていた局工場で単車の改造名義により製造が行われた、横浜市電最後の増備車。運転台上部の大型通風機、直接制御方式など大半の機器はそれまで製造が行われていた1150型と同じ構造が引き続き採用されたが、車体構造が大きく変更され、扉配置がそれまでの車体前後から車体側面の前方・中央の左右非対称に改められた。扉は4枚折戸式の自動扉が採用されている。また前面も1150型の2枚窓から中央部に大型窓、左右に開閉可能な小窓が設置された3枚窓へと変更され、方向幕も大型化され中央窓の上部に配置された。 運転台下部の床下には空気ブレーキ用の空気を溜める鋼管が設置されており、車体の軽量化と床下面積の有効活用に貢献した。台車は1500型に用いられた防振台車を改良した日立製作所製のKL-21D型が用いられている。 製造後は2両づつ滝頭、麦田、生麦の各車庫に配置されたが、他車と異なる扉配置は車掌など乗務員からの評判が良くなかった。1967年に実施されたワンマン化改造の対象から外され、1970年までに全車とも廃車された。 車内の様子
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概要・運用
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「B号車 (ヤマト運輸)」の記事における「概要・運用」の解説
運用状況は基本的にヤマト運輸のベースから宅急便センター、ベースからベースへの幹線集約輸送に使われている。高速道路も走る必要があるため、ETCも装備済みである。ヤマト運輸の社内規則に基づき高速道路では制限速度走行している。ただし、ヤマトマルチチャーター(旧京都ヤマト運輸)などは、厳密に言うと歴史的な経緯から別会社であるため、そのような社内規則がない。グループ全体を通して最多車種は日野、続いてUDトラックスであり、いすゞと三菱ふそうは少数、さらに数台ながらボルボも存在する。これは以前ヤマト運輸が倒産危機に瀕した際、積極的に支援した2社への恩返しの意味合いがある。逆に追い立てた三菱ふそうへは2トンも含め、導入数は少数にとどまっていたが、現在は多少ながら増えてきている。また以前グループ会社のヤマトオートワークスがボルボトラックの取り扱いをしていた関係から、トレーラーヘッドを含め導入実績がある。
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概要・運用
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「中国国鉄HXD1D型電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
それまで貨物用および貨客両用形式にのみ導入されていたVVVFインバータ制御を、旅客用電気機関車として中国で初めて採用した形式。株洲電力機車が開発した高出力の絶縁ゲートバイポーラトランジスタ(IGBT)方式の電動機を有し、最大定格出力は7,200kwである。またそれとは別に客車への電力供給用の独立電源も備えており、連結する客車列車は電源車が不要である。 試作車の0001号機は2012年に完成し、同年の6月1日から6月7日から試験運転を実施し良好な結果を得た。その実績を基に量産が行われ、2013年9月12日に最初の5両が上海機務段に配備されている。なお試作車は量産車と一部塗装が異なり、前面窓部分が黒色で塗られている。 試作車(HXD1D-0001)量産車と塗装が異なる(2012年撮影) 量産車(HXD1D-0123)(2015年撮影) 台車(2012年撮影)
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概要・運用
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「ロシア鉄道EDS1R形電車」の記事における「概要・運用」の解説
それまでは旅客用電車の改造によって賄われていたロシア鉄道向けの事業用電車で初の完全新製車両となった形式。2013年に開催された鉄道見本市"Expo-1520"で最初の編成が公開された。 車体や機器はデミホヴォ機械製造工場が製造する旅客用電車であるED9M形電車と統一されており、2基のパンタグラフや電気機器を有した電動制御車と動力を持たない制御車による2両編成を組む。各車両の内装は以下の通りである。 電動制御車(Мг) - 資材の積載や作業に用いられる車両。車内の各部に大小さまざまな備品を収納できる棚や容器があり、天井に2台設置された天井クレーン(積載量250 kgf)で前方の扉から積み下ろしを行う事が出来る。また車内の連結面側には金属加工を行う事が出来る作業台が設置されている。デミホヴォ機械製造工場における形式番号は"62-372"で、日本国有鉄道における電車の形式称号で言う「クモヤ」に該当する。 制御車(Пг) - 作業員を乗せる事が出来る車両。62人分の座席(ボックスシート)の他、環境対策を施したトイレ、コンロや電子レンジ、ポットなどの調理機器、流し台、食器乾燥機、冷蔵庫など長期間の作業に適した機器が備わっている。また運転台側には作業長用の個室が設置されている。デミホヴォ機械製造工場における形式番号は"62-371"で、「クヤ」に該当する。 2019年の時点で2本が製造され、ロシア鉄道が所有する交流電化区間における保線や職員輸送などに使用されている。なお最初に製造された0001編成は2019年現在0003編成に番号が変更されている。
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概要・運用
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「地下鉄L形電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
モスクワの地下にはモスクワ地下鉄に加え、核兵器を始めとする攻撃に晒される事態に備え政府要人が避難する地下シェルターと臨時拠点、郊外のシェルターを繋ぐメトロ-2(ロシア語版)と呼ばれる地下鉄網が広がっている。だがこれらの路線は第三軌条方式で電化されているモスクワ地下鉄とは異なる非電化路線である事から、蓄電池に蓄えられた電力で動く大型の動力車が必要となった。それに基づきムィティシ機械製造工場で開発が行われたのがL形電気機関車である。 当時製造が続いていたEzh3形を基に設計が行われ、車体両端に同型の先頭部が設置された一方、側面は運転室を除いて乗降扉や窓が設置されておらず、屋根も運転室や車体中央部以外には存在しなかった。車内には蓄電池が左右に搭載され、最高速度は15 km/hであった。 1974年に3両(5686、5710、5712)が製造され、1986年にもメトロ-2の路線延長に伴い3両(0087-0089)の増備が実施された。これらの車両は車体のビード加工の形状などの差異が存在した。L形と同様に蓄電池を備えたメトロ-2用の旅客車両であるEzh6形と3両(Ezh6形+L形+Ezh6形)もしくは4両編成(Ezh6形+L形+L形+Ezh6形)を組む事が想定され、第三軌条方式による電化区間ではL形は動力を使用しない付随車両として使用される事となっていた。 ソ連崩壊後もモスクワ地下鉄の事業用車として一部車両が在籍したが、後継車となる730.15形気動車の導入により廃車が進行し、0088を除いた車両は2009年までに解体されている。 運転台 車内左右に蓄電池が設置されていた
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「ロシア鉄道ET4A形電車」の記事における「概要・運用」の解説
トルジョーク車両工場が1999年に試作したET2A形(ЭТ2А)の技術を基に製造された車両。開発にあたってはトルジョーク車両工場に加え中央研究所TEP(ЗАО ЦНИИ "ТрансЭлектроПрибор" 、ЦНИИ ТЭП)、NPPダリニャーヤ・スヴャースィ(НПП Дальняя Связь)、エレクトロアッパラット(ОАО Электроаппарат)が参加した企業グループ "電気機械交通機関製造"(Транспортное электромашиностроение»)が設立され、2008年から研究が実施された。形式名の「ET4A」(ЭТ4А)は、「トルジョーク車両工場(Т)で製造された第4世代の電車(Э)・誘導発電機(А)を搭載」と言う意味である他、これとは別にトルジョーク車両工場では62-9003と言う番号でも呼ばれている。 編成は制御車(Пг)、中間電動車(Мп)、付随車(Пп)で構成される。トルジョーク車両工場が提示した基本編成は8両編成(Пг+Мп+Мп+Мп+Мп+Пп+Мп+Пг)だが、最短3両、最長12両編成まで組成可能である。車体はそれまでトルジョーク車両工場が生産していたET2形(19,600 mm)よりも長い22m級の長さを有し、乗降扉の幅も1,250 mmに拡大している。各車両の屋根上には換気・暖房機能を搭載したNPPロングハウル(НПП Дальняя связь)製の空調装置が2基設置され、車内照明にはLEDが用いられる。また先頭車にはバリアフリー対応トイレが設置されている。座席配置は3列+3列のボックスシートである。 エレクトロアッパラットが製造した制御装置はIGBT素子を用いたVVVFインバータ制御を用い、各電動車に4基搭載されたATD450形三相誘導発電機(450 kw)を稼働させる。制動装置として電気指令式空気ブレーキ、回生ブレーキが搭載し、電気指令式空気ブレーキの故障などの非常時には自動的に空気ブレーキが作用するようになっている。 2011年に最初の車両が完成し、全ロシア鉄道輸送研究所(ЭК ВНИИЖТ)の実験線やロシア鉄道の営業用路線での試運転が実施された。これらの結果を受けて2012年4月5日に安全基準への適合を示す証明書が発行され、量産が決定した。営業運転開始は同年の6月9日、サンクトペテルブルク - ルーガ間の急行列車からである。 当初は30編成の量産が計画されていたが、2013年の時点での導入数は3編成のみであり、更に2016年に製造元のトルジョーク車両工場が破産したため、以降の増備は行われていない。 ET4A-001編成冷房装置の形状が以降の編成と異なる ET4A-002編成 ET4A-003編成
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概要・運用
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「九州電気軌道200形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1911年6月の北九州線開業時に導入された木造ボギー車の1形はその後も主力車両として活躍を続けたが、1930年代以降老朽化が目立つようになっていた。そこで、1形のうち9両と余剰となった散水車3両の台車や機器を流用する形で製造が実施されたのが200形である。 車体は両端2箇所に引き戸を有する半鋼製で、北九州線初で初めて鋼製車体を用いた66形(車体交換前)に準じたものであったが、製造を手掛けたメーカーによって車体形状に若干の差異が存在した。また、製造当初は種車の台車(ブリル 27GE-1形)の都合上高床式となり、主電動機の出力値も66形以降の半鋼製電車(45 kw)と比べて低い37.3 kwだった。主幹制御器についても種車のゼネラル・エレクトリック製の機器(GE-K14)がそのまま用いられた。車内の座席は全席ロングシートで、照明には白熱灯が用いられた。 1934年から1937年にかけて日本車輌製造製の6両(201 - 206)、汽車製造製の6両(207 - 212)が導入されたが、他の半鋼製電車と比較しての性能不足に加え、27GE-1形台車の固定軸距が軌間(1,435 mm)より狭い事に起因する高速運転時の振動多発が課題となっていた。そのため、第二次世界大戦後の1952年に改造が実施され、台車を車輪径が小さい日立製作所製のKBD-11形に、主電動機を出力45 kwのものに交換する事で他車と性能や床面高さを合わせた他、乗降扉についても引き戸から2枚折戸に変更した。それに伴い、扉付近の側面形状にも変化が生じた。更に1954年以降は照明の蛍光灯への変更など車内の改良も実施された。 以降も全車北九州線で使用されたが、ダイヤ合理化に伴い余剰となり、1973年12月から1977年3月にかけて全車廃車となった。ワンマン運転への対応工事は実施されなかった。
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「草軽電気鉄道モハ100形電車」の記事における「概要・運用」の解説
2020年現在はバス事業を展開している草軽交通は、元々草軽軽便鉄道と言う鉄道事業者として創設された歴史を有する。1914年に最初の路線が開通した後、1924年に電化により社名を草軽電気鉄道と改め、1926年に全長55.5 kmの路線が全通した。開通以来、同線では蒸気機関車や電気機関車(デキ12形)が牽引する客車列車が主力として使用されていたが、第二次世界大戦下の利用客増加に対応するため、新たに電車を導入することとなった。これがモハ100形である。 全長10 m級の半鋼製車体を有するボギー車で、車内の座席はロングシート、各台車に1基設置されていた主電動機の出力は26.11 kwであった。制動装置には、草軽電気鉄道に在籍していた車両で唯一となるウェスチングハウスタイプの空気ブレーキが搭載されていた。 1941年に3両(101 - 103)、1944年に2両(104・105)が日本鉄道自動車(現:東洋工機)で製造され、戦時中から終戦直後にかけて多数の需要を抱えた草軽電気鉄道の区間運転で使用された。だが、電気機関車牽引の客車列車と比べて重心が不安定という欠点を抱えていた事や車両自体が草軽電鉄の線路状態に適さなかった事から、1947年6月には早くも1両(105)が次項で述べる栃尾鉄道へ譲渡された。その後も1950年12月に2両(103・104)が同様に栃尾鉄道へ譲渡され、残された2両(101・102)についても1960年の新軽井沢駅 - 上州三原駅間の部分廃止の直前に栃尾鉄道改め栃尾電鉄へ譲渡された事で、結果的に5両全てが栃尾電鉄で再起する形となった。
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概要・運用
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「ウルボス (ベオグラード市電)」の記事における「概要・運用」の解説
2009年11月、ベオグラード市は市内を運行する路面電車であるベオグラード市電(英語版)の近代化を目的に、スペインの鉄道車両メーカーであるCAFとの間に30両の新型車両導入に関する8,100万ユーロ分の契約を交わし、2011年から導入が開始された。 これらの車両は運転台や乗降扉が一方にのみ存在する片運転台車両で、中間に台車がないフローティング車体を挟んだ5車体連接車となっている。車内は全体にステップが存在しない100 %低床構造で、乗降扉下部には車椅子利用客向けのスロープが収納されている。そのため動力台車・付随台車共に車軸が存在しない独立車輪式が用いられ、主電動機は前後車体の各車輪の外側に1台づつ設置されている。また、回生ブレーキや集電装置(シングルアーム式パンタグラフ)から供給された電力を屋根上のスーパーキャパシタへ貯蔵可能なオンボード充電システム(SCR)が設置されており、停電などの非常時にはこのスーパーキャパシタの電力で短時間の走行が可能である。これらの電気機器はフォスロ・キーペ(ドイツ語版)が製造を手掛けている。 導入は2013年まで3次に渡って行われ、2020年現在は発注分の30両全車が在籍する。 ウルボス3(2012年撮影) 広告塗装(2017年撮影) 車内(2014年撮影)
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1933年以降、レニングラード市電には大型ボギー車のLM-33(電動車)とLP-33(付随車)の量産が続いていたが、第二次世界大戦勃発により増備は中止され、レニングラード包囲戦の中で修復不可能なほどの破壊を受けた車両が多数発生した。そこで終戦後、これらの車両の台枠を流用した戦災復旧車両を製造する事となった。これが、運転台や電気機器を有したLM-47(電動車)と、その後方に連結されたLP-47(付随車)である。 右側面3箇所に乗降扉を有する主要な車体レイアウトはLM-33・LP-33と同様であったが、車内を中心に木材を用いた半鋼製車体を有していたLM-33・LP-33と異なり、LM-47やLP-47は車体全体に鋼製部品を用いた全金属製車両として作られた。そのため車体の頑丈さが増しており、戦車を乗せたトレーラーと衝突した際に戦車は横転し、トレーラーは修復不能なほどの被害を受けた一方、LM-47は前面が破損したものの自力走行は可能な状態で、そのまま修理工場まで走行したという逸話も残されている。だが、その結果車両の重量は増え、電動車のLM-47の場合はLM-33(約22 t)から1 t増の約23 tとなった。車体は丸みを帯びた形状となり、車体上半分が象牙色となった塗装と合わせて「象」と言う愛称の由来となった。 設計は1947年から始まり、1948年から1949年にかけてLM-47は43両、LP-47は42両が製造された。以降はレニングラード市電各地の路線で使用されたが、前述した重量や構造上の欠陥により1973年までに全車運用から離脱した。その後、レニングラード市電改めサンクトペテルブルク市電が電化開業90周年を迎えた1997年に、事業用車両に改造されていたLM-47(3521)と倉庫として残存していたLP-47(3584)の復元が実施され、以降はペテルブルク電気車両博物館(Ретро-трамвай — петербургская классика)が所有する車両として動態保存されている。また、同博物館はLM-47をもう1両(3543)所有しており、2020年現在修復作業が行われている。 LM-47 + LP-47(2007年撮影) LM-47(2007年撮影) LP-47(2007年撮影)
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概要・運用
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第二次世界大戦後、ユーゴスラビア領の路面電車路線となったクロアチア各地の路面電車へ向けて導入された車両。1950年から設計が行われ、1951年以降ザグレブ市電の工場で3両の試作車が製造された後、1957年から1965年にかけてジュロー・チャコビッチ工場(英語版)(Đuro Đaković)で量産車の生産が実施された。 主要な導入先であったザグレブ市電では開業以来小型の2軸車が使用されていたが、TMK101は大型の片運転台式ボギー車となり、出力60 kwの主電動機を備えた動力台車が2台設置されていた。これにより、片方の主電動機が不具合で停止した場合でも出力こそ低下するものの走行が可能となった。また制動装置も改良され、空気ブレーキ、機械式ディスクブレーキに加えて非常用に電磁吸着ブレーキが搭載され、安全性が向上した。他にも運転台から操作可能な自動ドアや障害物に衝突した際に自動的に作動する救助網など、多くの要素がクロアチアの路面電車で初めて採用された。 試作車も含めて合計71両が製造され、うち63両はザグレブ市電に、8両はオシエク市電に導入されたが、後者については後にザグレブ市電へ全車移籍した。また、ザグレブ市電には同型の付随車であるTP 591も導入された。ユーゴスラビア時代の市電の主力車両として活躍を続けたが、老朽化によりクロアチア独立後の1993年から廃車が始まり、2000年代以降は超低床電車・クロトラムの導入で更に引退が進んだ。そして2007年夏季に定期運転から離脱し、2008年をもって営業運転を終了した。 2017年現在、ザグレブ市電には試作車1両(101、1954年製)と量産車1両(155、1965年製)が保存されている他、付随車のTP 591も2両(592、600)が残存し、一部車両は動態保存運転が行われている。また、ザグレブ技術博物館では量産車1両(164)が土産物屋として活用されている他、ジュロー・チャコビッチ工場が位置するスラヴォンスキ・ブロドの産業遺産公園にも量産車1両(117)が静態保存されている。 付随車を連結した2両編成(2000年代撮影) 付随車と共に左側面には乗降扉は存在しなかった(2000年代撮影)
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1951年に試作車が製造された後、1957年から1965年まで量産車が作られたTMK 101の改良型として、1971年から開発が始まった車両。TMK 101と同様に片運転台式のボギー車として設計されたが、全長が14 mに伸び定員数が増加した他、主電動機(出力60 kw)もTMK 101の1台車につき1基搭載(モノモーター方式)から2基搭載に変更された。電気機器を除いた部品の大半はクロアチア地域で生産されたものを使用した。 製造は1973年から行われ、TMK 101の量産車の製造も実施したジュロー・チャコビッチ工場(英語版)(Đuro Đaković)が手掛けた。翌1974年までにザグレブ市電へ向けて30両の導入が完了し、同年7月22日から営業運転を開始したが、購入費用や生産能力などを検討した結果、ザグレブ市電を運営していたザグレブ電気軌道(ZET)(英語版)はジュロー・チャコビッチ工場との新型車両導入契約を打ち切ったため、それ以上の増備は行われなかった。また、現:セルビアのベオグラード市電(英語版)向けの車両も2両製造された。 2017年の時点で残存するのは、ザグレブ市電向けに作られた1974年製の12両である。また、1990年代以降に登場した3車体連接車のTMK 2100(クロアチア語版)には廃車されたTMK 201から供出した台車や電気機器が用いられている。
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「インド鉄道WAM4形電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
1959年に導入された欧州製のWAM-1形以降、インド鉄道は欧州連合や日本連合など海外メーカーが製造した電気機関車を多数輸入し、それらの技術を吸収、研究してきた。その成果を基に製造されたインド国産の貨客両用の電気機関車がWAM-4形である。 WAM-1形など輸入機関車にも装備されていたシリコン整流器や発電ブレーキが引き続き採用された一方、台車はアメリカン・ロコモティブが製造した軸配置Co-Co型のものを導入している。また電動機はアルストム製のTAO-659を用いている。これらの特徴がインド鉄道の使用条件に適合した結果、WAM-4形は長期に渡って製造が行われた。旅客列車に対応した空気ブレーキの装備、電動機の交換、貨物専用化など、各地の工場での改造も多数実施されている。また、一部車両は貨物専用のWAM-4B形として製造された後、WAG-5形として独立した形式に改められている。 2011年4月現在、375両がインド鉄道各地の車庫に配置されている。 なお、形式名の「WAM」は、「広軌(W)交流(A)貨客両用(M)機関車」と言う意味である。
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概要・運用
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ポーランドの鉄道車両メーカーのコンスタル(ポーランド語版)(現:アルストム)は、1950年代以降アメリカ合衆国で開発された高性能路面電車・PCCカーの技術を用いた路面電車車両である13Nの製造が実施された。1969年まで製造されたこの車両の後継として開発されたのが102Nである。 駆動装置や制動装置(発電ブレーキ、ディスクブレーキ、電磁吸着ブレーキ)を始めとした主要機器は13Nと同型であった一方、車体の構造は大きく変更され、ボギー車であった13Nからより収容力が高い連接車(2車体連接車)に変更された。これにより定員数は13Nの125人から182人へと増加した他、連接部分には主電動機が搭載されていない付随台車が設置された。また、前面形状も変更され、正面の窓が車体側へ斜め方向に傾いた構造が採用された。 車内 運転台 1967年から開発が始まり、1969年以降ポーランド各地の路面電車へ投入された。この102Nは標準軌(軌間1,435 mm)に対応した車両であったが、1970年にはメーターゲージ(軌間1,000 mm)に対応した802Nの製造も実施された。だが、車体側へ斜めに傾いた前面窓は夜間に前照灯などの光が反射し視認性が低下する欠点があり、製造は同年をもって終了し、以降は前面形状を13Nと同型とした102Na・802Na(ポーランド語版)へと移管した。 2021年現在、営業運転に使用されている都市は存在しないものの、102Nの一部が各地で動態保存されている他、シレジア・インターアーバン(ポーランド語版)には事業用車両に改造されたものが残存する。 ポズナン(ポズナン市電(ポーランド語版))(2007年撮影) クラクフ(クラクフ市電(ポーランド語版))(2005年撮影) ヴロツワフ(ヴロツワフ市電(ポーランド語版))(2010年撮影)
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チェコのオロモウツ市内で路面電車(オロモウツ市電(チェコ語版))を運行するオロモウツ公共交通会社(チェコ語版)(Dopravní podnik města Olomouce、DPMO)は、2017年にコンソーシアムのアライアンスTWの中核企業であるプラゴイメックス(Pragoimex)に対し、車内全体が低床構造となっている路面電車車両のEVO1の発注を実施し、翌2018年から営業運転に投入した。これらのうち、車体の両側に乗降扉が設置されている片運転台車両がEVO1/oである。 これは工事等でループ線が使用できず、片側にのみ乗降扉がある車両の導入が難しい場合に備えて導入されたもので、車体右側に4箇所、左側に3箇所乗降扉が設けられている。営業運転時は1両による単行運転の他、背中合わせに連結した両運転台の2両編成で使用される。そのためEVO1と比べ着席定員が減少している。それ以外の基本的な構造はEVO1に基づいており、車内は床上高さを350 mm - 500 mmに抑え、双方を緩い傾斜で繋ぐ事で段差がない100 %低床構造が実現されている。また、車内には冷暖房双方に対応した空調が完備されている他、充電用のUSBポートや監視カメラが設置されている。 2021年現在は3両(121 - 123)が在籍し、主に3・5号線で使用されている。また、2020年には増備車として1両の追加発注が実施されている。 1両で走行するEVO1/o(2019年撮影)
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「ロシア鉄道TGM11形ディーゼル機関車」の記事における「概要・運用」の解説
狭軌用のTGM7形および広軌用のTGM3A・TGM3B形(ロシア語版)の後継車両として開発された機関車。車体はソ連本土向けのTGM4B形(ロシア語版)を基に、当時建築限界が狭い箇所があったサハリンの鉄道へ向けて設計の変更が行われた。機器室は側面扉や取り外し可能な屋根が設置されており、修理を容易にした。 ディーゼルエンジンもTGM4B形の211D-3M形を基に開発された6気筒4ストローク機関の222D(6CHN21/21)形(1,050 HP、1,200 rpm)が用いられ、低速(入換用)・高速(本線用)の2段変速が可能なトルクコンバータやカルダンシャフトを介して台車に動力が伝えられた。狭軌向けのTGM11形と広軌向けのTGM11A形は共通設計の台車を使用しており、それぞれの軌間に対応した車輪に交換する事が可能であった。また床下には砂箱や砂撒き装置が設置されていたが、試運転時に線路との接触による破損が相次いだ事から位置が変更された。 1992年から1996年にかけてTGM11形・TGM11A形合わせて21両が製造されたが、TGM7形の完全置き換えには至らなかった。またTGM11A形についても広軌路線(オハ・モスカリヴォ鉄道)には配置されず狭軌用台車を履きTGM11形との共通運用に用いられた。狭軌路線の改軌への対応工事も行われず、TGM11形は2018年までに全車廃車されており、2019年現在TGM11A形が2両在籍するのみとなっている。 TGM11A-0002
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概要・運用
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「ロシア鉄道MDP4形気動車」の記事における「概要・運用」の解説
ロシア鉄道が所有する路線のうち、利用客が少ないローカル線用車両として製造された気動車。開発期間の短縮のため、リュジノフスキー機関車工場製のモーターカーであるAS4形やSDP形(ロシア語版)を基に設計が行われた。そのため最初に製造されたMDP4-01編成の扉は低床式プラットホームに対応しておらず乗降扉下部に階段が設置されていたが、MDP4-02編成は扉が自動両開きに変更された他、低床式にも対応可能となった。 編成はディーゼルエンジンを搭載した先頭車(AP4A形、ロシア語: АП4А)2両と動力を持たない中間車(VP4形、ロシア語: ВП4)2両で構成され、全車とも独立した2つの車軸が設置されている一軸台車を用いた二軸車であった。座席配置は先頭車が2列+2列、中間車が2列+3列のボックスシートであった。 エンジンは12気筒4ストローク機関であるYaMZ-240D(ロシア語版)(ЯМЗ-240Д)(235 kw、320 HP)が用いられ、床下に設置された油圧機械式変速機(ГП-320)を介して台車に動力が伝えられた。騒音や振動を防ぐため機器室と客室の間にはトイレが設置されていた。また機器はサイリスタをアクチュエータとして用いる電子制御システム(КМЭ-8)によって制御されており、メンテナンス費用の削減を図った。 製造後は2編成とも北カフカース鉄道支社に配置され、将来的には1両編成(AP4形)、2両編成(MDP1形、MDP2形)、3両編成(MDP3形)の製造も計画されていたが、それ以上の増備は行われず、MDP4形自体も2000年までに運用を停止した。2019年現在はMDP4-02編成のみが在籍している。
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概要・運用
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「地下鉄81-718/719形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1976年以降、ムィティシ機械製造工場はモスクワ地下鉄を始めとする旧東側諸国の地下鉄へ向けて81-717/714形電車(ロシア語版)の大量生産を実施していた。だが制御方式は旧来の抵抗制御を用いており、消費電力やメンテナンスの面で難があった。そこで、消費電力削減に加え粘着性能の向上や接点の廃止に伴うメンテナンスの容易化などの利点を持つサイリスタチョッパ制御を採用したのが81-718/719形である。車体についても81-717/714形から改良され、換気扇が車内に設置された他、前面の形状にも変化が生じた。編成は先頭車の81-718形、中間車の81-719形で、81-718形の試作車2両(DK-119形、140 kw)を除く全車両にDK-117形電動機(110 kw)が設置されている。 1991年に試作車5両(5両編成1本)が完成しモスクワ地下鉄で試験が行われた後、翌1992年からハルキウ地下鉄で運用を開始し、1993年から1998年まで量産車20両(5両編成4本)が製造された。また新路線開通による車両増備が必要となったタシュケント地下鉄から発注を受け2001年に20両(4両編成5本)の生産が行われ、これらは81-718.0/819.0形という形式名で区別されている。更に2004年にはハルキウ地下鉄の新駅開業に伴い15両(5両編成3本)が製造されたが、これらはメトロワゴンマッシュで製造された車体と新規に購入した主要機器をハルキウ地下鉄の車庫で組み立てる形で作られており、81-718.2/719.2形という形式名が与えられている。
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概要・運用
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「長春有軌電車900系電車」の記事における「概要・運用」の解説
瀋陽新陽光機電気科技技術公司(沈阳新阳光机电科技有限公司、SMEST)で製造された、2020年時点における長春有軌電車の最新鋭車両。車体の前後に運転台が存在する両運転台のボギー車で、両側面に3箇所づつ存在する乗降扉(プラグドア)のうち中央は両開きとなっている。座席配置は全席ロングシートで、地下鉄と同様の車内レイアウトとなっている。主電動機には誘導電動機が用いられ、国際的に普及している最新技術であるVVVFインバータ制御方式が採用されている他、冷暖房双方に対応した空調装置も設置されている。電気機器は内蔵されているコンピュータによる自動管理・診断が実施され、これらの結果や車両の現在位置、走行経路などの各種情報は運転台に設置されたディスプレイに表示される。 2012年から営業運転に使用されており、54路に加えて2014年に営業運転を開始した55路にも投入されている。 車内 運転台
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概要・運用
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1985年からソビエト連邦向けに生産が行われていたT6B5を基に、各部に改良を加えた形式。乗降扉や前面形状が変更され主電動機の出力が50 kwに向上した一方、車体重量はT6B5(18.4 t)よりも重い20 tとなった。制御装置はT6B5と同様にサイリスタチョッパ制御方式のTV3形が用いられた。 1988年に最初の試作車2両が製造されチェコの首都・プラハのプラハ市電で試験を兼ねた営業運転に用いられたが、1両は2002年に廃車された一方、もう1両は1991年にČKDタトラの工場で改造を受け、ノルウェーの首都・オスロを走るオスロ市電(ノルウェー語版)へ譲渡された。1995年にイベント用車両として改造された後、1999年以降はスウェーデンのヨーテボリ市電(スウェーデン語版)に在籍している。 更に同1988年にはもう2両の試作車が製造され、プラハ市電での短期間の使用を経てソビエト連邦(現:ロシア連邦)のモスクワ(モスクワ市電)に導入された。1993年にはモスクワ市電向けの量産車が製造されたが、東側諸国の民主化やソ連崩壊などの社会の変化により4両の生産に留まった。これらの車両は2010年まで定期運転に使用され、2020年現在も一部が保存車両として残存している。
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概要・運用
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「インド鉄道YAM1形電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
マドラス(チェンナイ)近郊に存在したメーターゲージ路線は1931年に直流1,500 Vの架空電車線方式による電化が実施されていたが、1965年の電化区間の拡大に合わせ交流25,000 V・単相50 Hzに改める事になった。それに伴い、交流電車(YAU1形)と共に導入された日本製の電気機関車がYAM1形である。 製造は三菱重工業が中心となり、そこへ日立製作所、東芝が参加する形で行われ、三菱は車体の製造および全体の組み合わせを担当した。電動機についてはアルストム、シーメンス、ACEC(英語版)の欧州企業が手掛けたものを2基搭載していた。なお、形式名の「YAM」は、「メーターゲージ用(Y)交流(A)貨客両用(M)機関車」と言う意味である。 1996年にマドラスの地名がチェンナイに変更されて以降もメーターゲージ電化路線で使用されていたが、都市の急速な発展に伴い、これらの電化路線の軌間をインド鉄道における標準である1,676 mmへ改軌する事が決定した。地名の変更以前である1991年から工事は段階的に進み、2004年7月1日をもって全区間の改軌が完了した。それに伴い、前日の6月30日をもってYAU1形電車と共にYAM1形は全車引退し、その後廃車された。これはインドにおけるメーターゲージの電化路線および電車・電気機関車の終焉でもあった。 2016年現在、21912号機がチッタランジャン(英語版)工場に保存されている。
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概要・運用
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「ウクライナ鉄道EPL2T形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1896年の創業時からソ連崩壊まで、ルハンスクディーゼル機関車工場(旧:ルハンスク蒸気機関車工場)はその名の通り蒸気機関車やディーゼル機関車が製造の多数を占めていたが、ソ連崩壊後ウクライナに籍を置く工場となり、1995年にルハンシクテプロヴォーズに再編された事で、機関車以外の鉄道車両の生産も行う事となった。その中で、ソ連運輸通信省(ソ連国鉄)時代に製造され老朽化が進んだER2形電車の置換用として開発されたのがEPL2T形直流電車である。 ステンレス製の車体を有し、車両の全長はER2形よりも長い25,250 mmである。乗降扉は先頭車(制御車)に2箇所、中間車に3箇所設置されており、扉部は防寒のため客室とはデッキで区切られている。編成は8両編成を基本としており、「制御車+電動車+付随車+電動車+電動車+付随車+電動車+制御車」という構成になっている。 座席配置は3列+3列(デッキ付近は2列+2列、トイレ付近は0列+1列)のボックスシートで、背もたれや座面はクッションが設置されている。トイレは各車両に1つ搭載されている。冷房装置がないため夏場は強制換気によって車内を涼しくする一方、走行区間における冬季の厳寒に対応するため暖房システムや断熱構造が徹底されており、冬季でも車内は設定気温+15℃が自動的に維持されるようになっている。 電気機器にはロシアやラトビア製の部品が使用されており、制動装置として電気ブレーキ、空気ブレーキ、手ブレーキが搭載されている。 2000年から2008年まで8両編成36本が製造され、ウクライナ各地の直流電化路線で使用されている。そのうち2006年に製造されたEPL2T-017編成以降は前面の設計が大幅に変更されている。また、2004年に製造されたEPL2T-3001編成は最高速度160 km/hの試作車として登場したが、以降製造された車両に試験結果が活かされる事はなかった。 EPL2T-003編成 EPL2T-029編成 EPL2T-031編成 車内デッキの扉上にはLED方式の車内案内表示装置が設置されている
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概要・運用
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「ウクライナ鉄道EPL9T形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1896年の創業時からソ連崩壊に至るまで、ルハンスクディーゼル機関車工場(旧:ルハンスク蒸気機関車工場)の主力製品は蒸気機関車やディーゼル機関車であった。しかし、ソ連崩壊後ウクライナに籍を置く工場となり、1995年にルハンシクテプロヴォーズに再編された事で、機関車以外の鉄道車両の生産も行う事となった。その中で、ソ連運輸通信省(ソ連国鉄)時代に製造され老朽化が進んだER9形電車の置換用として開発されたのがEPL9T形直流電車である。 ステンレス製の車体を有し、車両の全長はER9形(19,600 mm)よりも長い25,250 mmである。乗降扉は先頭車(制御車)に2箇所、中間車に3箇所設置されており、扉部は防寒のため客室とはデッキで仕切られている。編成は8両編成を基本とし、「制御車+電動車+付随車+電動車+電動車+付随車+電動車+制御車」という構成になっている。 座席は3列+3列(デッキ付近は2列+2列、トイレ付近は0列+1列)のボックスシートで、背もたれや座面は乗り心地を快適にするためクッションが設置されている。トイレは各車両に1箇所存在する。冷房装置は搭載されておらず夏場は強制換気により車内の温度を下げる一方、厳しい寒さに対応するため暖房システムや断熱構造が徹底されており、冬季でも車内は設定気温+15℃が自動的に維持されるようになっている。 電気機器にはロシアやラトビアで作られた部品が導入され、電動車の屋根上には高圧線ケーブルが設置されている。制動装置は電気ブレーキ、空気ブレーキ、手ブレーキである。 2000年から2008年まで8両編成15本が製造され、南西鉄道(ロシア語版)や南部鉄道(ロシア語版)の交流電化区間で使用されている。そのうち最終増備車となったEPL9T-015編成は前面の設計が大幅に変更されている。 EPL9T-001編成 EPL9T-007編成 EPL9T-015編成前面形状が他の編成と異なる
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概要・運用
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「仙台市交通局モハ43形電車」の記事における「概要・運用」の解説
大阪府堺市に工場を有していた梅鉢鉄工所(→帝國車輛工業)で製造された、半鋼製の車体を有する電車。それまで仙台市電に導入されていた電車と同様の2軸車であったが車体デザインは大幅に変更され、当時世界的に流行していた流線形を取り入れた前面形状を有していた。屋根は雨樋が天井部に設置された張り上げ屋根と呼ばれる構造を用いた。 1938年に3両が製造され、同年代に進んでいた路線延伸による列車本数増加に対応した。だが、直後の第二次世界大戦期の戦時体制によって梅鉢鉄工所は資材不足に陥り、それ以上の製造は不可能となった。そのため、以降は1948年まで仙台市電は東京市電(→都電)を始めとする各都市からの車両譲渡によって利用客の増加や車両不足に対処する事となった。戦時中は仙台市も空襲に遭い甚大な被害を受けたものの、43形を含めた市電の車両は1両も戦災に巻き込まれず、戦後も引き続き各系統で使用され続けた。製造当初の集電装置はポールであったが戦後はビューゲルに交換され、屋根の中央部に1基設置された。1965年に3両とも廃車され、長町車庫で解体が行われたため2020年時点の現存車両は存在しない。
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概要・運用
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「仙台市交通局モハ1形電車」の記事における「概要・運用」の解説
仙台市電は、かつて宮城県仙台市に存在した公営の路面電車である。仙台市電気部電車課によって1926年11月25日から営業運転を開始したが、その際に導入された最初の車両がモハ1形だった。木製車体を有する2軸車で屋根は2重屋根構造になっており、車内の座席配置は全席ロングシートであった。 製造は3次に渡って行われ、1926年の開業時に10両(1 - 10)が導入された後、翌1927年に13両(11 - 23)、1928年に7両(24 - 30)が増備され、同年の延伸に備えた。これらの車両は全て川崎造船所で製造されたが、以下のように細部が異なっていた。車両の製造価格は当時の金額で9,450円だった。 車両番号製造年側窓の曲線(R)側窓の形状1-10 1926 有 二段式(上段固定、下段降下) 11-23 1927 無 24-30 1928 一段降下式 以降は仙台市電の主力車両として各系統で使用され、第二次世界大戦終戦直後は資材不足から窓ガラスの代わりにベニヤ板を張った車両も存在した。だが、1948年に初のボギー車となるモハ80形(→モハ100形)が導入されて以降は置き換えが検討されるようになり、1955年には24 - 30のうち4両の車体を用いた2車体連接車のモハ300形の製造も実施された。製造当初の集電装置はポールだったが、後にビューゲルへの交換が行われた。 以降も残存車両のほとんどが仙台市電で使用されていたが、1964年6月に1両(16)が貸切バスと衝突事故を起こし、死傷者が出る事態となった。その結果木製車体の危険性が指摘された事でモハ1形は各都市から譲渡されたボギー車へ置き換えられる形で急速に廃車が進み、1965年までに形式消滅した。
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概要・運用
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「仙台市交通局モハ30形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1926年11月25日に開通した仙台市電は、仙台市の市域拡大により路線網が拡大し続け、利用客も増加の一途を辿っていた。そこで、路面電車の需要増加に対応するために導入されたのが30形である。丸屋根を有する全長7,920 mmの2軸車で、台車には日本の路面電車車両で初めて回転部分全体にころ軸受が用いられた。車体は仙台市電の車両で初となる半鋼製となった一方、車内の座席配置は従来の木製車両と同様に全席ロングシートだった。製造当時の集電装置にはポールが用いられたが、1951年にビューゲルへの交換が実施された。 1934年に6両(31 - 36)、1935年に6両(37 - 42)が日本車輌製造東京支店で製造された。そのうち1935年製の6両は前面左側・前面窓上部にブレーキランプを兼ねた尾灯が設置されていたが、後に使用を休止し、1934年製の車両と同様に前面下部に尾灯が改めて設置された。またバンパーの形状も異なっていた。 以降は仙台市電の主力車両として各系統で使用されたが、老朽化の進行やボギー車の増備により1966年時点で大半の車両が廃車・もしくは休車状態となっていた。一部車両はそれ以降もラッシュ時用に在籍していたが、最終的に1968年までに全車両が廃車された。その後、31が市内の鉄道ファンの自宅に、39は仙台市内の善應寺境内に保存されたが双方とも後に解体され、残りの車両も廃止後の長町車庫や仙台市電保存館の保存車両に選ばれなかったため、2020年の時点で現存車両は存在しない。
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「定山渓鉄道モハ1200形電車」の記事における「概要・運用」の解説
1950年代前半、沿線の定山渓温泉への観光客に加え通勤・通学客の増加を受けた定山渓鉄道では設備の増強が続き、豊平駅の施設増強・本社移転によるターミナル駅化に加え、新たな電車の増備も決定した。導入に先立つ1953年11月には不足が見込まれた電力を補うため、開業時から存在した藤ノ沢の変電所に加え、北茨城に1000 kwの風冷イグナイトロン整流器を用いた変電所が増設された。そして翌1954年に製造されたのが、モハ1200形1両(1201)とクハ1210形1両(1211)の合計2両である。 側面の窓配置は1951年に導入したモハ1001・クハ1011と類似し、窓も下段上昇式の2段窓であったが、上段はHゴムによって固定されたバス窓となった。前面は製造当時全国規模で流行していた湘南型と呼ばれる半流線形・2枚窓というデザインが採用された。車内の座席は通勤・通学輸送に対応するため全室ロングシートとなり定員数が増加した他、車内照明は従来車の白熱灯から蛍光灯へと改められた。台車は日本車両製造製のNA-5形で、電動車であるモハ1201の出力は既存のモハ1001以降の電車と同様の440 kwであったが歯車比の値は2.74(63:23)と小さくなっていた。 両車とも1954年7月23日に竣工し、製造当初は通過駅が存在する準急・急行列車に用いられ、従来車との混結運用も多く存在した。導入時の塗装はフェザントグリーン1色であったが、後に全体がアイボリー、窓回りがスカーレットという塗り分けに変更された。札幌市営地下鉄開業に伴う用地売却により1969年10月31日に路線が廃止となるまで使用された後は両車とも青森県の十和田観光電鉄に譲渡されており、定山渓鉄道線廃止時に残存していた電車・気動車で唯一他社へ売却された事例となった。
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「ソ連運輸省A1系気動車」の記事における「概要・運用」の解説
1950年代後半から始まったサハリンの鉄道における動力近代化の一環として、1958年から1960年にかけて日本から輸出された気動車。日本国有鉄道向けに製造されたキハ55形気動車を基に設計が行われ、前面が2枚窓非貫通型(湘南型)に変更された他、極寒地であるサハリンに適した耐寒対策が施された。エンジンはキハ55形と同様にDMH17Cが床下に2基設置されていた。編成は運転台付きの動力車2両と付随車1両の3両編成を基本としており、付随車を除いた2両編成での運用も可能であった。 3両編成8本(24両)が製造されサハリン各地の路線で使用されたが、老朽化が進行した結果1986年以降富士重工業によって製造されたD2系気動車による置き換えが進み、ソ連崩壊後の1995年の時点で中間付随車の一部が客車として使用されている以外は全て休車もしくは廃車された事が確認されている。
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概要・運用
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ソビエト連邦の崩壊後、余剰気味になった機関車を活用するため、ロシア鉄道など旧ソ連各国の鉄道へ向けて機関車の中間に電車の中間付随車を連結するプッシュプル列車が多数導入されていた。その一環として、全連合電気機関車科学研究計画・設計技術研究所(ВНИИЖТ)、全ロシア電気機関車研究所(ВЭлНИИ)、デミホヴォ機械製造工場(ロシア語版)によって開発・製造が行われたのがED1形である。 動力車は貨物用交流電気機関車として製造された2車体連結式のVL80S形が流用された一方、中間に連結される付随車はデミホヴォ機械製造工場が製造していたED9T形電車と同型の車両が新たに製造された。動力車と付随車を繋ぐ回路はノボチェルカスク電気機関車工場(ロシア語版)が製造した。 編成は12両編成(動力車+付随車10両+動力車)を基本とし、うち各動力車側の付随車にはトイレが設置されていた。-50℃から40℃まで様々な環境下で安定した走行が可能なように設計されており、需要に応じて両数を減らす事も可能であった。 最初の編成は1999年に完成し、試験運転が行われた後翌2000年から営業運転に投入され、それ以降12両編成4本が導入された。極東鉄道支社が管理する交流電化区間で2009年まで使用され、以降は動力車(VL80S形)が元の2車体連結式電気機関車に戻され貨物輸送に転用された一方、使用された客車は転用される事なく車庫に留置された。 車庫に留置されているED1形(VL80S形、付随車)
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「ロシア鉄道TG21形ディーゼル機関車」の記事における「概要・運用」の解説
1991年のロシア連邦成立の時点で製造から30年前後が経過していたTG16形ディーゼル機関車の置き換え用として製造された機関車。TG21形は片運転台式の車体を連結した2車体連結式の貨物用機関車として設計された一方、TG22形は単機運行が可能な旅客用機関車であった。車体の塗装はTG21形は青を基調としたものである一方、TG22形は青・赤の2種類が存在した他、前面の塗装が若干異なっていた。エンジンとしてバラコボ工場(ロシア語: Балаковского завода )製の221D形(221Д)が2基搭載され、冷却装置もTG16形から強化された。 1992年にTG22形が、翌1993年にTG21形の製造が始まったが、サハリンの鉄道の最大軸重は20tであるにもかかわらずTG21形・TG22形の軸重は22tであり、製造後長期に渡ってユジノサハリンスク機関区へ留置された。1999年前後には再塗装が行われ本格的な稼働が検討されたが結局その後も運転に就く事はなく、2006年の時点でも全車が留置されている事が確認されている。 TG21-001(青色) TG22-002(青色)
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概要・運用
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1990年代、ソビエト連邦の崩壊に伴い利用客が減少したサンクトペテルブルク市電では新型車両の需要も減り、同市電に向けて多数の電車を製造していたペテルブルク路面電車機械工場は活路を見出すためシベリア地域を始めとした他都市への車両製造を計画した。1990年代初頭の同社で量産されていたのは2車体連接車のLVS-86であったが、ロシア連邦の多くの都市では1両でも運行可能なボギー車が多数使用されていた。そこで開発されたのが、LVS-86の構造を元にしたボギー車のLM-93である。 1980年代まで生産が行われていたボギー車・LM-68Mに類似した片運転台の車体形状を有するが、構体の強度が高められている他、右側3箇所に設置されている折戸式の乗降扉のうち先頭の1枚については運転室と通じる乗務員扉となっている。客室には左右に1人掛けのクロスシートが設置されている。 台車には振動を抑えるオイルダンバーが搭載され、制動装置は発電ブレーキと空気ブレーキを両立させた電空併用ブレーキが用いられる他、乗降扉の開閉を始めとする一部の機能には圧縮空気が使われる。電気機器の一部は運転室の後方にあるキャビネット内部に搭載されている。また総括制御に対応しているため、複数の車両を繋いだ連結運転も可能である。 1996年から2000年にかけ、ロシア各地の路面電車に向けて計80両が製造された。そのうち1998年以降に製造された12両は電動発電機や車内照明(白熱灯→蛍光灯)などの機器や内装の見直しが実施された他、シベリア向けの一部車両についてはコムソモリスク・ナ・アムーレにある航空機工場で最終組み立てが行われた。多くの都市では製造時の集電装置にパンタグラフが用いられているが、一部の都市では操作が容易なビューゲルが取り付けられている。 LM-93が導入された都市は以下の通りである。 都市導入車両数アルハンゲリスク(アルハンゲリスク市電) 20両 アンガルスク(アンガルスク市電) 12両 オシンニキ(ロシア語版)(オシンニキ市電) 11両 カザン(カザン市電) 7両 コムソモリスク・ナ・アムーレ(コムソモリスク・ナ・アムーレ市電) 6両 ウラジオストク(ウラジオストク市電) 5両 ハバロフスク(ハバロフスク市電) 5両 スモレンスク(スモレンスク市電) 4両 ニジニ・タギル(ニジニ・タギル市電) 3両 サラヴァト(サラヴァト市電) 3両 ウリヤノフスク(ウリヤノフスク市電) 3両 ウファ(ウファ市電) 2両
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概要・運用
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運転台や主電動機を持たない付随車で、営業運転の際には1 - 2両の電動車と編成を組む。車内の60%が床上高さ350 mmの低床構造となっており、乗降扉は車体右側の低床部分に2箇所設置されている。車内には固定式クロスシートに加えて車椅子やベビーカーが設置可能なフリースペースが1箇所存在する。車体の両端、3人掛けの座席の下部には回転軸を備えた標準的なボギー台車があり、油圧式ディスクブレーキと非常用の電磁吸着ブレーキが装備されている。 2003年から製造が行われ、翌2004年以降2006年までにブルノ市電に4両、オストラヴァ市電に2両が導入された。これらの車両は導入都市によって乗降扉の形状や車内レイアウトに差異が存在した。その後、ブルノ市電に導入された車両は故障の頻発や運用コストの高さを理由に2016年に運用から離脱しており、2019年の時点で営業運転に使用されているのはオストラヴァ市電の2両のみである。 車内(ブルノ) 車体左側には乗降扉がない(ブルノ)
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概要・運用
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「逢坂の関」を越え京都と大津を結ぶインターアーバンとして1910年に開通した京津電気軌道は1924年に京阪電気鉄道に吸収され、京津線となった。その翌年の1925年から、京津電気軌道開業時から使用されていた1型の置き換え用として製造された、京津線初となる半鋼製車両が30型である。 車体長は10 m級で、京津電気軌道時代に導入された20型と同様のボギー車であったが、オープンデッキであった20型とは異なり車端に2枚引き戸が設置され、屋根も二重屋根から丸屋根に変更された。また台車は車輪径690 mmの住友ST-18形を採用し、併用軌道区間からも乗降が容易なよう低床化が図られた。集電装置は廃車までポールを用いた。計12両が製造されたが、そのうち「42」については1930年に「43」への改番が行われた。 製造後は京津線の普通列車として使用されたが、1949年に発生した四宮車庫の火災により5両が被害を受けた。翌1950年にナニワ車輌で復旧工事を受けたが、その際に損傷を免れた他車も含めて片運転台化が行われた他、乗降扉を1枚引き戸化と高床プラットホームへの対応工事、自動ブレーキの搭載などの改造を受け、以降は2両固定編成で使用された。また火災から復旧した一部の車両(32、34、36)については車体長が窓1つ分長く、定員数も多かった。この30型から始まった「2両編成」は、以降の大津線(京津線、石山坂本線)における編成の標準となった。 改造後は車体の上半分がマンダリンオレンジ、下半分がカーマインレッドという京阪特急色を纏い、京津線の急行列車に用いられたが、1957年以降大津線全体の近代化のため260型の導入が始まった事から、30型は順次石山坂本線へ転属し、塗装も上半分がライトグリーン、下半分がダークグリーンという一般色に変更された。だがその後も300型、350型の増備が進んだ結果、1965年から1968年にかけて全車廃車された。
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概要・運用
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ČKDタトラ製の路面電車車両(タトラカー)の中で、消費電力を抑えたサイリスタチョッパ制御方式を採用し、車体も製造費や維持費の削減、車体洗浄の容易さを図るため直線状のデザインとなった車種であるタトラT6のうち、東ドイツ(→ドイツ)向けに開発された車種。それまで同国向けに大量生産が実施されていたT4やKT4に代わる標準型車両として開発された。東ドイツ各地の路面電車の車両限界に合わせて他のタトラT6(T6A5、T6B5)と比べて車幅が2.2 m級と狭くなっているのが特徴で、片運転台の電動車のT6A2に加え、増結用の付随車であるB6A2も製造されている。 1985年に試作車(T6A2D:2両、B6A2D:1両)が製造され、ドレスデンで試験が実施された後、1988年から東ドイツ(→ドイツ)を始めとする各国へ向けて以下の車種が量産された。T6A2(電動車)の単独運用に加え、別のT6A2やB6A2を始めとする付随車を後方に連結した2 - 3両編成による運転も実施されている。 T6A2D・B6A2D - 東ドイツ(→ドイツ)向けに設計された車種。当初は大量生産が想定されていたが、東側諸国の相次ぐ民主化やドイツ再統一、ソビエト連邦の崩壊などの社会の変動により1991年で生産は終了し、最終的な製造数は試作車を含めてT6A2Dが186両、B6A2Dは92両に留まった。 T6A2B - ブルガリアの首都・ソフィアを走るソフィア市電向けに製造された車種。1991年に40両、1999年に17両が導入された。 T6A2H - 老朽化したハンガリーの国産路面電車車両の置き換え用として1997年から1998年にかけて製造された車種。セゲド市電へ向けて13両が作られた。 車内(T6A2B、ソフィア) 運転台(T6A2D、ドレスデン) T6A2の後方には運転台がない(T6A2D、ドレスデン)
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概要・運用
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「ストールストックホルムス・ロカールトラフィークX15p形電車」の記事における「概要・運用」の解説
ロスラグスバナン(Roslagsbanan)は、スウェーデンの首都・ストックホルムと郊外を結ぶ、全長65.3 km、軌間891 mmの電化路線である。同路線を所有するストールストックホルムス・ロカールトラフィーク(Storstockholms Lokaltrafik、以下SLと記載)は2010年代以降線路や施設の近代化を進めており、それに伴う本数増加に対応するためSLは新型電車に関する国際入札を実施した。その結果、2016年8月23日にスイスのシュタッドラー・レールが受注を獲得し、翌2017年4月21日にSLとの間に22編成およびオプション45編成、約20億クローネ分の製造契約を結んだ事を発表した。これがX15p形電車である。 動力台車を有する先頭車(電動制御車)と集電装置(シングルアーム式パンタグラフ)が設置された中間車(付随車)による3両編成で、営業運転時の最高速度は100 km/h、設定最高速度は120 km/hである。車体は全溶接式のアルミニウムで製造され、車体の頑丈さと軽量化の両立、それに伴うエネルギー消費量や運用コストの削減が図られている。また、車体設計においては冬季のスウェーデンの極寒に対応した設計が行われており、車内は冷暖房が完備されている。 全車とも両開き式の乗降扉を含めた車体中央部は床上高さが低くなっている他、車椅子、ベビーカー、自転車が搭載可能なフリースペースや優先座席も各車両に設置されており、従来使用されていたX10p形(3両編成)と比べてバリアフリーへの対応の強化が実施されている。また、X10p形と異なり全車とも貫通幌で繋がっており、各車両の往来が可能である。曲線区間に設置されたプラットホームに対応するため、乗降扉には収納式ステップが搭載されている。座席配置は2 + 2列のボックスシートで、一部の座席下部には充電用のコンセントも設置されている。 2020年の秋から冬にかけて最初の車両がロスラグスバナンに搬入され、試運転を経て2022年から営業運転を開始する予定になっており、以降2024年までに発注分22編成が導入される。これにより、X10p形(101両)と合わせてロスラグスバナンの輸送力の大幅な増強が図られる。
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概要・運用
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「フランクフルト市電S形電車」の記事における「概要・運用」の解説
ドイツの大都市であるフランクフルト・アム・マイン市内を走るフランクフルト市電(ドイツ語版)には、1993年以降車内全体が低床構造となっている超低床電車のR形が導入された。だが、導入後は騒音や振動、電気機器の不調などのトラブルが頻発し、製造メーカー側の対応も不十分であった事から、市電を運営するフランクフルト市交通公社(VGF)(ドイツ語版)はR形の導入契約を打ち切り、代わりとしてボンバルディア・トランスポーテーションが展開するフレキシティ・クラシックを導入する事を発表した。 フレキシティ・クラシックは前後に従来の路面電車車両で用いられていた回転軸や車軸を有する動力台車を設置した連接車で、そのうちフランクフルト市電に導入されたS形は両運転台式の3車体連接車である。R形と異なり、動力台車が存在する箇所は床上高さが高くなっているため車内にはステップが存在しており、完全な超低床電車ではない(部分超低床電車)が、その一方で走行時の信頼性や騒音・振動の削減、線路の摩耗減少などの効果が得られる他、既存の路面電車車両の技術を用いる事でR形よりも安価での導入が可能となっている。低床部分に存在する乗降扉は幅1.3 mの両開き式になっており、目印として黄色のピクトグラムが貼られている他、車内には黄色の手すりが備わっている。また車内には車椅子やベビーカーが設置可能なフリースペースがあり、冷暖房も完備されている。塗装にはVGFの標準塗装であるスバルビスタブルー(青緑色)が用いられている。 2003年から2007年にかけて65両(201 - 265)が導入された他、2013年にも9両(266 - 274)が増備された。2020年現在、フランクフルト市電の主力車両として全系統で使用されている。また3両(262 - 264)については2010年に開通したスウェーデン・ストックホルムの市内線(Spårväg City)(スウェーデン語版)へ貸し出され、車両の増備が行われた翌2011年まで使用された後返却されている。 広告塗装(2007年撮影) 広告塗装(2014年撮影) 広告塗装(2020年撮影) ストックホルム市内を走行するS形電車(2010年撮影)
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概要・運用
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「フランクフルト市電L形電車」の記事における「概要・運用」の解説
第二次世界大戦からの復興が完了し、西ドイツの都市となった1950年代のフランクフルト・アム・マインでは公共交通機関の利用客が増加の一途を辿り、小型の2軸車のみが在籍していたフランクフルト市電では輸送力の増強が課題となっていた。そこで、当時フランクフルト市電を運営していたフランクフルト運送会社(Verkehrsbetrieb frankfurt)はデュッセルドルフ車両製造(→デュワグ)へ1954年に輸送力が高い大型ボギー車の発注を実施した。 車体の片側に運転台を持ち、集電装置や主電動機が設置されている電動車のL形と、L形への連結を前提に設計された運転台や主電動機が存在しない付随車のl形で構成され、前者は200番台(201 - )、後者は1200番台(1201 - )の車両番号が付けられていた。乗降扉は車体右側に3箇所設置されており、車掌が乗車していた登場初期は最後尾の扉に車掌台が存在し、乗客はこの扉から乗車し中央・前方の扉から降車する「後乗り・前降り」の流れが採用されていた。その後、1960年代に車掌業務の廃止および信用乗車方式の導入が実施されたのに伴い、すべての扉からの乗降が可能な形に改められた。 1955年に試作車となる2両編成2本(201 + 1201、202 + 1202)が導入され、その成果を基に翌1956年から1957年までに40本(203 + 1203 - 242 + 1242)が生産された。これらの量産車は試作車から一部設計が変更され、車体右側の扉間の窓数が試作車の4個から3個に減少した。また、最初の量産車となった203 - 217(L形)および1203 - 1217(l形)については郊外の長距離系統での運用を想定した設計で製造され、前照灯が2基に増設された他台車も他の車両と比べて強度を増加させており、「Lv形(電動車)」および「lv形(付随車)」という独自の形式名で区別が行われていた。その後、1962年にもL形・l形から3両の追加改造を受けたものの、1967年にこれらの車両は長距離系統から撤退し、台車もL形・l形と同様のものに交換された。 廃車は1972年の試作車から始まり、量産車も1983年以降廃車が行われた。超低床電車のR形の導入開始以降はその動きがさらに加速し、1996年をもって営業運転を退いた。それ以降もフランクフルト市電ではL形(124、236)とl形(1219、1242)を2両づつ保存しており、そのうち124と1242については動態保存運転が可能な状態となっている。 運転台(2007年撮影) 車内(2010年撮影) 台車(2009年撮影) 車体左側には乗降扉がない(2008年撮影) 現役末期の姿で保存されている236 + 1219(2008年撮影) 前照灯が2基設置されたLv形(2012年撮影)
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概要・運用
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「インド鉄道WAP1形電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
ラージダーニー急行などの速達列車用に開発された、インドの交流電気機関車初の旅客用機関車。貨客両用機関車であるWAM-4形を基礎としながらも、車体は台形状の側面を有する流線形となり、歯車比も客車や荷物車、郵便車の牽引に適したものに変更されている。車輪についても、WAM-4形で採用されたアメリカン・ロコモティブ製のものではなく、インド鉄道で独自に開発されたものを採用した。 単機で最大19両の客車を牽引する性能を有していたが、その後の旅客列車の長編成化に伴いより強力かつ高速の電気機関車が求められるようになった。その結果、WAP-3形などの試作機を経て、改良型のWAP-4形が製造される事となった。 2011年4月現在、ガーズィヤーバード車庫に42両、アラコナム(英語版)車庫に22両が配置されている。 なお、形式名の「WAP」は、「広軌向け(W)交流(A)旅客用(P)電気機関車」と言う意味である。
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「仙台市交通局モハ100形電車」の記事における「概要・運用」の解説
第二次世界大戦終戦後の仙台市は戦災復興や外地からの引上げ者などによる人口増加が生じ、仙台市電も利用客が急速に増加した結果、その時点で所有していた二軸単車だけでは対応しきれない状態になっていた。そこで輸送力増強のため新潟鐵工所に発注が行われたのがモハ80形電車である。 前面3枚窓、張り上げ屋根の半鋼製車体を有し、車体の前後に片側2枚の扉がある仙台市電初のボギー車であったが、1948年に製造された最初の5両(80 - 84)は資材不足の状況の中で製造されたために天井はベニヤ張り、車内のロングシート座席も粗末な状態での登場となった。1948年以降に製造された車両については内装の改善が実施され、1950年までに24両(80 - 103)が作られた。その後1954年に改番が行われモハ100形(101 - 124)として運用される事となった。 初期車である101 - 105の5両については原型のまま1974年に廃車された一方、残りの車両については1969年以降ワンマン運転に対応した改造工事が行われた。その際に扉配置が変更された(両端設置から、進行方向左側基準で後部の扉を閉鎖して中央部に移設)他、前面窓も向かって右側の窓が大きい左右非対称の2枚窓となり、それまでと車体が大きく変わった。以降は1976年の仙台市電廃止まで運行された。
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「タトラK2 (オストラヴァ市電)」の記事における「概要・運用」の解説
タトラK2はチェコスロバキア(現:チェコ)にかつて存在した鉄道車両メーカーのČKDタトラによって開発された2車体連接車である。先に開発された連接車のタトラK1に故障が多発した事を踏まえ、同時期に生産されていたタトラT3を基にした電気機器が採用されたのが特徴で、ループ線が存在する系統に適した片運転台式の車体を有していた。 オストラヴァ市電向けの車両は1967年に導入され同年2月に営業運転を開始した3両(802 - 804)から製造が始まり、1969年には更に5両(805 - 809)の増備が実施された。当初は更なる導入が予定されていたが、同時期のオストラヴァ市電に向けてはタトラT3(チェコ語版)の大量生産が実施されており、以降の増備は1983年に輸送力増強のために導入された2両(810、811)に留まった。この2両は元々サラエヴォ市電(ユーゴスラビア、現:ボスニア・ヘルツェゴビナ)向けに開発されたものをオストラヴァ市電を含めたチェコスロバキア各地の路面電車へ向けて導入された経歴を持つ。 ビロード離婚を経てオストラヴァ市電がチェコの路面電車となって以降は機器の更新が行われ、7両(805 - 811)はČKDトラクションが展開したTV8に、2両(802・803)はアルストム(→セゲレツ)が開発したTVプログレスへの制御装置の交換が実施され、形式名についても前者はタトラK2G(チェコ語版)に、後者はタトラK2Pに変更された。また、大半の車両は車内の改装も併せて実施された。一方で804については歴史的な車両として原形を留め2005年に引退後は保存が予定されていたが、車両の状態が悪かった事から実現せず、長期にわたって放置された後2010年に解体された。 タトラK2R.P(2006年撮影) 更新を受けた車両についても2008年に起きた事故の影響で廃車・解体された810を皮切りに廃車が始まり、2013年には機器流用車であるヴァリオLR2R.Eへ台車や主電動機などの主要機器を供出するため808と809が廃車された。それ以外の車両も2017年以降後継車両となるタンゴ NF2 "ノヴァ"(ドイツ語版)への置き換えにより営業運転から撤退し、最後に残されたのは802と803となった。そして、2018年11月3日に実施されたさよなら運転やセレモニーを最後に、オストラヴァ市電におけるタトラK2の営業運転は終了した。 引退後、803は歴史的な車両として動態保存されている一方、802については車両番号が「8210」に変更され2021年現在も在籍している。
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「中国国鉄HXD3B型電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
海外メーカーの鉄道車両の技術を取り入れ国内の電気機関車の近代化を行うという中国政府の方針のもと、ドイツのボンバルディア・トランスポーテーションからの技術供与を受けた中国北車(現:中国中車)系列の大連機車車輛が製造した、重量貨物列車牽引用の電気機関車。ボンバルディアが展開する機関車ブランド・TRAXXを基に開発が行われ、特に製造当時世界最大の牽引力を記録したマルム・トラフィークIORE形電気機関車に類似した外見を有する。ただし2車体永久連結式のIORE型とは異なり、HXD3B型は車体両端に運転席が設置された単機タイプである。電装機器は最初の150両分はヨーロッパでボンバルディアが製造したものが輸入され、それ以降は大連機車車輌によって製造された。 2008年から2011年まで500両が製造され、それまで使用されていた韶山4G型(SS4G型)電気機関車(中国語版)を置き換える形で中国各地の重量級貨物列車に用いられている他、旅客列車に使用される事もある。 なお、1893号機は2010年の製造当初毛沢東号と命名され、前面に毛沢東の胸像を模したレリーフが設置されていたが、2014年12月以降はHXD3D型1893号機(中国語版)と交代している。 旅客列車を牽引する0084号機 毛沢東号として登場した1893号機
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ウクライナ各都市の路面電車では、車両の近代化に際して新型電車の購入費用を抑えるため、既存の路面電車車両の車体改修、機器更新に加え、台車を流用し新造した車体や機器と組み合わせる機器流用車の導入が積極的に行われている。その中で、1996年に設立されたチェコの輸送用機器メーカーであるクエーサー・プラス(KVAZAR Plus s.r.o.)は、旧東側諸国へ向けて大量生産が行われたタトラT3を改造した3車体連接車・KT3UAをウクライナに向けて展開している。 改造元となるのは2両のタトラT3で、車体・車内の改修やデザインを変更した先頭部・後部の新造に加え、前方の車両は後部を、後方に繋がる車両は先頭部を切断し、連節幌の装着などの改造が行われる。この両車体の間には乗降扉付近が低床構造となっている新造中間車体が挿入され、3車体連接車が完成する。電気機器もチェコ・セゲレツ(Cegelec)が展開するIGBT素子を用いた電機子チョッパ制御方式のTVプログレス(TV Progress)に交換され、回生ブレーキも搭載される。これらの改造内容はウクライナ特許庁による特許を得たものであり、独立国家共同体で用いられるGOST規格に基づき部品の一部にはウクライナ製のものが使用される。 2004年から改造が始まり、最初の2両はシュコダの子会社であるパルス・ノヴァ(Pars Nova a.s.)で改造が行われたが、以降の車両はクエーサー・プラスと導入先の事業者によって実施されている。2020年現在、キエフ市電(キエフ・ライトレール)に14両(401 - 414)、クルィヴィーイ・リーフ・メトロトラムに2両が導入されている。 KT3UA(キーウ) KT3UA(クルィヴィーイ・リーフ)
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概要・運用
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1990年代以降、チェコのプラハ市電を始めとする旧東側諸国各都市の路面電車では、タトラT3など既存の路面電車車両の機器を更新する事による延命・近代化工事が多数実施されている。その中で、2000年にプラハ市電向けに試作車が導入され、その試験結果を受けて2001年から改造が行われたのがT3R.Pである。 電気機器がIGBT素子を用いたチョッパ制御装置と直流電動機を組み合わせたTVプログレス(TV Progress)に交換され、制動使用時に電力を回収する事が出来る回生ブレーキも搭載されている。これにより、改造前に比べ40%以上消費電力を削減する事が出来る。当初はGECアルストムの製品であったが、2001年以降はアルストムから独立したチェコの企業・セゲレツ(Cegelec)によって製造が行われている。部品の一部には日本の三菱電機製のものが使用されている。 これらの機器更新に加えて車体の改修も行われており、座席、乗降扉の駆動装置、砂撒き装置、滑り止め用の床板が交換されている他、運転台も改良が実施されている。車内にはLEDを用いた案内表示装置が搭載されている。 改造はシュコダ・トランスポーテーションの子会社であるパルス・ノヴァ(Pars nova a.c.)によって実施されているが、プラハ市電向け車両については2005年以降路面電車の修理工場で工事を行っており、それ以外の都市についてもオストラヴァ市電の車庫で改造が行われた事例が存在する。2020年現在、チェコやスロバキア各都市に加え、キエフ市電、オデッサ市電などウクライナの路面電車にも導入されている。 車内 運転台
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概要・運用
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「ベラルーシ鉄道BKG2形電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
中国の支援で電化区間の拡大を行っているベラルーシ鉄道での貨物輸送を目的に開発された機関車。2013年6月に発注が行われた。 大同電力機車がアルストムと共同開発を行ったHXD2型のうち、単機で運行可能なHXD2C型を基にした形式で、ベラルーシでの走行環境を考慮した耐寒構造が施されている他、車内には脱出用のサイドウィンドウや自動消火システムなど安全面の強化もなされている。制動装置はベラルーシ鉄道の基準に基づいた設計となっている。 2015年に最初の3両が完成し、同年から営業運転が開始された。2017年以降も増備が実施されており2019年の時点で18両が営業運転に就いている。 BKG2-008
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概要・運用
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「ベラルーシ鉄道BKG1形電気機関車」の記事における「概要・運用」の解説
中国の支援で電化区間の拡大を行っているベラルーシ鉄道での貨物輸送を目的に開発された機関車。2010年10月に発注が行われた。 大同電力機車がアルストムと共同開発を行ったHXD2型のうち2車体連結式のHXD2型を基にし形式で、ロシアにおける標準規格であるGOSTを満たした設計となっている。ベラルーシのみならずCIS諸国への投入も視野においており、車体や機器は-40℃から40℃まで対応可能な耐寒構造である。電圧の制御などはマイクロプロセッサを用い、制動装置には電空協調制御機能が採用され、電気ブレーキと空気ブレーキ双方を使用可能である。これらの機器は自動診断システムによって管理されている他、ロシアの安全基準を満たした自動消火装置も設置されている。 最初の車両は2012年に完成し、同年から営業運転が開始された。2019年の時点で12両が営業運転に就いている。 BKG1-010 メディアを再生する BKG1-001が牽引する貨物列車(動画) 運転台(BKG1-004) 機器室(BKG1-004)
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