液体式気動車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:46 UTC 版)
1950年代初頭まで、日本の気動車はほとんどが、マニュアル自動車同様の選択摺動式の多段変速機と手動(ないしは足動)クラッチによって速度制御を行う、「機械式気動車」であった。 この方式は単純で低コストではあったが、複数車両の遠隔操作(総括制御)が不可能なシステムであり、2両以上の連結運転を行う場合には、各車両に運転士を乗務させ、汽笛かブザーの合図によって協調運転を行わなければならなかった。これでは合理化に逆行し、また実用上4両以上の長大編成も困難であった。長大編成を組んでの高速運転はほぼ不可能であり、幹線輸送の主力とはなり得なかったのである。 1930年代には、欧米で主流であった「電気式気動車」が日本でも若干試作された。ディーゼル機関で発電機を駆動させ、発生した電力で電車同様に台車装架のモーターを駆動させる方式で、電車と同様な複数車両の総括制御が容易なことが長所である。 国鉄の試作電気式気動車2形式はいずれも失敗作に終わったが、南満州鉄道ジテ1形(1934年)、相模鉄道キハ1000形(1935年)は一定の成績を収めた。しかしこれらは機器類が増加し、複雑・高コストで、当時の日本のエンジン技術では重量過大でもあり、既存の路線にそのまま投入できるものではなく、同様の車両が普及することはなかった。国鉄は1952年 - 1953年にも若干の電気式気動車を試作したものの、結局は「液体式気動車」の実用化成功によって以後の発展は途絶した(詳細は「日本の電気式気動車」の項を参照)。 トルクコンバータを用いた「液体式変速機」は、神戸製鋼所が1936年にスウェーデンから技術導入して試作したものが日本での最初である。変速機の構造自体は複雑であるが、機械式気動車の変速機をそのまま置き換えることができる、総合的には簡易なシステムであった。しかも軽量で遠隔操作可能なことから、国鉄もこれを有望視し、早くも1940年に実車試験を行っている。しかしながら戦争の影響で開発は頓挫し、本格的な開発再開は1951年まで待たねばならなかった。 実用化された液体変速機を搭載した最初の液体式気動車キハ44500形は1953年に完成、当初は空転などの問題もあったが改良を重ねて克服し、全般に軽量かつ簡素な構造で気動車の総括制御が実現できるようになった。同年から量産型の液体式気動車キハ45000系(後のキハ10系)が大量増備され、蒸気機関車牽引の長大な客車列車をも代替できる存在となったことで、気動車は国鉄線に急速に普及してゆく。 さらに大型軽量ボディの実用化により、1956年には準急列車仕様のキハ44800形(後のキハ55系)、1957年には普通列車用のキハ20系が登場、従来の客車と装備面でも遜色なくなったこれらの気動車は、旅客列車近代化の大きな原動力になる。 液体式気動車の普及は、国鉄の輸送体制そのものだけではなく、鉄道沿線の地方住民・自治体などにも大きな影響を及ぼした。1960年代以前は大都市近郊でも非電化区間は多く、幹線でさえ蒸気機関車による運行が相当な割合を占めていたため、多くの非電化路線の沿線では「無煙化」こそが鉄道近代化の象徴であり課題となった。従って、都市部以外の非電化路線においては無煙化と高速化を実現できる気動車への期待と需要は非常に高まることとなった。 実際、この当時、新造される気動車の配置先を巡って、地方選出の国会議員や地方自治体の首長が国鉄本社に陳情を繰り返し、時に予算面等から干渉しようとしたり、地元への気動車導入を選挙公約に持ち出したなどのエピソードは少なからず残されている。国鉄側もこのような情勢から、一時期は新製気動車の配分を巡っての対応に苦慮することもあったという。
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