インターアーバン
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インターアーバン(英語: Interurban、都市間電気鉄道)は、都市と都市を結ぶ電気鉄道の一体系を指す。数十km程度の都市間を結ぶ路線であり、都市内輸送を中心とする鉄道、数百kmにも及ぶ長距離路線と対比される。北米、日本、西ヨーロッパで普及した。
注釈
- ^ そもそも、Interurban は英語で Inter(~間) urban(都市) であって、ドイツ語の「道」bahn と全く別であるから、インターバーンはドイツ語としては意味をなさない。
- ^ 世田谷線は軌道時代の支線を受け継ぐ
- ^ 日本における寝台車の電車は、1967年の581系電車が初例である。
- ^ 市内区間は後に名古屋市電へ譲渡された。
- ^ 詳細は市営モンロー主義の項を参照されたい。なお、アメリカにおいても市街路線への乗り入れは困難を伴うケースもあった。市街鉄道の線路幅が標準軌ではなく、2線式の架線を有していたシンシナティ市街への乗り入れはその代表的な事例とされている。またデトロイト市では、市街路線の公有化により、インターアーバンの市街路線乗り入れが中止された時期が存在した。
- ^ それ以外はイングリッシュ・エレクトリックの電動カム軸制御器やAEGの他励界磁制御による直卷電動機を用いる電力回生ブレーキなど、ヨーロッパ由来の技術が大半を占め、少なくとも戦前の日本の電気鉄道においては、基礎理論レベルからの独自開発技術は皆無に等しかった。
- ^ スケッチ生産品とも呼ばれる。ただし、ウェスティングハウス・エレクトリック製電動機のデッドコピー品を東芝(芝浦製作所)が製造するなど、提携外のメーカーの製品をコピーした例も少なくない。
出典
- ^ 甲州街道京王線
- ^ 山陽電鉄併用軌道区間
- ^ 日本車輌製造. “米国・NICTD(インディアナ州北部通勤輸送公団)向け電車 1号車完成記念式典”. 2017年12月10日閲覧。
インターアーバン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「インターアーバン」の解説
1880年代頃の時点で都市間の鉄道は蒸気鉄道が発展していたが、都市内の交通は馬車あるいは馬車鉄道に頼っていた。馬車鉄道は速度が遅い上に馬の維持に多額の費用がかかっており、代替となる都市内交通手段が求められていた。蒸気機関車を都市内で運転しているところもあったが、郊外には適していても都市内では煙害が大きな問題であった。馬車鉄道のような路面軌道では馬による牽引に代えて、サンフランシスコのケーブルカーのように地上側のケーブルの牽引によるものや、バッテリーで走行するものなどが試みられ、ケーブルカーはそれなりの普及を見た。1880年代になると第三軌条や架空電車線方式による様々な形態の路面電車の開発が始まった。その中で最終的に広く普及する路面電車の開発を行ったのは、フランク・スプレイグであった。スプレイグは、架線からトロリーポールを使って集電する仕組みや、台車枠と車軸の間に電動機を渡しかけて、電動機が車軸の変位に応じて位置を変えながら回転を歯車で伝達する吊り掛け駆動方式などを開発して、路面電車を実用的に運行できるようにした。1887年にバージニア州リッチモンドで初めてスプレイグ方式の路面電車が開業し、大きな成功を収めた。この成功は大きな注目を集めてスプレイグの会社には注文が殺到し、1901年までにアメリカ合衆国内だけで総延長15,000マイル(約24,000 km)を超える路面電車が運転されるようになった。 こうした路面電車の発展により、郊外や都市間でも電気鉄道を運転したいという需要がでてきた。特に、移民の増加と高い出生率により農村の人口は増加を続けていたので、農村と近隣の都市の間での交通需要は高まりつつあったが、これを満たせる交通機関はそれまで存在していなかった。そこで、たとえばニューイングランド地方では都市内部の路面電車がそのまま郊外にまで延長されていくようになった。この地方では通常、設備や運賃制度などは都市内部と同じまま延長した形態となっていた。一方それ以外の地方では、郊外においては都市内と区分された形で電気鉄道が敷設されるようになり、在来型鉄道のように乗車券による運賃徴収を行ったり、路面軌道ではなく専用の軌道を備えたりした。こうした路面電車の延長線上ではあるが、郊外に進出してより在来型鉄道に近い運営形態を取るようになった電気鉄道のことをインターアーバンと呼ぶ。インターアーバンと単なる路面電車、あるいは従来型鉄道をどう区分するかには混乱も見られるが、インターアーバンの特徴としては、電気で走ること、旅客輸送中心であること、都市内の路面電車より大型で高速な車両を使うこと、都市内では路面を走行しても郊外では専用軌道を走ることが挙げられる。 定義が明確ではないためインターアーバンの路線が最初にどこに建設されたかを確定することはできないが、1890年代から次第に建設が進められていった。特にヘンリー・エヴァレット (Henry Everett)とエドワード・ムーア (Edward Moore) がオハイオ州とその周辺で建設を進めたインターアーバン網は、自社による建設と他社の買収合併を組み合わせることで急速に拡大し、1902年初頭の時点で約1,500マイル(約2,400 km)の路線網を抱え、さらに数百マイルが建設中であった。エヴァレットとムーアの会社が大きな利益を上げていたことから、1900年から1908年にかけてインターアーバン建設ブームが発生した。インターアーバンは、都市と近隣の村落を結ぶものもあったが、多くは既存の鉄道路線に並行して建設されるようになり、都市と都市を結ぶように成長していった。インターアーバンは、並行する鉄道路線に比べて速度は3分の2ほどであったが、4倍から6倍の頻度で運転され、半分から3分の2程度の運賃であったため、並行鉄道路線から多くの乗客を奪った。 インターアーバン建設ブームの時代には、1年に1,000マイル (1,600 km) を超えるペースで開通した。インディアナ州のインディアナポリスは周辺の多くの都市へインターアーバンが放射状に伸びるターミナルとなった。インターアーバン同士がつながり、オハイオ州ニューアークからインディアナ州マーティンズビル(英語版)まで、256マイル(約410 km)にわたってインターアーバンだけを乗りついでいけるほどになった。ミシガン州ではデトロイトがインターアーバン網の核となった。 しかしすべての会社が儲かっているわけではなく、この時期であっても失敗して廃線に追い込まれるインターアーバンも珍しくなかった。エヴァレットとムーアの会社も、路線自体は儲かっていたが経営管理の失敗により破綻し、資産を整理して再建を図らなければならなかった。本質的にアメリカの鉄道は貨物中心であり、従来の蒸気鉄道から旅客輸送の、それも単価の安い短距離輸送の多くを奪ったとしても、その収入は小さくならざるを得なかった。1902年の調査では、オハイオ州で営業していた16社のうち、配当を払えていたのは9社に過ぎず、インディアナ州では27社中2社、ミシガン州では24社中4社であった。1907年恐慌により建設ブームは収束し、その後は緩やかなペースに留まった。1908年までの急速な建設により需要の見込める主要な路線は建設されてしまっており、残されているのは需要の少ない路線であるにもかかわらず、建設コストが増大して利益を見込めなくなっていたことや、インターアーバンが利益を上げづらい産業であるという情報が投資家にも広まったこと、そして州際通商委員会の規制で在来型の鉄道の運賃が下がったため、インターアーバンの運賃上の有利性が薄れて旅客を集めづらくなったことなどが影響した。しかしそれでも新たなインターアーバン路線の提案は続いた。インターアーバンの計画の中でも壮大なものとしては、シカゴ-ニューヨーク・エレクトリック・エアライン鉄道の構想がある。シカゴとニューヨークをほぼ一直線に勾配が緩く曲線の少ない全線立体交差の路線を建設し、少なくとも75マイル毎時の平均速度で両都市を10時間で結ぶというものであった。この路線は実際に着工されたが、シカゴ近郊の比較的平坦な区間であってもこの規格での建設は費用がかかりすぎ、ごく一部の区間を開通させただけで破綻した。 インターアーバンの総延長は、1916年に15,580マイル(24,928 km)に達して最大となった。しかしインターアーバンが全盛であった時代であっても、利益は投資家が期待したほどの水準には達していなかった。線路の規格が低すぎて高速走行の障害となり、借金に頼って建設した結果利子の支払に苦しみ、路上走行することに対する地元からの批判はますます強くなっていった。こうした元からインターアーバンにとって厳しい経営環境であったのに追い討ちをかけたのが、自家用車の普及であった。自家用車は、まさにインターアーバンが得意としていたような郊外と近隣の都市を結ぶような旅客輸送ではとても便利であり、また一度購入すればマイルあたりのガソリン代は、特に多くの人数で乗ればインターアーバンの運賃より安かった。さらにバスの性能が向上すると、しばしばそちらの方が便利となっていった。インターアーバンの会社自体が、他のバス会社の進出を防ぐためにバス事業に乗り出した場合もあった。 インターアーバンは第一次世界大戦前から次第に衰退が始まり、1915年が最後にまとまった距離のインターアーバンが建設された年であった。大戦中は戦時輸送で小康を得たものの、1920年にはついに1890年以来初めて、新規の路線建設がなくなった。1924年を過ぎると急速に衰退していった。1933年までに多くのインターアーバンは廃止となった。旅客輸送を主体とするというインターアーバンの本来の趣旨に反して、1934年以降も運行を続けたインターアーバンの多くは貨物輸送を兼営し、蒸気鉄道と接続して貨物の連絡輸送を行うことで収益を上げていた。なかには旅客営業を廃止し電気設備を撤去して、蒸気機関車運転の貨物専業鉄道に転換した会社もあった。第二次世界大戦中も戦時輸送に伴う小康を得た後、1947年から1955年の間に残っていたインターアーバンのほぼすべてが廃止となった 「インターアーバン」も参照
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