インターアーバンとは? わかりやすく解説

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インターアーバン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 09:54 UTC 版)

インターアーバン英語: Interurban都市間電気鉄道)は、都市と都市を結ぶ電気鉄道の一体系を指す。数十km程度の都市間を結ぶ路線であり、都市内輸送を中心とする鉄道、数百kmにも及ぶ長距離路線と対比される。北米日本西ヨーロッパで普及した。


注釈

  1. ^ そもそも、Interurban は英語で Inter(~間) urban(都市) であって、ドイツ語の「道」bahn と全く別であるから、インターバーンはドイツ語としては意味をなさない。
  2. ^ 世田谷線は軌道時代の支線を受け継ぐ
  3. ^ 日本における寝台車の電車は、1967年581系電車が初例である。
  4. ^ 市内区間は後に名古屋市電へ譲渡された。
  5. ^ 詳細は市営モンロー主義の項を参照されたい。なお、アメリカにおいても市街路線への乗り入れは困難を伴うケースもあった。市街鉄道の線路幅が標準軌ではなく、2線式の架線を有していたシンシナティ市街への乗り入れはその代表的な事例とされている。またデトロイト市では、市街路線の公有化により、インターアーバンの市街路線乗り入れが中止された時期が存在した。
  6. ^ それ以外はイングリッシュ・エレクトリックの電動カム軸制御器やAEGの他励界磁制御による直卷電動機を用いる電力回生ブレーキなど、ヨーロッパ由来の技術が大半を占め、少なくとも戦前の日本の電気鉄道においては、基礎理論レベルからの独自開発技術は皆無に等しかった。
  7. ^ スケッチ生産品とも呼ばれる。ただし、ウェスティングハウス・エレクトリック製電動機のデッドコピー品を東芝(芝浦製作所)が製造するなど、提携外のメーカーの製品をコピーした例も少なくない。

出典




インターアーバン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)

アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「インターアーバン」の解説

1880年代頃の時点都市間の鉄道蒸気鉄道発展していたが、都市内交通馬車あるいは馬車鉄道頼っていた。馬車鉄道速度が遅い上に馬の維持多額の費用かかっており、代替となる都市内交通手段求められていた。蒸気機関車都市内運転しているところもあったが、郊外には適していても都市内では煙害大きな問題であった馬車鉄道のような路面軌道では馬による牽引代えてサンフランシスコケーブルカーのように地上側のケーブル牽引よるものや、バッテリー走行するものなどが試みられケーブルカーそれなりの普及見た1880年代になると第三軌条架空電車線方式による様々な形態の路面電車開発始まったその中で最終的に広く普及する路面電車開発行ったのは、フランク・スプレイグであったスプレイグは、架線からトロリーポール使って集電する仕組みや、台車枠車軸の間に電動機渡しかけて、電動機車軸変位に応じて位置変えながら回転歯車伝達する吊り掛け駆動方式などを開発して路面電車実用的に運行できるようにした。1887年バージニア州リッチモンド初めスプレイグ方式路面電車開業し大きな成功収めた。この成功大きな注目集めてスプレイグ会社には注文殺到し1901年までにアメリカ合衆国内だけで総延長15,000マイル(約24,000 km)を超える路面電車運転されるようになったこうした路面電車の発展により、郊外都市間でも電気鉄道運転したいという需要がでてきた。特に、移民の増加と高い出生率により農村人口増加続けていたので、農村近隣の都市の間での交通需要高まりつつあったが、これを満たせる交通機関それまで存在していなかった。そこで、たとえばニューイングランド地方では都市内部の路面電車そのまま郊外にまで延長されていくようになった。この地方では通常設備運賃制度などは都市内部と同じまま延長した形態となっていた。一方それ以外地方では、郊外においては都市内区分された形で電気鉄道敷設されるようになり、在来鉄道のように乗車券による運賃徴収行ったり、路面軌道ではなく専用軌道備えたりした。こうした路面電車延長線上ではあるが、郊外進出してより在来鉄道に近い運営形態を取るようになった電気鉄道のことをインターアーバンと呼ぶ。インターアーバンと単なる路面電車、あるいは従来型鉄道をどう区分するかには混乱見られるが、インターアーバンの特徴としては、電気で走ること、旅客輸送中心であること、都市内路面電車より大型高速車両を使うこと、都市内では路面走行して郊外では専用軌道を走ることが挙げられる。 定義が明確ではないためインターアーバンの路線最初にどこに建設されたかを確定することはできないが、1890年代から次第建設進められていった。特にヘンリー・エヴァレット (Henry Everett)とエドワード・ムーア (Edward Moore) がオハイオ州その周辺建設進めたインターアーバン網は、自社による建設他社の買収合併組み合わせることで急速に拡大し1902年初頭時点で約1,500マイル(約2,400 km)の路線網抱え、さらに数百マイル建設中であったエヴァレットムーア会社大きな利益上げていたことから、1900年から1908年にかけてインターアーバン建設ブーム発生した。インターアーバンは、都市近隣の村落を結ぶものもあったが、多く既存鉄道路線並行して建設されるようになり、都市と都市を結ぶように成長していった。インターアーバンは、並行する鉄道路線比べて速度3分の2ほどであったが、4倍から6倍の頻度運転され半分から3分の2程度運賃であったため、並行鉄道路線から多く乗客奪った。 インターアーバン建設ブームの時代には、1年に1,000マイル (1,600 km) を超えるペース開通したインディアナ州インディアナポリス周辺多く都市へインターアーバンが放射状伸びるターミナルとなった。インターアーバン同士つながりオハイオ州ニューアークからインディアナ州マーティンズビル(英語版)まで、256マイル(約410 km)にわたってインターアーバンだけを乗りついでいけるほどになったミシガン州ではデトロイトがインターアーバン網のとなった。 しかしすべての会社儲かっているわけではなく、この時期であっても失敗して廃線追い込まれるインターアーバンも珍しくなかったエヴァレットムーア会社も、路線自体儲かっていたが経営管理失敗により破綻し資産整理して再建を図らなければならなかった。本質的にアメリカの鉄道貨物中心であり、従来蒸気鉄道から旅客輸送の、それも単価の安い短距離輸送多く奪ったとしても、その収入小さくならざるを得なかった。1902年調査では、オハイオ州営業していた16社のうち、配当払えていたのは9社に過ぎずインディアナ州では27社中2社、ミシガン州では24社中4社であった1907年恐慌により建設ブーム収束しその後緩やかなペースに留まった。1908年までの急速な建設により需要見込める主要な路線建設されしまっており、残されているのは需要少な路線であるにもかかわらず建設コスト増大して利益見込めなくなっていたことや、インターアーバンが利益上げづらい産業であるという情報投資家にも広まったこと、そして州際通商委員会規制在来型の鉄道運賃下がったため、インターアーバンの運賃上の有利性薄れて旅客集めづらくなったことなどが影響した。しかしそれでも新たなインターアーバン路線提案続いた。インターアーバンの計画中でも壮大なものとしては、シカゴ-ニューヨーク・エレクトリック・エアライン鉄道構想がある。シカゴニューヨークをほぼ一直線勾配緩く曲線少な全線立体交差路線建設し少なくとも75マイル毎時平均速度で両都市10時間で結ぶというものであった。この路線実際に着工されたが、シカゴ近郊比較平坦な区間であってもこの規格での建設費用がかかりすぎ、ごく一部区間開通させただけで破綻した。 インターアーバンの総延長は、1916年15,580マイル24,928 km)に達して最大となった。しかしインターアーバンが全盛であった時代であっても利益投資家期待したほどの水準には達していなかった。線路規格が低すぎて高速走行障害となり、借金頼って建設した結果利子支払苦しみ路上走行することに対す地元からの批判はますます強くなっていったこうした元からインターアーバンにとって厳し経営環境であったのに追い討ちをかけたのが、自家用車普及であった自家用車は、まさにインターアーバンが得意としていたような郊外近隣の都市を結ぶような旅客輸送ではとても便利であり、また一度購入すればマイルあたりのガソリン代は、特に多く人数乗ればインターアーバンの運賃より安かった。さらにバス性能向上すると、しばしばそちらの方が便利となっていった。インターアーバンの会社自体が、他のバス会社進出を防ぐためにバス事業乗り出した場合もあった。 インターアーバンは第一次世界大戦前から次第衰退始まり1915年最後にまとまった距離のインターアーバンが建設された年であった大戦中は戦時輸送小康得たものの、1920年にはついに1890年以来初めて、新規路線建設なくなった1924年を過ぎると急速に衰退していった。1933年までに多くのインターアーバンは廃止となった旅客輸送主体とするというインターアーバンの本来の趣旨反して1934年以降運行続けたインターアーバンの多く貨物輸送兼営し、蒸気鉄道接続して貨物連絡輸送を行うことで収益上げていた。なかには旅客営業廃止し電気設備撤去して蒸気機関車運転の貨物専業鉄道転換した会社もあった。第二次世界大戦中戦時輸送に伴う小康得た後、1947年から1955年の間に残っていたインターアーバンのほぼすべてが廃止となった 「インターアーバン」も参照

※この「インターアーバン」の解説は、「アメリカ合衆国の鉄道史」の解説の一部です。
「インターアーバン」を含む「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事については、「アメリカ合衆国の鉄道史」の概要を参照ください。

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