日本における初期のインターアーバン路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 22:12 UTC 版)
「インターアーバン」の記事における「日本における初期のインターアーバン路線」の解説
アメリカにおけるインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わった。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては、藤岡市助が有名であるが、彼は工学寮電信科卒で、著名な物理学者ウィリアム・トムソンの弟子であり、電気計測機器の開発で名を馳せた物理学者エアトンに直接教育を受けてもおり、知識の上では欧米諸国の技術者と同等以上の水準であった。また、阪神電鉄の建設に携わった三崎省三はスタンフォード大学の電気工学科で教育を受けており、アメリカのインターアーバン建設に携わった同窓には事欠かなかった。電気鉄道の隆盛を報じたアメリカの業界誌は、日本でも技術者や帝国大学で購読されており、その記事の中には日本人技術者が投稿した日本の電気鉄道の動向に関するレビューすら存在した。このため、インターアーバン建設にあたっては技術的な問題よりも、日本の法律(規制)、交通事情、経済事情に合致する路線をどう建設するかというのが大きな課題となった。 こうした課題を乗り越え、日本で最初にインターアーバンを開業させたのは阪神電気鉄道であった。阪神は大阪 - 神戸間の並行線開業に反対する鉄道作業局が所管する私設鉄道法ではなく、内務省と鉄道作業局が共同で所管していた軌道条例に依拠し、しかも当時の内務省幹部であった古市公威から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道とするという、法の抜け穴を突いた奇策によって、1905年(明治38年)4月に大阪出入橋 - 神戸三宮間のインターアーバン路線(後の本線)を開業している。従来の路面電車に比べ、軌道、車両ともに高規格の設備は、当時の阪神電鉄技師長であり建設時にもアメリカ視察を行った三崎省三の意向を反映したもので、建設ブームの真っ只中にあったアメリカのインターアーバンに範を採ったものであった。この阪神を前例として、同年12月には、京浜電気鉄道が神奈川まで延伸、品川(東京) - 神奈川(横浜)間の都市間運行を行うようになった(後の本線)。 日本での初期のインターアーバンとしては、この他に1910年(明治43年)の名古屋電気鉄道郡部線(後の名鉄犬山線、津島線など)、京阪電気鉄道京阪本線の事例などを挙げることができる。いずれも、アメリカのインターアーバンの影響を強く受けていた。特に、名古屋電気鉄道の郡部線は小形車による短距離運行であったが、やはりアメリカ(パシフィック電鉄)での視察結果をもとに建設され、多くの事例に倣い、市街電車路線を利用して都心部に乗り入れていた。京阪電気鉄道も路線免許の競合に由来する諸事情により、同様の計画をもっていたが、大阪市側の政策変更で市街電車路線(大阪市電)への乗り入れは実現しなかった。
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