1983年以降
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「ジョン・エントウィッスル」の記事における「1983年以降」の解説
ザ・フー解散後、1986年にザック・スターキー、ヘンリー・スモールらを迎えて6枚目のソロ作『ザ・ロック』を製作するも、契約したレーベルがFBIによって閉鎖されたため、お蔵入りになってしまう。『ザ・ロック』はその後1996年に発売されている。この頃より、エントウィッスルの経済的困窮がメディアで取り沙汰されるようになる。以降、自身が中心となって行う音楽活動からは遠ざかることになった。 1987年、楽器フェアのプロモーションのために初来日。ザ・フーの中で最初に来日を果たしたメンバーとなった。1990年にはキース・エマーソン、ジェフ・バクスターらと共にザ・ベストを結成。このバンドで2度目の来日を果たし、ツアーも行ったが、一部から「落ち目スターの荒稼ぎ」と揶揄され、客の入りはよくなかったという。1995年にはリンゴ・スター・バンドへ参加し、このバンドで3度目の来日。2000年にもビートルズのトリビュート・バンド、アビー・ロードの一員としてのために来日した。これで生前に4度、音楽活動で日本を訪れていたことになる。しかしザ・フーとしての来日することは生涯一度もなく、ダルトリーとタウンゼントは彼の死後の2004年にザ・フーとして初来日・初公演を果たしている。 1994年から1996年にかけてジューダス・プリーストのギタリストであるグレン・ティプトンのソロ・アルバムにドラマーのコージー・パウエルと参加し、アルバム『エッジ・オブ・ザ・ワールド (Edge of The World)』を制作するが、アルバムは一時お蔵入りになってしまい、発売されたのは10年後の2006年だった。バンド名は『ティプトン、エントウィッスル&パウエル』名義となっている。また、作曲とボーカルは全てティプトンが担当しており、エントウィッスルはベースの演奏だけに徹している。 1998年、久々に自身が中心となるバンド、ジョン・エントウィッスル・バンドを結成、2000年にアルバム『ミュージック・フロム・ヴァンパイアズ』をリリース。怪奇趣味があった彼らしい吸血鬼をテーマにした作品であったが、これがエントウィッスル生涯最後のスタジオ・アルバムとなった。
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1983年以降
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彼女の名が知られるようになったのは、1983年に行われたピーク・レジャー・クラブ の建築設計競技(コンペ)である。これは香港のビクトリア・ピーク山上に建設が予定されていた高級クラブのためのコンペで、ジョン・アンドリュース、ガブリエル・フォルモサ、磯崎新、アルフレッド・シウ、ロナルド・プーンが審査委員を務めた。磯崎の推薦により ザハが一等を獲得したが、爆発した建物の無数の破片が鋭い軌跡を宙に残しながら飛び交うような設計案は、コンペ勝利直後に事業者が倒産したことで実際に建設されることはなかった。1980年代にはハーバード大学、イリノイ大学シカゴ校、コロンビア大学(客員教授)などで教鞭をとったこともあり、1988年にニューヨーク近代美術館が主催した『脱構築主義者建築展』などでも注目されたが、独立後から十数年間は実現に至った建築は無かった。同年には、建築写真家の二川幸夫によって、日英表記の作品集が出版された。 1990年に札幌のモンスーン・レストラン の内装を手掛け、同年の大阪の国際花と緑の博覧会では他の脱構築主義建築家らとともにフォリーを手がけている。1993年から1994年の作品であるドイツのヴェイル・アム・ラインのヴィトラ消防署が、彼女にとって最初の実際に建設されたプロジェクトになった。これはスイスの家具・インテリア製造会社であるヴィトラ(英語版)の工場跡地に建設されたヴィトラ・デザイン・ミュージアムの一部であり、安藤忠雄のカンファレンス・パビリオン、アルヴァロ・シザのプロダクション・ホール、ジャン・プルーヴェのガソリンスタンド、バックミンスター・フラーのドームテント、ヘルツォーク&ド・ムーロンによるショップ・カフェを併設するショールームなどが隣接している。 1994年にはウェールズの首府カーディフのカーディフ・ベイ・オペラハウス の設計コンペに勝利したが、保守的なチャールズ皇太子がメディアを通して伝統主義的建築の復興を訴えるキャンペーンを行なっていた影響もあり、コンペはやり直しになった。2度目の選考でもハディッドが勝利すると、資金提供を予定した国営クジ公社 は建築計画を中止した。2000年代になると、建築技術の進歩により建築可能な物件が増えている。2006年には事務所を構えるイギリスでガン患者の支援を行う団体であるマギーズ・センターズ のファイフにあるビクトリア病院内の事務所を設計しこれがイギリス初の建築された建築物であり、彼女の英国代表作となった。 以後は国際デザインコンペで多く勝利している。2002年、シンガポールの都市計画コンペで勝利し、2004年ロンドン五輪の水泳会場アクアティクス・センターを設計、2005年にはバーゼルの新カジノ建設計画のコンペも入賞した。2012年には日本の国立競技場のコンペで最優秀賞を受賞し、設計に当たることになった。また、建築設計以外にも『ブリタニカ百科事典』の編集委員の一員になるなど、活躍の場を広げている。 建築における顕著な功績で2002年に大英帝国勲章コマンダー (CBE)、2012年に同デイム・コマンダー (DBE) を受章。2004年には女性初のプリツカー賞を受賞した。 インテリアの仕事も多く、ロンドンのミレニアム・ドームの『マインド・ゾーン』の内装設計などが有名であるほか、東京・原美術館におけるドイツ銀行コレクション展の展覧会場設計も行っていた。 2013年11月には2022年のFIFAワールドカップで使用されるカタールの新スタジアム「アル・ジャヌーブ・スタジアム」を設計した。この新スタジアムのコンセプトは、カタールの伝統的な漁船「ダウ船」をイメージし、見た目の美しさだけでなく、現地の強烈な日差しにも耐えられるよう工夫してつくられている。しかしデザインが発表されるとインターネット上では「女性器に似ている」として話題になった。これに対しザハ・ハディド側は米『タイム』誌に対し「彼らのナンセンスな意見には本当に戸惑っているの」「彼らが何て言っているかって?建物の穴が女性器に見えるってことばかりよ。ばかげているわ」と語っている。また「もし仮に男性が設計したのなら、こんな卑猥な比較はされなかったでしょう」と発言。だが大衆の意見は変わらず、米『ニューズウィーク』と合併したニュースサイト「デイリー・ビースト」で11月26日、「芸術作品の本質において、鑑賞者の反応は作家が伝えようとした意図と同様に重要である」と主張。最後には、「女性器に見えるという感想は誰も非難すべきものではない」と結んでいる。 2016年には女性建築家初のRIBAゴールドメダル受賞。3月31日、気管支炎の治療を受けていたマイアミの病院(Mount Sinai Medical Center)にて、心臓発作のため死去した。後日、London Central Mosqueにて追悼式が行われた。
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1983年以降
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1983年は1月の障害オープンでは3着に敗れたが、2戦目の東京障害特別で2着のメジロアンタレスに3秒の差をつける圧勝で重賞初優勝を遂げた。しかし3月の中山競馬場での障害オープンは勝ったメジロクラウンに6.5秒差の5着と負け、中山大障害(春)でも1番人気はメジロクラウンとなりオキノサキガケは2番人気での出走となった。しかし、メジロクラウンはレース途中で鼻出血を発症し8頭立ての6着と惨敗。オキノサキガケは先行2,3番手でレースを進め、大生垣の着地がやや悪かったが体勢を立て直し、最後の坂路を越えてライバコウハクとのマッチレースとなったが、ゴール手前で外からライバコウハクをかわして優勝した。 同年秋の東京障害特別は63kgのハンデで出走したが5着。続く中山大障害は1982年に中山大障害を連覇したキングスポイントが単勝1.1倍の圧倒的な人気となり、オキノサキガケは2番人気とはいえ単勝8.4倍でのスタートとなった。キングスポイントは2番手から大竹柵を越えて先頭に立ち、オキノサキガケは後方を追走。オキノサキガケは大生垣を越えて徐々に進出し、最終障害を越えて直線手前で先頭のハヤテタケル、キングスポイントを抜いて先頭に立ち、最後は内から伸びてきたメジロジュピターを1馬身1/4抑えて春秋連覇となった。同年の最優秀障害馬に選出される。 1984年は年明けの東京障害特別を優勝したネイティブボーイから0.6秒差の4着。続く中山の障害オープンは62kgで出走し、65kgのキングスポイントから0.8秒差の4着と完敗した。中山大障害はキングスポイントが単勝1.2倍、オキノサキガケが5.3倍の2番人気となったが、キングスポイントは水濠障害で故障し、1、2コーナー中間の生垣障害手前で競走中止。オキノサキガケも優勝したメジロジュピターから17馬身差で完走した4頭の中で最下位という結果に終わった。その後も結果を残せず、秋の大障害はメジロアンタレスから5馬身3/4差の4着となり、翌1985年4月の中山大障害(春)では大竹柵で騎手落馬により競走中止。5月に競走馬登録を抹消し、その後は馬術競技馬として生活した。
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