略歴と作風
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「エマヌエーレ・カサーレ」の記事における「略歴と作風」の解説
13歳から作曲をはじめ、ソッリマ、チプリアーニ、ディ・シーピォに師事。その後、シャリーノ、クレメンティ、トルゥアックスのコースも受講した。20代前半にはすでに作風を確立し、入野賞、ユネスコ国際電子音楽会議、ブールジュ国際電子音楽コンクールの全てで優勝した。 イタリアの70年代生まれの中で、最も要求が苛烈な作曲家である。MM=120で32分音符、またはMM=96で40分音符(32分音符の五連)といった極限のパルスを生楽器と電子音の両面で用いるため、非常に殺伐とした雰囲気が得られるのが特徴。生楽器で演奏された音群が、忘れた頃に電子音の類似色で模倣されるため、いくつかの箇所では単一声部の認識が不明瞭になる。彼にとって、コンピュータは人間にとって不可能な音群を制御するものではなく、むしろフィードバックや認識置換といった感覚で用いられている。題名は、「練習」や「コンポジション」といったそっけないものが多かったが、近作は「6」や「10」などの数詞しかつけていない。 電子音を使った作品が強みだが、近年はプロメテオ弦楽四重奏団、フルートのマリオ・カローリ、ファゴットのパスカル・ガロワ、大野和士指揮ベルギー王立歌劇場管弦楽団といった伝統的な編成からも頼られ、極限スピード一辺倒の作風から離れてきてはいる。 作品はヌオーヴァ・ストラディヴァリウスから出版されていたが、かつて現代音楽部門をほとんど廃したはずのリコルディに即座に引き抜かれた。このことからも彼の存在の強さが裏付けられている。作品はイタリアのみならず、海外でも積極的に紹介されている。
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略歴と作風
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大阪府大阪市出身。同志社高等学校を卒業後、愛知県立芸術大学音楽学部作曲科で石井歓に、ドイツのミュンヘン国立音楽大学作曲科でヴォルフガング・キルマイヤーに師事。1977年に愛知県立芸術大学大学院修了。 現代音楽の作曲家として、「交響曲第1番アニマ」など5曲の交響曲、「弦楽器群のためのモルゲン」などのオーケストラ、室内楽、「ピアノのためのMei-An」などの器楽曲と多くの分野で、100以上の作品がある。ガウデアムス音楽週間内若手作曲家対象国際コンクール佳作など、国際コンクールでの受賞歴・入賞歴多数。一方で1980年代にはNHKのテレビドラマの音楽なども数多く手がけた。 80年代後半よりコンピュータ音楽に取り組み、ミュージックシアターや映像音響詩の分野で多数の作品を発表。ドイツのメディアアート研究所「ZKM」より客員芸術家として招かれるなど、国際的に高い評価を得ている。近年は、比較的反復語法を多用した安定した楽器法による音色の比重が多い。また、東南アジアの説話劇「ラーマヤナ」からのインスピレーションを、西洋楽器のための作品や、固定映像およびライブのメディアアートにも取り入れるなど、ユニークな活動を展開している。 同志社女子大学講師、京都造形芸術大学教授、九州芸術工科大学芸術工学部音響設計学科教授、九州大学大学院芸術工学研究院教授を歴任。
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略歴と作風
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「トム・ジョンソン (作曲家)」の記事における「略歴と作風」の解説
イェール大学で修士号を取得。1983年以降はパリに住んでいる。彼の音楽は一切の虚飾と表情を廃した、完璧なミニマリズムの作品である。ある一定のルールを設定し、そのルールにもとづいてリズムとメロディーが算出され、結果がそのまま五線譜に定着されることで有名である。 ミクストメディアにも早くから興味を示し、オペラ作品演出では視覚的要素すら最小限にとどめることで、その世界観を強固なものとしている。
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略歴と作風
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ブルックリン・ポリテクニック、カリフォルニア芸術大学、カリフォルニア大学、ヨーク大学などで教壇に立ち、ジョン・ルーサー・アダムズやラリー・ポランスキーらの門人がいる。アメリカ現代音楽の理論家としてジョン・ケージからも絶大な信頼を得ていた。 ニューメキシコ州シルヴァーシティで生まれ、アリゾナ州とコロラド州で育った。デンヴァー大学やジュリアード音楽学校に学ぶかたわら、1958年にベニントン大学で文学士号を、1961年に文学修士号を取得。ピアノをエドゥアルト・シュトイアーマンに、作曲をカール・ラッグルズ、ジョン・ケージ、ハリー・パーチ、エドガー・ヴァレーズ、周文中らに師事。情報理論と作曲をリージャレン・ヒラーに師事し、確率論による初期のコンピューター音楽を作曲するが、その後はテープのディレイ効果や微分音・純正律を用いた器楽曲の創作に乗り換えた。演奏家としてはハリー・パーチやスティーヴ・ライヒ、フィリップ・グラスらの楽団や、ジョン・ケージと共演している。 テニーの作品は知覚や純正律、エルゴ理論(エルゴード性)を取り扱っており、その方法は単純なものから、手練手管を労したものまでさまざまである。「アンのために(高揚) For Ann (rising) 」のように、しばしば献辞がそのまま作品名にされることがある。2000年からはカリフォルニア芸術大学に呼び戻され教授職についた。 テニーは、ヴェルゴ・レーベルによるコンロン・ナンカロウ・エディション(《自動ピアノのための習作》シリーズ)に徹底した解説文を寄せており、ナンカロウはテニーの「コンロン・ナンカロウのための分光カノン Spectral Canon for Conlon Nancarrow 」をお気に入りとしてピアノロールに残した。「変速(超速度) Meta (+) Hodos 」は、ゲシュタルト理論や認知科学を適用した最初期の作品の一例であり、門人ラリー・ポランスキーの作風に先鞭をつけた。1980年代から「ユビュドへの道」や「ブリッジ」、「ピカ・ドン」などで、創作の全盛期を迎えていた。 ドイツでは1990年代にダルムシュタットに招かれ、著名になった。その後もオーストリアのクレムス等にラモンテ・ヤングと共に招待されゲネプロなどの公開などを含むレクチャーで多くの賛同者をヨーロッパにも作り出し、多くの研究論文が音楽学者によって雑誌に公表された。晩年は一連のケルン放送局からの委嘱も受けている。 2006年、肺癌により死去。72歳没。
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「コーネリアス・カーデュー」の記事における「略歴と作風」の解説
カーデューはハンス・アイスラー、マーク・ブリッツステイン、フレデリック・ジェフスキー、クリスチャン・ウォルフ、ルイジ・ノーノらとともに、初期の前衛的作曲家から、後期の政治論客へと転向した音楽家のひとり。 ケルンに留学、1958年から1960年までカールハインツ・シュトックハウゼンに師事、しばらくその助手をつとめた。ピアニストとしては、シュトックハウゼンのほかにジョン・ケージ、モートン・フェルドマン、クリスチャン・ウォルフの室内楽曲の演奏家として特に有名である。この時期に書かれた《ピアノソナタ第3番》はシュトックハウゼンの影響が良質な形で継承された秀作である。実験音楽の演奏では、自由即興演奏集団AMMとも共演をくり広げた。この時期の演奏家としての姿勢はマイケル・ナイマン・バンドに引き継がれている。 帰国後はハワード・スケンプトンらとともに、実験的演奏集団「スクラッチ・オーケストラ」の創設者のひとりとなる。純粋に心理学的に解釈される図形楽譜を用いた《論文 Treatise 》、儒学思想に基づき即興演奏が展開される《大学 The Great Learning 》などの作品で著名となる。 英国政界の極左グループに属し、様々な社会問題にも活動した。(マルクス・レーニン主義を綱領とする)英国革命共産党の共同創設者でもある。このため後に前衛音楽を棄て、後期ロマン派音楽の調的な様式によって作曲するかたわら、著書『シュトックハウゼンは帝国主義の手先』を執筆した(1974年)。長らくマルクス主義や毛沢東主義の宣伝工作に献身し、しばしば伝統的なイングランド民謡を引用して数多くの歌曲を創作(《社会契約なんかぶっ飛ばせ 'Smash the Social Contract' 》《偽りは一つ、真実も一つ 'There Is Only One Lie, There Is Only One Truth' 》)。芸術家としてより政治家としての活動が多くなった。 1981年12月13日、ロンドンの自宅近くで轢き逃げ事故により急死した。犯人はわからずじまいである。突然の死により、二台ピアノのための《ブラヴォーグ Boolavogue》が未完の絶筆となった。 楽譜は、BMICが無料でpdfファイルを公開している。
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略歴と作風
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長野県小県郡県村(現東御市)に生まれた。少年時代から画家にあこがれ、当時上田市に住む倉田白羊に洋画の手ほどきを受けた。 邦二は高等小学校を卒業後、16歳で兄・啓三と上京し、日本橋通郵便局に勤めながら、中村不折経営の太平洋美術学校選科へ入学した。 1934年(昭和9年)1月、昭和10年1月、太平洋画会展覧会に連続入選。1935年(昭和10年)2月、東光会洋画展覧会に『E君の像』を出品し入選。同年3月、太平洋美術学校選科を修了すると、阿以田治修に師事した。兄弟子に松本竣介、須田寿がおり、阿以田邸に出入りしていた。 昭和10年10月、二部会展(旧帝展)に『夏の休み』を出品し入選、読売新聞には、「局員の画家」(当時、王子郵便局)の見出しで紹介される。 1940年(昭和15年)、春陽会展に『夏の日』を出品し入選。同年、阿以田治修、大久保作次郎、小柴錦待、柚木久太らが創元会を創立し、邦二は翌年、第一回創元会展(日本美術協会)に『曇日』を出品し入選。昭和17年、第二回創元会展で『風景』と『二重像』を出品、「創元賞」(最高賞)を受賞する。 召集令状が届き、郷里に戻り、故郷の思い出に『姫子沢』を描く。1944年(昭和19年)、背嚢に『姫子沢』を入れ、中国の中部各地を転戦するが、同部隊に作家 深田久弥少尉、行軍中芥川賞を受賞した八木義徳がいた。以後、深田久弥・八木義徳との交際が続く。邦二は「軍務や行軍のひまひまに、ほぼ千枚に近いスケッチを描き溜めた」(八木義徳著 小説『念願する女』より)という。 1946年(昭和21年)、復員し、板橋税務署に復職。その後、東京国税庁へ転勤。同年・翌年に日展に連続入選。昭和23年、井上長三郎、大野五郎らに誘われ、自由美術家協会展覧会に『女の顔』を出品し入選。翌年、自由美術家協会の会員に推挙され、以後、1963年まで14回出品する。 1950年(昭和25年)、北荘画廊(日本橋)で初めての個展を開く。1952年(昭和27年)に、国税庁を退職し、寺田政明の誘いで板橋区前野町にアトリエを建て、絵一筋に生きることを決意する。1954年(昭和29年)、詩人瀧口修造の勧めでタケミヤ画廊で個展。 1964年(昭和39年)、自由美術家協会を退会し、大野五郎、寺田政明、森芳雄、吉井忠、麻生三郎らと主体美術協会創立に参加し、会員となる。1967年(昭和42年)、主体美術協会を脱会。あえて束縛を離れ、孤高の自由を求める。1969年(昭和44年)、大月ホテル(熱海)のタイル壁画制作指導。 1975年(昭和50年)、新宿中村屋で座談会「阿以田治修先生の思い出を語る」が開かれ、大島清次、牛島憲之、大貫松三、須田寿と師を語り、松本竣介が阿以田邸に出入りしていたことを邦二が証言、松本の師は阿以田であることが判明した。 1978年(昭和53年)、豊田穣の新聞小説『七人の生還者』の挿画を担当し、信濃毎日新聞ら7社に280回連載する。同年、日本実在派の会員となった。この間、日動画廊(銀座)、銀座松屋デパート、紀伊国屋画廊(新宿)、山本鼎記念館(上田市)などで個展を行った。 1981年(昭和56年)、板橋美術館の依頼を受け絵画教室(油絵・裸婦デッサン)の指導を行い、指導を受けた人たちにより欅会が発足した。翌年、第1回欅会展(京橋 千代田火災ギャラリー)が開かれ、以後2012年の第30回展(京橋 くぼた画廊)まで続いている。 1996年(平成8年)、「画業60年・喜寿記念小林邦二作品展 その内なる歩み」(東部町文化会館サンテラスホール)。1997年(平成9年)に実在派を脱退し、以後無所属となった。 2001年(平成13年)、「東部町文化会館開館10周年記念展 小林邦二作品展」(東部町文化会館サンテラスホール)が開かれた。2005年(平成17年)、創造館(上田市)で「小林邦二作品展」、翌年、東御市土蔵ギャラリー胡桃倶楽部で「小林邦二卒寿記念作品展」。2007年(平成19年)、「小林邦二 画業75年 究極の自選展」(東御市梅野記念絵画館)が開かれた。 2008年(平成20年)、ふるさとの東御市に絵画多数を寄贈(250点)し、「作品寄贈記念 小林邦二展」(東御市文化会館サンテラスホール)を開催。東御市の文化発展に寄与したことにより感謝状と2度にわたり紺綬褒章を受章した。 2010年(平成22年)、持病の心不全が元で、93歳11か月で没した。同年7月、東御市主催で「小林邦二追悼展」(東御市文化会館)が開かれ、『小林邦二小伝・追悼文集』(東御市発行、梅野記念絵画館編集)が発行された。 作風は、セザンヌ、前田寛治、須田国太郎、東洋画などに影響を受け、信州人特有の忍耐と粘り強さで人物、風景、静物を対象に描き、後年は独特の半具象形を創造し、また優れたカラーリストでもあった。風景は、セザンヌのサント・ビクトワール山のようにふるさとの浅間山を好んで描いた。画友には、牛島憲之、須田久、井上長三郎、寺田政明、古沢岩美、沓掛利通らがいる。
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略歴と作風
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「カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ」の記事における「略歴と作風」の解説
エセックス州チンフォード(英語版)(現大ロンドン)に生まれる。インド系パールシーの父と、イングランド人の母に生まれる(長らくスペイン・イタリア(シチリア)のエスニシティをもつとされていたが、Sean Vaughn Owenの研究でそれが間違いであることが判明した)。生まれた時にはレオン・ダドリー・ソラブジ (Leon Dudley Sorabji)と名付けられたが、後にパールシーであることを明示するために改名している。 独学で作曲とピアノを学んだソラブジは、ブゾーニに才能を見出されて演奏活動を開始する(ピアノソナタ第1番および第2番はブゾーニに献呈されている)。その後ゴドフスキー、メトネル、シマノフスキ、ディーリアスといった後期ロマン派の音世界を濃縮した作風へ耽溺していった。また、友人のピーター・ウォーロックの協力により音楽批評家としても活動した。 1930年代に、自作が適切に演奏されていないことから、他者による自作の公開演奏と出版を許可しなくなった。この前代未聞の出来事を、ソラブジの特殊性を喧伝するために演奏を「禁止」したと流布されていたが、これは事実ではなく、Marc-André Robergeの研究では、求められても演奏を許可しなかっただけで禁止はしていないという。以降、作品規模が巨大化し、最も有名な「オプス・クラビチェンバリスティクム」(1930年)以降は4、5時間かかる作品も珍しくない。最も長大な「交響変奏曲(ピアノリダクション版)」(KSS-59, 1935年 - 1937年)は演奏時間が9時間近くに及ぶ。こうした演奏時間の長大さが彼を世界に知らしめることとなった。作品はマイヤベーア、ワーグナー、ブルックナー、マーラー、ブライアン、メシアン、ケージ、フェルドマン、シュトックハウゼンなどと共に列挙されることが多い。 ソラブジが最も威力を発揮する形式はパッサカリアで、数百回の反復にも耐えられる変奏の技法が聴きものである。ピアニストの技術の限界へ挑む態度によって有名だが、ソラブジ本人は音量に任せた豪快な演奏を望んではいなかったようである。ソラブジが自作の演奏を最初に許可したピアニストはエゴン・ペトリだが、彼がソラブジ演奏に積極的に関わることはなかった。グンナー・ヨハンセンは数回にわたって熱狂的なソラブジ信者から「オプス・クラビチェンバリスティクム」の演奏を請われたものの、「自身の演奏技術が至らないため、丁重に」申し出を断ったと伝えられる。 「オプス・クラビチェンバリスティクム」の演奏困難さと、ジェフリー・ダグラス・マッジおよびジョン・オグドンの録音(CD)により、ソラブジの名は広く知られるようになった。しかし、この作品は全作品中でいえば第1期の終着点に属する作品であり、譜段も奏者への工夫が凝らされていて比較的見やすく、カルト色はそれほど高くない。ソラブジの個性が強く発揮されるのは、「超絶技巧百番練習曲」(1940年 - 1944年)、「『怒りの日』によるセクエンツァ・シクリカ」(1948年 - 1949年)を書き上げた、第2期に該当する1940年代の作品に入ってからである。この頃から主題別に譜段を割り当て、反復周期が考えられない程の長さを要することが恒例化する。手を鍵盤に密着させることで生まれる「擬似トーン・クラスター」効果も、この頃から顕著に見られる。 自作自演で大量の録音を残した (cf.Sorabji — A Critical Celebration) 後に、1970年代からは公開演奏を解禁し、マイケル・ハーバーマンとヨンティ・ソロモンに自作の演奏を許可している。この時期、前衛の停滞と共にソラブジの再評価が世界中で進み、ソロモンは1977年にピアノソナタ第3番と「コンチェルト・ペル・スオナーレ・メ・ソロ」の世界初演を行った。ハーバーマンは大規模作品の演奏こそなかったが、演奏可能な範囲内の小品をレコーディングしてLP化が実現した。この時期に入ってもソラブジの創作活動は継続しており、1940年代ほどの巨大さこそ後退したが、「交響的ノクターン」、ピアノ交響曲第6番などの2時間近くの規模の作品が書かれている。 1980年代にはソラブジもついにマッジとオグドンの熱意に折れ、マッジは1982年にユトレヒトで「オプス・クラビチェンバリスティクム」全曲の公開演奏を行った。既に最初の公開演奏から50年以上が経っていた。「当時ソラブジは90歳近かったが、喋りも思いのほか早口で、老いを感じさせない」とマッジが回想している。この公開演奏は4枚組LP化が実現したものの、録音状態が劣悪で現時点ではCD化はされていない(マッジの演奏では、1983年4月24日のシカゴでの公開演奏がスウェーデンBISレーベルからCD化されている)。オグドンはロンドン初演を担当することになったが、この初演の後にソラブジとオグドンは相次いで世を去ってしまった。
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