略歴と業績
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1894年(明治27年)、奈良県高畑町番外1番地(菩提町1番地)で生まれた。1920年12月、東京帝国大学医学部を卒業。 同大学衛生学教室に研究生として入室。翌年、副手、助手になった。酸類の細菌に及ぼす影響を研究した。1923年(大正12年)5月から東京帝国大学付属伝染病研究所の技手となった。入所して3年後医学博士号を取得。論文の題は「腸内細菌の生物学的研究」。1929年(昭和4年)、獣医学専門の笠井久雄の協力を得て、早くも精製痘苗を創成した。しかしこの時期ではいまだ不完全なものであった。 1930年(昭和5年)11月国際連盟のスカラーシップを得て、イギリス、ドイツ、オーストリア、フランス、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、オランダ、チェコスロバキアに2年以上歴訪した。天然痘、牛痘、一般のウイルス病の研究を行い、1933年1月帰国した。同年12月、東京帝国大学助教授に任命され、伝染病研究所に復帰。牛痘ウイルスの研究に没頭する。日本の種痘法は天然痘の撲滅に寄与したが、まれに「種痘後脳炎」を発生させた。矢追は精製痘苗(矢追抗原)を注射すれば、100%安全な種痘ができることを発見した。第二次世界大戦中、1943年9月に陸軍省臨時嘱託になり、マレー、ジャワでデング熱の研究を行った。 1946年8月、東京帝国大学教授に就任。翌年7月、国立予防衛生研究所に移動。試験製造部長になったが、百日咳ワクチンの製造販売に関してGHQのクロフォード・F・サムス公衆衛生福祉局長から糾弾され、予研を追放された。1951年から横浜医科大学教授になり、その後、神奈川歯科大学でも教えた。厚生省の薬事委員会委員、生物学的製剤等基準調査会専門委員も歴任した。1948年、東京大学皮膚科において、矢追抗原の臨床的使用が開始された。また矢追は、溶蓮菌毒素のトキソイド化を研究した。1960年野口英世記念医学賞受賞。 東京帝大交響楽団の創始者でもある。二木式健康法(玄米食の利用)普及者としても知られる。「結婚すると研究のために一人の女性を不幸にするかもしれない」との心配のために、独身で過ごし、1970年9月23日、死去した。
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略歴と業績
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「ヨハネス・ファン・デル・ワールス」の記事における「略歴と業績」の解説
1837年11月23日、オランダのライデンに生まれる。ほとんど独学で科学知識を身に付け、学校の先生になった。 1862年からライデン大学で聴講。ラテン語やギリシア語ができないため正規の試験を受ける資格がなかったが、1865年まで余暇を見つけてはここで勉強していた。 1864年、デヴェンターの中学校に赴任。のち、この町で中学校の校長になっている。それからしばらくして法改正により古典学の試験を免除され、ライデン大学に入学。 1873年、『液体と気体の連続性について(On the Continuity of the Liquid and Gaseous States)』と題する博士論文を発表。この中で、分子間力と分子自身の体積を考慮し気体と液体の両方を含む状態方程式を示す。 マクスウェルは、ネイチャーでこの論文を以下のように激賞している。「ファン・デル・ワールスの名はまもなく分子科学の最先端に記されるであろう」 「この論文はオランダ語を勉強しようという気運を起こさせるであろう」 1876年、新設されたアムステルダム大学の物理学教授に任命される。ファント・ホッフやド・フリースとともにこの大学の育成に努め、他からの招きを断って引退までとどまった。 1890年、ギブズの熱力学理論を分子系に用い、二成分系(混合気体)の理論を発表。 1893年、表面張力に関する論文を発表。この論文による、「表面張力は ( T c − T ) α {\displaystyle (T_{c}-T)^{\alpha }} に比例する」という式はファンデルワールスの式と呼ばれている。 1895年、熱力学ポテンシャルを運動論の立場から扱った論文を発表。 1910年、「液体及び気体の物理学的状態に関する研究」によりノーベル物理学賞受賞。 1923年3月9日、アムステルダムで死去。 1937年、アムステルダムでファン・デル・ワールス生誕百年を記念する国際会議が開かれる。
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略歴と業績
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「ルイ=マチュー・ラングレス」の記事における「略歴と業績」の解説
ラングレスは今のオワーズ県のペレンヌに生まれた。両親はラングレスを軍人にしたいと考えていたが、ラングレスはインドで軍人か外交官になったときに役立つからと親を説得してコレージュ・ド・フランスでアラビア語とペルシア語を学んだ。 1787年にティムールによる政治・軍事組織に関する著書のフランス語訳を出版した。 大臣ベルタンの指示により、ジョゼフ=マリー・アミオの作った満州語辞典をラングレスは編集出版した。その前に満州文字に関する書物を1787年に出版しているが、この本は活版印刷された最初の満州文字の書物だった。初版の活字は問題が大きかったが、後の版では改良された。 Alphabet Mantchou : rédigé d'après le syllabaire et le dictionnaire universel de cette langue (3rd ed.). Paris: Imprimerie impériale. (1807). http://reader.digitale-sammlungen.de/resolve/display/bsb10572445.html. Joseph-Marie Amio (1789-1790). Louis Langlès. ed. Dictionnaire tartare-mantchou françois. Paris: F.A. Didot. http://www.univie.ac.at/Geschichte/China-Bibliographie/blog/2010/06/27/langles-amiot/. フランス革命がはじまると、ラングレスは旧王立図書館の書物の管理をまかされた。 現在もっともよく知られるラングレスの業績は、パリ東洋言語文化大学の前身である東洋言語特別学校を創立したことで、1795年に開校するとその初代所長をつとめ、またペルシア語を教えた。同年、碑文アカデミーの会員に選ばれた。 ラングレスは5巻からなる翻訳紀行文集(Collection portative de voyages traduits, 1798-1805)を出版したほか、東洋人や西洋人による旅行記を多くフランス語に翻訳した。 ナポレオン・ボナパルトはエジプト遠征にラングレスの同行を求めたが、ラングレスが拒否したためにナポレオンの怒りをかった。ナポレオンの追放後、1815年にロシア帝国から騎士の聖ウラジーミル勲章を授けられたほか、国内外からさまざまな栄誉が与えられた。 1824年にパリで没し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。
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略歴と業績
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「カール・フリードリヒ・ガウス」の記事における「略歴と業績」の解説
1777年 - ブラウンシュヴァイクに生まれる。 1792年 - 素数定理の成立を予想。 1795年 - 最小二乗法発見。 1796年 - 平方剰余の相互法則の証明。コンパスと定規のみで正十七角形を作図できることを証明。 1799年 - 代数学の基本定理の証明。 1801年 - 『整数論の研究』出版 複素数表記、現代整数の表記導入。 1801年 - 円周等分多項式の研究。 1807年 - ゲッティンゲンの天文台長になり、以後40年同職につく。 1809年 - 『天体運行論』出版 最小二乗法を用いたデータ補正、正規分布。 1811年 - 複素積分、ガウス平面(複素数平面)ベッセルへの手紙。 1827年 - 『曲面の研究』(羅: Disquisitiones generales circa superficies curvas)出版、微分幾何学を創始。 1855年 - ゲッティンゲンで死去。
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