略歴と年表
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興宣大院君と関連の深い年表を示す。 1805年 - 安東金氏による権勢政治 ( → 1863年まで) 1821年1月24日 - 英祖の曾孫として出生 1852年7月25日 - 驪興府大夫人閔氏との間に次男命福誕生(後の高宗) 1862年 - 壬戌民乱(慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱) 1863年12月8日 - 哲宗が後嗣なく死去 12月13日 - 先々代王憲宗の母で孝明世子嬪 神貞王后とで、孝明世子の養子として自己の第2子李命福(当時11歳、後の高宗)を世子とし、自ら大院君となって摂政政治を開始 1865年景福宮の重建工事のために営建都監(国家的建設を担当した臨時官庁)を置く 重建工事の費用捻出のため願納銭を広く大規模に集める 1866年2月 - 天主教を大弾圧開始(絶種断族の刑)→丙寅邪獄 興宣大院君の夫人閔氏の推挙で閔妃を王妃とする 9月 - ゼネラル=シャーマン号事件→丙寅洋擾 ラ・ゲリエル号などフランス艦隊7隻、江華府城を約1カ月間占領→丙寅洋擾 10月 - 丙寅教獄(ベルヌー司教等外国人宣教師10名処刑)→丙寅洋擾 11月6日 - 景福宮の重建工事の費用のために当百銭(1867年6月17日に中止)鋳造(物価の急激な上昇) 1869年6月 - 蔚山などに外国船打ち払いの砲台砲軍をおく 1871年5月9日 - 軍布法を廃止して戸布法を実施 6月 - 米国ジェネラル・シャーマン号事件の報復として江華島侵攻(辛未洋擾) 斥和碑(斥洋碑)を全国八道四都に設置 1873年11月3日 - 崔益鉉、大院君政治を批判する「上疏」 高宗親政、大院君失脚(摂政の座を降りる)(癸酉政変) 閔氏が政権を取る。大院派の人々は追放・流配・処刑等で追放。 閔氏一族の官吏30数名高官に。 12月10日 - 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発 1874年3月 - 閔妃男子「坧」出産(後の純宗) 宮女である李尚宮と高宗の長男「完和君」を世子とする大院君派と坧を世子としたい閔妃派で争い 11月 - 閔氏一族の最高実力者である義兄・閔升鎬宅に爆弾、彼と母子が爆死 1875年8月 - 閔妃派、李裕元を世子冊封の奏請使として清へ。王世子(世継ぎ)として認められる(翌年1月帰国) 9月 - 江華島事件→日朝修好条規 11月 - 大院君の兄・李最応の家に火が放たれる事件 1876年2月27日 - 日朝修好条規 1877年 - 高宗第5男子平吉誕生(1891年義和君に封じられる) 1880年 - 大院君が世子候補として推薦した「完和君」(高宗の長男)が変死 1882年1月 - 純宗、戴冠式 閔一族の高官閔台鎬の娘が世子嬪(皇太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏) 7月 - 壬午事変。 閔妃は昌徳宮から脱出し閔応植に匿われる。日本公使館包囲、焼き討ち、堀本工兵少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約(8月30日) 8月26日 - 壬午事変の策動容疑で 大院君、清へ連行 1884年12月 - 甲申政変 日本軍、王宮を占領。 閔妃失脚。 閔一族の閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)、閔泳穆、趙寧夏らが殺され、閔泳翊は重傷を負う。 閔妃 袁世凱に清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約、天津条約) 金玉均、朴泳孝、徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等) 1885年1月9日 - 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集) 4月15日 - 巨文島事件(イギリスが巨文島を占拠) 4月18日 - 日清 天津条約(日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退 朝露密約。日本 清に大院君の帰還要請。閔妃側 大院君帰国の通達に難色 10月3日 - 大院君、清から帰国(仁川) 1892年6月 - 閔妃の大院君殺害陰謀(大院君邸内爆弾による火災) 1894年3月28日 - 閔政権、上海に刺客洪鍾宇を送り、開化派の金玉均を暗殺 金玉均の遺体は清の軍艦威靖により朝鮮に届けられた。遺体は六支の極刑。(父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏は、奴婢として売られる) 5月31日 - 農民軍全州占領。清と日本は出兵(甲午農民戦争→全州和約(6月)) 7月 - 日本軍が王宮包囲、開化派中心の政権成立。閔氏政権を倒すクーデター 金弘集を中心とする政権 甲午改革 8月1日 - 日清戦争宣戦布告 1895年3月30日 - 日清休戦条約 4月17日 - 下関条約 5月4日 - 三国干渉受諾(閔妃、親露政策へ) 7月6日 - 閔妃、ロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りクーデターに成功 7月10日 - 閔妃に関する謀議の風説の報告 朴泳孝は閔妃殺害計画を謀議したとされと京城を脱出、釜山経由で亡命 9月1日 - 三浦梧楼、韓国駐在公使として着任 10月7日 - 閔妃派政権、訓錬隊の解散と武装解除を通告 10月8日 - 閔妃暗殺される(乙未事変) 10月10日 - 大院君の提言で閔妃が王妃の身分を剥奪され平民とされる 1897年 - 大韓帝国の成立とともに献懿大院王の尊号を受ける 1898年2月22日 - 79歳で死去
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