略歴と年表とは? わかりやすく解説

略歴と年表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 01:59 UTC 版)

興宣大院君」の記事における「略歴と年表」の解説

興宣大院君関連の深い年表を示す。 1805年 - 安東金氏による権勢政治 ( → 1863年まで) 1821年1月24日 - 英祖曾孫として出生 1852年7月25日 - 驪興府大夫人閔氏との間に次男命福誕生(後の高宗1862年 - 壬戌民乱慶尚道晋州中心にした大規模な民衆反乱1863年12月8日 - 哲宗後嗣なく死去 12月13日 - 先々代王憲宗の母で孝明世子神貞王后とで、孝明世子養子として自己の第2子命福(当時11歳、後の高宗)を世子とし、自ら大院君となって摂政政治開始 1865年景福宮の重建工事のために営建都監(国家的建設担当した臨時官庁)を置く 重建工事費用捻出のため願納銭を広く大規模に集め1866年2月 - 天主教を大弾圧開始(絶種断族の刑)→丙寅邪獄 興宣大院君夫人閔氏推挙閔妃王妃とする 9月 - ゼネラル=シャーマン号事件丙寅洋擾 ラ・ゲリエル号などフランス艦隊7隻、江華府城を約1カ月占領丙寅洋擾 10月 - 丙寅教獄(ベルヌー司教等外国人宣教師10処刑)→丙寅洋擾 11月6日 - 景福宮の重建工事費用のために当百銭1867年6月17日中止鋳造物価急激な上昇1869年6月 - 蔚山などに外国船打払い砲台砲軍をおく 1871年5月9日 - 軍布法を廃止して戸布法を実施 6月 - 米国ジェネラル・シャーマン号事件報復として江華島侵攻辛未洋擾斥和碑斥洋碑)を全国八道四都設置 1873年11月3日 - 崔益鉉大院君政治批判する上疏高宗親政大院君失脚摂政の座を降りる)(癸酉政変閔氏政権を取る。大院派人々追放流配処刑等で追放閔氏一族官吏30数名高官に。 12月10日 - 閔妃宮殿仕掛けられ爆弾爆発 1874年3月 - 閔妃男子「坧」出産(後の純宗宮女である李尚宮と高宗長男「完和君」を世子とする大院君派と坧を世子としたい閔妃派で争い 11月 - 閔氏一族の最高実力者である義兄閔升鎬宅に爆弾、彼と母子爆死 1875年8月 - 閔妃派、李裕元を世子冊封奏請使として清へ。王世子世継ぎ)として認められる翌年1月帰国9月 - 江華島事件日朝修好条規 11月 - 大院君の兄・李最応の家に火が放たれる事件 1876年2月27日 - 日朝修好条規 1877年 - 高宗第5男子平吉誕生1891年義和君封じられる1880年 - 大院君世子候補として推薦した「完和君」(高宗長男)が変死 1882年1月 - 純宗戴冠式 閔一族高官閔台鎬の娘が世子嬪皇太子妃)と決まる(後の純明孝皇后閔氏7月 - 壬午事変閔妃昌徳宮から脱出し閔応植に匿われる。日本公使館包囲焼き討ち堀本工兵少尉数十名が死傷花房義質公使逃亡済物浦条約8月30日8月26日 - 壬午事変策動容疑大院君、清へ連行 1884年12月 - 甲申政変 日本軍王宮占領閔妃失脚閔一族閔台鎬純宗の妃 純明皇后の父)、閔泳穆、趙寧夏らが殺され閔泳翊重傷を負う。 閔妃 袁世凱に清軍の助け政権奪回日本公使館焼失居留民被害。(→漢城条約天津条約金玉均朴泳孝徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命家族服毒自殺処刑等) 1885年1月9日 - 日朝 漢城条約日本井上馨朝鮮金弘集4月15日 - 巨文島事件イギリス巨文島占拠4月18日 - 日清 天津条約日本伊藤博文、清:李鴻章日清両軍の撤退 朝露密約日本 清に大院君帰還要請閔妃大院君帰国通達難色 10月3日 - 大院君清か帰国仁川1892年6月 - 閔妃大院君殺害陰謀大院君邸内爆弾による火災1894年3月28日 - 閔政権上海刺客洪鍾宇を送り開化派金玉均暗殺 金玉均遺体は清の軍艦威靖により朝鮮届けられた。遺体は六支の極刑。(父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏は、奴婢として売られる5月31日 - 農民軍全州占領。清と日本出兵甲午農民戦争全州和約6月)) 7月 - 日本軍王宮包囲開化派中心政権成立閔氏政権を倒すクーデター 金弘集中心とする政権 甲午改革 8月1日 - 日清戦争宣戦布告 1895年3月30日 - 日清休戦条約 4月17日 - 下関条約 5月4日 - 三国干渉受諾閔妃親露政策へ) 7月6日 - 閔妃ロシア公使ウェバーロシア軍の力を借りクーデター成功 7月10日 - 閔妃に関する謀議風説報告 朴泳孝閔妃殺害計画謀議したとされと京城脱出釜山経由亡命 9月1日 - 三浦梧楼韓国駐在公使として着任 10月7日 - 閔妃政権、訓錬隊の解散武装解除通告 10月8日 - 閔妃暗殺される乙未事変10月10日 - 大院君提言閔妃王妃身分剥奪され平民とされる 1897年 - 大韓帝国成立とともに献懿大院王の尊号を受ける 1898年2月22日 - 79歳で死去

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