壬戌民乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 04:32 UTC 版)
「李氏朝鮮後期の農民反乱」の記事における「壬戌民乱」の解説
平安道民の抗拒にもかかわらず賦税制度の矛盾は是正されなかった。19世紀中葉の哲宗のときに至って、賦税制度の矛盾に不満を抱く民衆の抗拒は全国的に拡散した。その中でも忠清道・全羅道・慶尚道のいわゆる三南地方が最も熾烈だった。 1862年旧暦2月慶尚道丹城で始まった民衆蜂起は、隣の晋州につながり慶尚道20個郡県・全羅道37個郡県・忠清道12個郡県、そして部分的に京畿道・咸鏡道・黄海道等の地でも起きた。 この中でも1862年晋州で起きた抗拒が最も激しかった(晋州民乱)。兵使の白楽莘の苛斂誅求に耐えられない晋州民衆は、郷任の柳継春の指導の下に頭に白い頭巾をかぶり、自らを樵軍(木こり)と呼びながら竹槍と棍棒を持って立ち上がり、官衙を壊して農村の富民たちを襲撃した後に自ら解散した。
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