朝鮮国 1393年-1897年
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「李氏朝鮮」の記事における「朝鮮国 1393年-1897年」の解説
1393年、明国の皇帝に次の国号として「朝鮮」と「和寧」の2つから選んでもらい、国号を朝鮮国に変更する。 1398年、第一次王子の乱 1400年、第二次王子の乱 1401年、明より王を名乗る事を正式に認められる。 1404年、室町幕府と国交回復、日朝貿易盛んとなる。 1419年、応永の外寇 李氏朝鮮軍による対馬国侵攻。 1443年、訓民正音の制定(1446年公布)。 1498年、士林派に対する弾圧士禍が始まる(戊午士禍)。 1504年、甲子士禍。 1506年、中宗により正音庁(諺文庁)閉鎖。 1510年、三浦の乱。対馬の日本人による反乱。対馬との通行が一時途絶える。 1512年、壬申約条。対馬との通行再開。 1519年、己卯士禍。 1545年、乙巳士禍。 1555年、備辺司設置。 1559年 - 1562年、黄海道で民衆反乱(林巨正の乱)。 1567年、士禍が終わる。以後、士林派同士の対立が続く。 1575年、士林派の東人と西人の対立始まる。 1592年 - 1593年および1597年 - 1598年、豊臣秀吉の2度の朝鮮侵攻(文禄・慶長の役 - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。 1607年、江戸幕府と日朝国交回復交渉始まる。 1608年、北人(東人の分派)の大北、光海君を擁立。北人政権が始まる。 1609年、日朝通商条約。日本との通行回復。幕府との朝鮮通信使による交流。 1619年、サルフの戦いで明との連合軍が後金軍に大敗。 1623年、仁祖のクーデター。光海君廃される。大北粛清される。 1627年、後金軍、朝鮮に侵攻(丁卯胡乱)。 1636年、清国の皇帝ホンタイジが朝鮮に親征(丙子胡乱)。仁祖、南漢山城に篭城。 1637年、仁祖降伏し、清国に服属する。 1654年、1658年、羅禅征伐(朝鮮語版)。 1660年、礼論(服喪期間に関する対立)により、西人と南人(旧東人の分派)が対立する。 1683年、西人、老論と少論に分裂する。 1721年 - 1722年、辛壬士禍。 1728年、李麟佐の乱。 1784年、キリスト教の伝来。 1791年、キリスト教の弾圧始まる。 1796年、水原城(華城)建設 1801年、キリスト教への大規模な弾圧が続く。 1804年、 士林派による政治の終焉。安東金氏による権勢政治 ( - 1863年)。 1811年、洪景来の乱(地方差別に反発した一揆、平安道農民戦争とも言う)。 1811年、第12回の朝鮮通信使が家斉襲封祝賀のために出立するが、対馬に差し止められる。朝鮮側はこれを不服として以降断交。 1861年、金正浩による朝鮮全図、大東輿地図の完成。 1862年、壬戌民乱(慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱) 1863年、大院君政権の成立。 1866年、丙寅邪獄。ジェネラル・シャーマン号事件。丙寅洋擾。 1871年、辛未洋擾 1872年、朝鮮大飢饉 1873年、大院君追放、閔氏政権の成立。 1875年、江華島事件勃発。 1876年、日本の明治政府と日朝修好条規締結。 1882年、壬午事変おこる。済物浦条約締結。米朝修好通商条約締結。 1883年、財政危機を補正し乱れた通貨政策を整備する目的から、造幣機関典圜局が設置される。 1884年、甲申政変、開化派・金玉均のクーデターは失敗に終わる。 1885年、ポート・ハミルトン事件、巨文島がイギリスに占領される。 1888年、露朝陸路通商条約 1894年、東学党の乱(甲午農民戦争)、大院君の政局復帰。大院君派と閔妃派の対立が深まる。金玉均、上海で暗殺される。反乱軍と政府が和解し、反乱平定の名目で駐留していた日清両軍の撤兵を求めるも両軍とも拒否し、日清戦争勃発。 1895年、ロシア帝国の支援を受け閔妃復権するも暗殺される。日清戦争終結。下関条約により清国から独立。
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