朝鮮国王の都落ちとは? わかりやすく解説

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朝鮮国王の都落ち

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「朝鮮国王の都落ち」の解説

.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 『東闕圖』(韓国国宝249号), 景福宮から見て東側にあった昌慶宮昌徳宮描いたもの。これらも同様に日本軍入城前に焼失した焼失前の姿を写す史料存在せず、これは純祖時代何度目かの復元戻った両宮の姿。 戦々恐々とする朝鮮朝廷では漢城防衛について議論して右議政李陽元を京城検察使に任命し李戩、邊彦琇を左右中衛大将とし、商山君忠侃 を都城検察使とし、漆渓君尹卓然副使誠中を守禦使、丁胤福を東西路号召使とすることにした。これらの処置首都治安維持し必要な人員集めて騒乱を防ぐのが目的だった。李陽元はすぐに城の士民対す募兵始めたが、そこに尚州の戦い敗報届いて人心乱れ、都から避難しようとするものが続出した4月27日熒惑南斗犯し大臣や台諫 が一堂集められ初め遷都発議されたが、群臣が皆号泣し言葉を尽くして諌止するので、それ以上議事進められなかった。他方で、吏曹判事李元翼平安道巡察使との兼任とし、崔興源を黄海道巡察使として派遣することを決定した。これらは京城脱出した場合その後下準備をする意味があった。 また建儲(世継問題議論されていた。鄭澈失脚 原因となったこの問題タブー視されており、誰も口に出したがらなかったが、日本軍迫るという状況万が一懸念された。領議政李山海左議政柳成龍召して意見を聞くと、国王がお決めになるべきことだと暗に決断迫ったので、宣祖結局は以前拒絶した次男光海君王世子選び国本定めて人心安定を図ることになった4月28日光海君王世子となった首都漢城府放棄することは官民挙って反対していたが、この都は防御不向きであり、そもそも守ろうにも兵士が足らなかった。都の住民をかき集めて守りにつかせようとはしたが、集まったのは7千名だけで、多く儒生胥吏公私奴婢であって烏合の衆頼みならない考えられていた。以前より王子地方派遣して勤王の士を集めようという建言が度々なされていたが、ようやく、尹卓然臨海君宣祖長男)を奉じて咸鏡道に向かうように命じ戸曹判事韓準には順和君宣祖六男)を奉じて江原道に向かうように命じられた。 4月28日尚州の戦い捕虜となり解放され倭学通事通訳)景応舜が、小西行長の手紙と国書持って京城達した小西行長宗氏面識のある礼曹参判(外務次官李徳馨と忠州城での講和会見求めており、和暦との差により手紙期限前日27日ですでに過ぎていたものの、宣祖日本軍の進撃遅らせられることを期待して会見応じることを許可した。この命令聞いて礼曹判事外務大臣克智は驚愕し卒中死したので、李徳馨がこの大任を担うことになった。ところが中間地点竹山まで行ったところで忠州城がすでに陥落したのを知った李徳馨は、日本語のできる景応舜をまず行かせて改め日本側と交渉持とうとしたが、彼は途中で捕まって殺されたのか 帰ってこなかった。それで李徳馨も空しく引き返すほかなく、講和最初試み失敗した。 同じ28日夕刻、3人の奴僕申砬死亡忠州の戦い敗報京城伝え市中パニック引き起こした頼みとしていた申砬までもが出征後わずか数日命を落としたことは大きな落胆誘った大臣らはもはやしばらく平壌朝廷行幸させて明に救援の兵を求めるしか手がない協議し宣祖膝下すがって哭く頑なな反対者もいたが、西行決定された。 金命元が全軍指揮執る元帥任命され、申恪は副元帥となって漢江守備についた。邊彦琇は留守大将として開城派した初め左議政柳成龍が留都大将とされたが、都承旨李恒福が彼の才能必要だということ取り止めさせ、代わりに右議政李陽元が留都大将として漢城府防衛に残ることになった誠中と丁胤福が新たに左右統禦使に任命された。 深夜忠州の戦いから生還した鎰が状況報告し日本軍今日明日にも漢城府に来ると言うので、宮中衛士尽く逃げ去った京城はすでに無政府状態で、宣祖は金応南に標信 を与えて衛士集めさせて治安回復させようとしたが、一人もこれに応じようとはしなかった。

※この「朝鮮国王の都落ち」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「朝鮮国王の都落ち」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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