朝鮮史籍
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渤海本粟末靺鞨,祚栄父乞乞仲象,保太白山東,祚栄嗣,驍勇善騎射,高麗余燼稍稍帰之,及建国号震...渤海は本来粟末靺鞨である。 — 東国史略 臣謹按渤海之源流也,句驪未滅之時,本為疣贅部落。靺鞨之屬,實繁有徒,是名粟末小蕃,嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等,至武后臨朝之際,自營州作孽而逃,輒據荒丘,始稱振國。時有句驪遺燼,勿吉雜流(中略)楛矢国毒痛益盛。渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった。(中略)楛矢の国の毒痛、益々盛んならん。 — 崔致遠、謝不許北国居上表 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。謝不許北國居上表 新羅聖徳王一二年,唐以大祚栄為渤海郡王。渤海本粟末靺鞨,即高句麗別種。渤海は本来粟末靺鞨である。すなわち高句麗の別種である。 — 徐居正、東国通鑑、巻一〇・新羅聖徳王十二年条 大抵交隣国柔遠人,固封疆謹使命者,乃万世保国之長策也。(中略)因其来使,待之以礼,接之以誠,申結盟好,豈非保国乃長策。而太祖之慮不及此,何哉。契丹之失信於渤海,何與於我。而為渤海報復,拒其使甚矣,而流之於海島。卻其橐駝甚矣,而致令餓死。是不特絕之而止。絕之如仇讎。彼之報我以仇讎,無足在也。自是辺釁日深。定宗置光軍為辺備,其禍己濫觴矣。……若使契丹,不因金兵而勦沴,蒙古而殲滅,則麗之存亡成敗,亦未可測。究厥所由,則皆麗祖待強寇失其道,軽絶和親之致然也。胎謀之失,可勝嘆哉。隣国と通交することは、万世に至るまで国家を保持する最良の方策である。……契丹の使節が来た時、礼儀に則ってこれを応待し、誠心を以てこれに接し、両国の盟約を結ぶのが国家を保つ良策であったであろう。ところが太祖王建の考慮がこの点に及ばず(強硬な手段を以て絶和したのは)一体どうしたわけであろうか。〈契丹ノ信ヲ渤海ニ失ヘル、何ゾ我ニ与ランヤ〉つまり、契丹が渤海を裏切ってこれを滅亡させたということなど、どうして我が国と関係があるのか。そして、渤海のために報復するといって、契丹の使節を拒絶することさえ甚だしく誤った行為であるのに、剰えこれを海島に流している。その贈り物のラクダを却けることさえ甚だしく誤った行為であるのに、なおこれを餓死させている。こうした行為は、ただに契丹と通交を絶つのみではなく、契丹を仇敵に回すこととなり、契丹が我が国に対して仇を以て報復しようとするに至るのも当然である。これより以降、辺境での争いが日に日に多くなってきて、そのために定宗の時代には光軍を設置して、これに対処しなければならなくなった。こうした辺境での紛争の根源は、実に太祖の処置にある。……嘆くに勝えないことである。 — 徐居正、東国通鑑、一三・太祖二十五年条 高句麗殘孽類聚,北依太白山下,國號爲渤海。 — 三国史記、巻四六・崔致遠伝 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷46#崔致遠 唐玄宗,以渤海靺鞨越海入寇登州,遣太僕員外卿金思蘭歸國。仍加授王爲開府儀同三司・寧海軍使,發兵撃靺鞨南鄙。 — 三国史記、巻八・聖德王三十二年七月条 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷08 入唐宿衛左領軍衛員外將軍金忠信上表曰,臣所奉進止,令臣執節,本國發兵馬討除靺鞨。 — 三国史記、巻八・聖德王三十三年正月条 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷08 開元二十一年,大唐遣使敎諭曰,靺鞨渤海,外稱蕃翰,內懷狡猾。今欲出兵問罪。卿亦發兵相爲掎角。聞有舊將金庾信孫允中在。須差此人爲將。仍賜允中金帛若干。於是大王命允中弟允文等四將軍,率兵會唐兵伐渤海。 — 三国史記、巻四三・金庾信伝 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國史記/卷43 一然は『三国遺事』で、大祚栄を粟末靺鞨の酋長とのみ言及し、渤海を「靺鞨ノ別種」と結論付けている。 通典云。渤海。本粟末靺鞨。至其酋祚榮立國。自號震旦。渤海は本来粟末靺鞨である。その酋長の大祚栄が立国した。自らを震旦と號した。 — 三国遺事、巻一「紀異」、第二巻「靺鞨[一作勿吉]渤海 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國遺事/卷第一#樂浪國 三國史云,儀鳳三年,高宗戊寅,高麗殘孽類聚,北依太伯山下,國號渤海。開元二十年間,明皇遣將討之。又聖德王三十二年・玄宗甲戌,渤海靺鞨越海侵唐之登州。玄宗討之。又新羅古記云,高麗舊將祚榮姓大氏,聚殘兵。立國於大伯山南,國號渤海。按上諸文,渤海乃靺鞨之別種。 — 三国遺事、巻一・靺鞨[一作勿吉]渤海 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。三國遺事/卷第一#樂浪國 前麗旧将大祚栄,得拠太白山南城。今南柵城也。五代史曰,渤海本粟靺鞨,居営州東。前麗ノ旧将大祚栄(中略)五代史ニ曰ク、渤海ハ本ト粟(末)靺鞨ナリ。 — 李承休、帝王韻紀、巻下 渤海本粟末靺鞨也。 — 高麗史、巻一・太祖八年九月庚子条 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。高麗史/卷一 靺鞨強大,後称渤海。降契丹,為東契丹。作濊貊・靺鞨列伝。 — 許穆、眉叟記言、 巻三二・記言東事序 靺鞨,本粟末靺鞨,高句麗別種,有野勃,三世孫乞乞仲象,與其徒渡遼河,保太白山東,仲象死,子祚榮嗣(中略)開元元年封渤海郡王。始去靺鞨称渤海。粟末靺鞨又有黒水靺鞨。開元中置黒水州長史。 — 許穆、眉叟記言、巻三二・東事・靺鞨条 震國公姓大氏,名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者,臣於高句麗者也。 — 柳得恭、渤海考、君考 韓国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。발해고/군고/진국공 高麗不修渤海史,知高麗之不振也。昔者高氏居于北,曰高句驪。扶餘氏居于西南,曰百濟。朴昔金氏居于東南,曰新羅。是爲三國。宜其有三國史。而高麗修之是矣。及扶餘氏亡・高氏亡,金氏有其南,大氏有其北,曰渤海。是謂南北國。宜其有南北國史。而高麗不修之非矣。夫大氏者何人也。乃高句驪之人也。其所有之地何地也。乃高句驪之地也。而斥其東斥其西斥其北而大之耳。及夫金氏亡・大氏亡。王氏統而有之。曰高麗。其南有金氏之地則全。而其北有大氏之地則不全。或入於女眞,或入於契丹。當是時爲高麗計者。宜急修渤海史。執而責諸女眞曰,何不歸我渤海之地。渤海之地乃高句驪之地也。使一將軍往收之,土門以北可有也。執而責諸契丹曰,何不歸我渤海之地。渤海之地乃高句麗之地也。使一將軍往收之,鴨綠以西可有也。竟不修渤海史。使土門以北・鴨綠以西,不知爲誰氏之地。欲責女眞,而無其辭。欲責契丹,而無其辭。高麗遂爲弱國者,未得渤海之地故也。可勝歎哉。或曰,渤海爲遼所滅。高麗何從而修其史乎。此有不然者。渤海憲象中國,必立史官。其忽汗城之破也,世子以下奔高麗者十餘萬人。無其官則必有其書矣。無其官無其書。而問於世子,則其世可知也。問於隱繼宗,則其禮可知也。問於十餘萬人,則無不可知也。張建章唐人也。尙著渤海國記。以高麗之人,而獨不可修渤海之史乎。鳴呼,文獻散亡,幾百年之後,雖欲修之,不可得矣。余以內閣屬官,頗讀秘書。撰次渤海事,爲君・臣・地理・職官・儀章・物産・國語・國書・屬國九考。不曰世家・傳・志,而曰考者,未成史也。亦不敢以史自居云。甲辰閏三月二十五日。高麗が渤海史を編修しなかったことは、高麗の国勢が振わなかったことを示している。昔、(我が国には)高句麗・百済・新羅の三国が存在していた。したがって、三国の歴史が編修されるべきであり、高麗がこれを編纂したことは妥当である。(その後)百済・高句麗が亡び、我国の南方には新羅が、北方には渤海が存在した。これを南北国という。したがって、南北国史が編纂されるべきであったが、高麗はこれを編纂しなかった。一体、渤海の大氏は何人であるか。高句麗人である。その領有した地は誰の土地であるのか。高句麗の土地である。渤海はそれを東・西・北へと開拓していったのである。その後、新羅・渤海が亡び、王氏高麗がこれを統一した。高麗は南方新羅の旧領はすべて領有したが、北方の渤海の旧領はほとんど領有できず、女真や契丹のものとなってしまった。この時に当たって高麗がすべきことは、早急に渤海の歴史を編修することであり、(渤海の領域を明らかにし、)これを以て女真および契丹と交渉して渤海の旧領返還を求めたならば、いとも簡単に、土門以北・鴨緑江以西を領有できたであろう。ところが高麗は渤海史を編修しなかったので、土門以北・鴨緑江以西の土地が、本来誰のものであるかを不明確にしてしまった。女真・契丹を責めて返還を求めようにも、その根拠を失ってしまった。高麗が弱国となったのは、渤海の旧領を奪還し得なかったからである。 — 柳得恭、渤海考、序 許眉叟,作渤海列傳,頗欠詳,渤海本粟末靺鞨,高句麗別種。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海 渤海本粟末靺鞨,高句麗別種(中略)新羅之末,幅員分裂,不能統一。大氏乗間,略定全遼。朝鮮句麗之地殆失大半矣。(中略)王之流其使殺其駝,非真為渤海之故。其志将欲拠義争地。実辞直為壮也。不幸金甄末復,明年身亡。無奈天意何也。不然大氏之興亡,何与於我。面絶之。々其至此乎。是故其遺訓切々。然以契丹禽獣之俗為禁,少無畏忌之意。新羅末期の政情が混乱している時、大氏すなわち渤海が、その間隙に乗じて全遼地方を攻略してしまった。そのため、かつての古朝鮮・高句麗の領土の大半を(我が国は)失ってしまった。(中略)王建が使者を流し、ラクダを餓死させて、契丹と和を絶ったのは、実は渤海のためではない。王建の真意は「義ニ拠リテ地ヲ争ハント欲ス」つまり、大氏渤海に略取され、さらに契丹に奪われた高句麗の旧領を、契丹と争ってでも奪還することにあったのである。ただ不幸にも王建は間もなく没してしまった(ので実現するには至らなかった)。「然ラザレバ」つまり、もしそのような理由に基づくものでなかったならば、渤海の興亡など我が国とは何ら関係のないことであるから、あのような甚だしい行動は取らなかったであろう。この故に太祖の遺訓は、切々と禽獣のごとき国である契丹との通交を誡しめているのであって、少しもこれを畏れてはいない。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海 李氏朝鮮の実学者である安鼎福(朝鮮語版)は、渤海を朝鮮の歴史として扱うことは不当であるとした。 渤海不當錄于我史。而本爲高句麗故地,與我壤界相接,義關唇齒。故通鑑備書之。今從之。渤海は我が国の歴史に記録するには当たらない。しかし渤海は高句麗の故地に興ったものであり、かつ我が国と境域を接していた。その意義はまことに密接である。この故に「東国通鑑」も渤海のことを記載している。そこで今は「東国通鑑」に倣って渤海のことを記述する。 — 安鼎福、東史鋼目 靺鞨大祚栄……。 — 安鼎福、東史鋼目、巻四下・新羅孝昭王九年条 ああ、わが国が鴨緑以西を棄て、敵国に譲ったのはいつからであったのか。曰く、金文烈が三国史を編纂した時からであろう。なぜか。曰く、渤海の大氏に伝わる血統を推し量れば、すなわちわが檀君の子孫であり、その統御した人民を問えば、つまりわが扶余族の種族であり、その拠点とし領有した疆土は、すなわち高句麗の旧領である。それなのに、大氏をわが国史に記さなければ、誰を記すべきであろうか。大氏をわが国史に著わさなければ、何を国史に記すべきであろうか。 — 申采浩、読史新論、第十章 按,渤海本黒水靺鞨之粟末部,臣属於高麗者,居古粛慎氏地。 — 韓致奫、海東繹史、巻一一・世紀一一・渤海条 靺鞨之種有曰粟末大氏,常附高句麗。或曰句麗之別種也。 — 洪奭周、渤海世家 所謂靺鞨即東沃沮之濊人,漢史所謂不耐濊是也,其謂之靺鞨者,唐宋之際,渤海大氏據我北道三百餘年,渤海者靺鞨也。 — 丁若鏞、我邦疆域考、巻四・靺鞨考
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