朝鮮史籍とは? わかりやすく解説

朝鮮史籍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 10:13 UTC 版)

渤海国論争」の記事における「朝鮮史籍」の解説

渤海粟末靺鞨,祚栄父乞乞仲象,保太白山東,祚栄嗣,驍勇騎射高麗余燼稍稍帰之,及建国号震...渤海は本来粟末靺鞨である。 — 東国史略 臣謹按渤海源流也,句驪未滅之時,本為疣贅部落靺鞨之屬,實繁有徒,是名粟末小,嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等,至武后臨朝之際,自營州作孽而逃,輒據荒丘,始稱振國。時有句驪遺燼,勿吉雜流(中略)楛矢国毒痛益盛。渤海源流考えてみるに、高句麗滅亡する以前高句麗領内帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨部落があった。多く住民がおり、粟末靺鞨よばれる集団(の一部であった。かつて唐が高句麗滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内営州)へ移住させた。その後則天武后治世至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州脱出し、荒丘に拠点構え、振国と称して自立した高句麗遺民勿吉靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力発展していった。(中略)楛矢の国の毒痛、益々盛んならん。 — 崔致遠謝不許北国居上表 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります謝不許北國居上表 新羅聖徳王一二年,唐以大祚栄渤海郡王。渤海粟末靺鞨,即高句麗別種渤海は本来粟末靺鞨である。すなわち高句麗別種である。 — 徐居正東国通鑑巻一〇・新羅聖徳王十二年条 大抵交隣国柔遠人,固封疆使命者,乃万世保国之長策也。(中略)因其来使,待之以礼,接之以誠,申結盟好,豈非保国乃長策。而太祖之慮不及此,何哉。契丹之失信於渤海,何與於我。而為渤海報復,拒其使甚矣,而流之於海島。卻其橐駝甚矣,而致令餓死。是不特絕之而止。絕之如仇讎。彼之報我以仇讎,無足在也。自是辺釁日深。定宗光軍辺備,其禍己濫觴矣。……若使契丹,不因金兵而勦沴,蒙古殲滅,則麗之存亡成敗,亦未可測。究厥所由,則皆麗祖待強寇失其道,軽絶和親之致然也。胎謀之失,可勝嘆哉。隣国通交することは、万世に至るまで国家保持する最良方策である。……契丹使節が来た時、礼儀則ってこれを応待し、誠心を以てこれに接し両国盟約を結ぶのが国家を保つ良策であったであろう。ところが太祖王建考慮がこの点に及ばず強硬な手段を以て和したのは)一体どうしたわけであろうか。〈契丹ノ信ヲ渤海ニ失ヘル、何ゾ我ニ与ランヤ〉つまり、契丹渤海裏切ってこれを滅亡させたということなど、どうして我が国と関係があるのか。そして、渤海のために報復するといって契丹使節拒絶することさえ甚だしく誤った行為であるのに、剰えこれを海島に流している。その贈り物ラクダを却けることさえ甚だしく誤った行為であるのに、なおこれを餓死させている。こうした行為は、ただに契丹通交絶つのみではなく契丹仇敵に回すこととなり、契丹我が国に対してを以て報復しようとするに至るのも当然である。これより以降辺境での争い日に日に多くなってきて、そのために定宗時代には光軍設置して、これに対処しなければならなくなったこうした辺境での紛争根源は、実に太祖処置にある。……嘆くに勝えないことである。 — 徐居正東国通鑑一三太祖二十五年条 高句麗殘孽類聚,北依太白山下,國號渤海。 — 三国史記、巻四六崔致遠中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國史記/卷46#崔致遠 唐玄宗,以渤海靺鞨越海入寇登州,遣太僕員外卿金思歸國。仍加授王爲開府儀同三司寧海軍使,發兵撃靺鞨南鄙。 — 三国史記、巻八・聖德王三十二年七月中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國史記/卷08 入唐宿衛左領軍衛員外將軍金忠上表曰,臣所奉進止,令臣執節,本國兵馬討除靺鞨。 — 三国史記、巻八・聖德王三十三年正月中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國史記/卷08 開元二十一年大唐遣使敎諭曰,靺鞨渤海,外稱翰,內懷狡猾。今欲出兵問罪。卿亦發兵相爲掎角。聞有舊將金庾信允中在。須差此人爲將。仍賜允中金帛若干。於是大王允中弟允文等四將軍,率兵會唐兵伐渤海。 — 三国史記、巻四三金庾信中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國史記/卷43 一然『三国遺事』で、大祚栄粟末靺鞨酋長とのみ言及し渤海を「靺鞨別種」と結論付けている。 通典云。渤海。本粟末靺鞨。至其酋祚榮立國。自號震旦渤海は本来粟末靺鞨である。その酋長大祚栄立国した。自らを震旦號した。 — 三国遺事巻一「紀異」、第二巻靺鞨一作勿吉渤海 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國遺事/卷第一#樂浪國 三國史云,儀鳳三年高宗戊寅高麗殘孽類聚,北依太伯山下國號渤海開元二十年間,明皇遣將討之。又聖德王三十二年・玄宗甲戌渤海靺鞨越海侵唐之登州玄宗討之。又新古記云,高麗舊將祚榮姓大氏,聚殘兵立國於大山南國號渤海。按上諸文,渤海靺鞨別種。 — 三国遺事巻一靺鞨一作勿吉渤海 中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります三國遺事/卷第一#樂浪國 前麗旧将大祚栄,得拠太白山南城。今南柵城也。五代史曰,渤海本粟靺鞨,居営州東。前麗ノ旧将大祚栄中略五代史ニ曰ク、渤海ハ本ト粟(末)靺鞨ナリ。 — 李承休、帝王韻紀、巻下 渤海粟末靺鞨也。 — 高麗史巻一太祖八年九月庚子中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります高麗史/卷一 靺鞨強大,後称渤海。降契丹,為東契丹。作濊貊靺鞨列伝。 — 許穆、眉叟記言、 巻三二・記言東事序 靺鞨,本粟末靺鞨高句麗別種有野勃,三世乞乞仲象,與其徒渡遼河,保太白山東,仲象死,子祚榮嗣(中略開元元年渤海郡王。始去靺鞨渤海粟末靺鞨又有黒水靺鞨開元中置黒水長史。 — 許穆、眉叟記言、巻三二・東事・靺鞨震國公姓大氏,名乞乞仲像。粟末靺鞨人也。粟末靺鞨者,臣於高句麗者也。 — 得恭、渤海考、君考 韓国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります。발해고/군고/진국공 高麗不修渤海史,知高麗不振也。昔者高氏居于北,曰高句驪扶餘氏居于西南,曰百濟金氏居于東南,曰新羅。是爲三國。宜其有三國史。而高麗修之是矣。及扶餘氏亡・高氏亡,金氏有其南,大氏有其北,曰渤海。是謂南北國。宜其有南北國史。而高麗不修之非矣。夫大氏者何人也。乃高句驪之人也。其所有之地何地也。乃高句驪之地也。而斥其東斥其西斥其北而大之耳。及夫金氏亡・大氏亡。王氏統而有之。曰高麗。其南有金氏之地則全。而其北有大氏之地則不全。或入於女眞,或入於契丹。當是時爲高麗計者。宜急修渤海史。執而責諸女眞曰,何不歸渤海之地。渤海之地乃高句驪之地也。使一將軍往收之,土門以北可有也。執而責諸契丹曰,何不歸渤海之地。渤海之地乃高句麗之地也。使一將軍往收之,以西可有也。竟不修渤海史。使土門以北以西不知爲誰氏之地。欲責女眞,而無其辭。欲責契丹,而無其辭。高麗遂爲弱國者,未得渤海之地故也。可勝歎哉。或曰,渤海爲遼所滅。高麗何從而修其史乎。此有不然者渤海憲象中國,必立史官。其忽汗城之破也,世子以下奔高麗者十餘萬人。無其官則必有其書矣。無其官無其書。而問於世子,則其世可知也。問於隱繼宗,則其禮可知也。問於十餘萬人,則無不可知也。張建章唐人也。尙著渤海國記。以高麗之人,而獨不可渤海之史乎。鳴呼,文獻散亡,幾百年之後,雖欲修之,不可得矣。余以內屬官,頗讀秘書。撰次渤海事,爲君・臣地理職官・儀章・物産國語國書屬國九考。不曰世家・傳・志,而曰考者,未成史也。亦不敢以史自居云。甲辰三月二十五日高麗渤海史を編修しなかったことは、高麗国勢が振わなかったことを示している。昔、(我が国には)高句麗・百済・新羅三国存在していた。したがって三国歴史編修されるべきであり、高麗がこれを編纂したことは妥当である。(その後百済高句麗亡び、我国の南方には新羅が、北方には渤海存在した。これを南北国という。したがって南北国史編纂されるべきであったが、高麗はこれを編纂しなかった。一体、渤海の大氏は何人であるか。高句麗人である。その領有した地は誰の土地であるのか。高句麗土地である。渤海はそれを東・西北へ開拓していったのであるその後新羅渤海亡び王氏高麗がこれを統一した高麗南方新羅旧領はすべて領有したが、北方渤海旧領はほとんど領有できず、女真契丹のものとなってしまった。この時に当たって高麗がすべきことは、早急に渤海歴史編修することであり、(渤海領域明らかにし、)これを以て女真および契丹交渉して渤海旧領返還求めたならば、いとも簡単に、土門以北鴨緑江以西領有できたであろう。ところが高麗渤海史を編修しなかったので、土門以北鴨緑江以西土地が、本来誰のものであるかを不明確にしてしまった。女真契丹責めて返還求めようにも、その根拠失ってしまった。高麗弱国となったのは、渤海旧領奪還し得なかったからである。 — 得恭、渤海考、序 許眉叟,作渤海列傳,頗欠詳,渤海粟末靺鞨高句麗別種。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海 渤海粟末靺鞨高句麗別種中略新羅之末,幅員分裂不能統一。大氏乗間,略定全遼。朝鮮句麗之地殆失大半矣。(中略)王之流其使殺其駝,非真為渤海之故。其志将欲拠義争地。実辞直為壮也。不幸金甄末復,明年身亡。無奈天意何也。不然大氏之興亡,何与於我。面絶之。々其至此乎。是故其遺訓切々。然以契丹禽獣之俗為禁,少無畏忌之意。新羅末期政情混乱している時、大氏すなわち渤海が、その間隙に乗じて全遼地方攻略してしまった。そのため、かつての古朝鮮高句麗領土大半を(我が国は)失ってしまった。(中略王建使者流しラクダ餓死させて、契丹と和を絶ったのは、実は渤海のためではない。王建真意は「義ニ拠リテ地ヲ争ハント欲ス」つまり、大氏渤海略取され、さらに契丹奪われ高句麗旧領を、契丹争ってでも奪還することにあったのである。ただ不幸に王建間もなく没してしまった(ので実現するには至らなかった)。「然ラザレバ」つまり、もしそのような理由に基づくものでなかったならば、渤海興亡など我が国とは何ら関係のないことであるからあのような甚だし行動は取らなかったであろうこの故に太祖遺訓は、切々と禽獣のごとき国である契丹との通交を誡しめているのであって、少しもこれを畏れてはいない。 — 李瀷、星湖僿説、経史門・渤海 李氏朝鮮実学者である安鼎福朝鮮語版)は、渤海朝鮮の歴史として扱うことは不当であるとした。 渤海不當錄于我史。而本爲高句麗故地,與我壤界相接,義關唇齒。故通鑑備書之。今從之。渤海我が国歴史記録するには当たらない。しかし渤海高句麗故地興ったものであり、か我が国境域接していた。その意義まことに密接である。この故に東国通鑑」も渤海のことを記載している。そこで今は東国通鑑」に倣って渤海のことを記述する。 — 安鼎福、東史鋼目 靺鞨大祚栄……。 — 安鼎福、東史鋼目、巻四下新羅孝昭王九年条 ああ、わが国以西棄て敵国譲ったのはいつからであったのか。曰く金文烈が三国史を編纂した時からであろう。なぜか。曰く渤海の大氏に伝わる血統推し量れば、すなわちわが檀君の子孫であり、その統御し人民問えば、つまりわが扶余族種族であり、その拠点とし領有した疆土は、すなわち高句麗旧領である。それなのに、大氏をわが国史に記さなければ、誰を記すべきであろうか。大氏をわが国史に著わさなければ何を国史に記すべきであろうか。 — 申采浩読史新論第十章 按,渤海黒水靺鞨之粟末部,臣属高麗者,居古粛慎氏地。 — 韓致奫、海東繹史巻一一・世紀一一渤海靺鞨之種有曰粟末大氏,常附高句麗。或曰句麗之別種也。 — 洪奭周、渤海世家 所謂靺鞨東沃沮之濊人,漢史所謂不耐濊是也,其謂之靺鞨者,唐宋之際,渤海大氏據我北道三百餘年渤海靺鞨也。 — 丁若鏞、我邦疆域考、巻四・靺鞨

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