東沃沮とは? わかりやすく解説

沃沮

(東沃沮 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/29 06:17 UTC 版)

沃沮(よくそ、オクチョ、韓国語: 옥저, ラテン文字転写: Okjeo)は、紀元前2世紀から3世紀にかけて朝鮮半島北部の日本海に沿った地方(現在の咸鏡道付近)に住んでいたと思われる民族。『三国志』や『後漢書』では東沃沮(とうよくそ)と表記される。


  1. ^ a b 田中俊明『朝鮮地域史の形成』岩波書店〈世界歴史〉、1999年、134頁。ISBN 978-4000108294 
  2. ^ 三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・高句麗「東夷旧語以為夫餘別種,言語諸事,多与夫餘同」、『後漢書』東夷列伝・高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
  3. ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・東沃沮「其言語与句麗大同,時時小異」、濊「言語法俗大抵与句麗同,衣服有異」、『後漢書』東夷列伝・東沃沮「言語,食飲,居處,衣服有似句驪」、濊「耆旧自謂与句驪同種,言語法俗大抵相類」
  4. ^ 『三国志』魏書・烏丸鮮卑東夷伝・挹婁「其人形似夫餘,言語不与夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝・挹婁「人形似夫餘,而言語各異」


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東沃沮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 11:58 UTC 版)

沃沮」の記事における「東沃沮」の解説

『三国志』東沃沮伝によれば始め衛氏朝鮮帰属していたが、漢の武帝により漢四郡楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡)が置かれた際に、沃沮城(夫租城)を玄菟郡の県にした。以来沃沮(夫租)は玄菟郡支配下入り、後に玄菟郡縮小伴って夫租県が楽浪郡転属すると、沃沮(夫租)は楽浪郡帰属することとなった。後、3世紀の頃には高句麗臣従していた。魏の毌丘倹高句麗攻め入った際には、高句麗王の憂位居が北沃沮逃れたという。この記事続けて北沃沮・南沃沮と言う表現見られるが、南沃沮とは東沃沮を指すと考えられている。 後に「白山靺鞨」となり、渤海国建国されてからは渤海人一部となった。 東沃沮は、東以外にも別の沃沮存在するという意味ではなく東方民族沃沮程度の意味だという。

※この「東沃沮」の解説は、「沃沮」の解説の一部です。
「東沃沮」を含む「沃沮」の記事については、「沃沮」の概要を参照ください。

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