東沙諸島に取り残される
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:39 UTC 版)
1907年、水谷は再度の東沙諸島開拓に挑戦した。今度の目的は前回は目もくれなかったカツオドリの羽毛採取であった。アホウドリは乱獲によって激減し、1906年には保護鳥に指定されており羽毛採取が困難となったため、代用品としてカツオドリやミズナギドリの乱獲が始まっていた。 1907年、水谷は台湾へ渡り、基隆で西村竹蔵と面会した。水谷と西村は東沙諸島を共同開発することで合意し、西村は水谷に開拓資金を貸与することになった。3月3日に基隆を出発した水谷は澎湖諸島へ渡り、そこでジャンク船を購入し、労働者らと共にまず澎湖諸島内で鳥類捕獲を行おうと試みたものの悪天候で思うようにいかず、東沙諸島へ向かうことにした。しかし航海中にジャンク船は破損し操縦不能となり、遠く広東省まで流されてしまい、4月28日になってようやく香港までたどり着いた。 しかし水谷は破損して操船不能となり流されてしまったジャンク船を用いて、東沙諸島でカツオドリの羽毛採取を行おうとした。羽毛は軽いため簡易な装備でも持ち帰ることが可能で、しかも相当な利益が見込めるため、水谷は無謀ともいえる操船不能なジャンク船による羽毛採取を敢行した。自力航行が不可能であったため、香港から神戸へ向かう商船に曳航してもらって東沙諸島に向かうことにした。5月21日、無事に東沙諸島に到着し、まず先遣隊として水谷ら3名が上陸し、6名は伝馬船を使ってジャンク船をサンゴ礁内に引き入れる作業を行った。しかし天候の急変と早い潮流のために引き入れ作業が出来なくなってしまった。取り残されることを恐れた水谷らは、慌てて曳航してもらった商船に助けを求めたものの、既に島から遠ざかっており助けは来なかった。翌朝になってジャンク船を探したもののその姿は見えず、水谷らは9名は東沙諸島に取り残された。 1901年の時と同様に、東沙諸島には中国人が滞在していた。タイマイの捕獲が目的で約1~2か月間滞在する予定とのことで、所持している食料も少なく、食べ物を分けてもらうことは無理であった。そこでやむなくカツオドリを捕まえて食べてみたが下痢を起こした。そこで魚を獲り、カツオドリの雛を食料とした。地面を約2メートルほど掘ると、塩気が強いもののなんとか飲用となる水は確保できた。しかし水谷らは野菜類を食べないため次第に栄養失調となっていった。そこでアダンの根を採取して、煮た後に試食してみたところ、激しい嘔吐に見舞われて体力低下に拍車をかける結果となった。また島内に自生している木の実を煮てみたがいくら煮ても柔らかくならず、無理して食べてみたところやはり嘔吐した。やがて体力が衰えて魚を獲ることもままならなくなったが、鳥たちは驚くと飲み込んでいた魚を吐き出す性質があることを知って、帰巣する鳥を驚かせて何とか魚を手に入れた。 そのうちに島のサンゴ礁付近に4,5艘の小舟を見かけたため、必死になって火を焚いて救助を求めたものの舟は立ち去ってしまった。島に取り残されて21日目の6月11日、西方から汽船がやって来るのが見えた。やはり必死になって火を焚いて救助を求めると、汽船はだんだん島に近づいてきた。近づいてみると日章旗を掲げていたため救助船であることがわかり、水谷らは伝馬船に乗り込んで汽船に漕ぎつけようとした。しかし衰弱していた水谷らではなかなか汽船までたどりつけない。すると汽船側からもボートが下ろされて水谷らを救助した。汽船は水谷らの遭難の知らせを知った台湾総督府の要請を受け、救助に向かった大阪商船の福州丸であった。もう少し救助が遅れたら9名のうちの多くが死亡したと考えられる。 水谷は香港経由で台湾へ戻り、台湾総督府から遭難についての事情聴取を受けた。結局、水谷と西村は資金難のため東沙諸島の開発を断念して、開発事業全般を西沢吉治に譲渡することになった。
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