譙周とは? わかりやすく解説

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譙周Qiao Zhou

ショウシュウ
セウシウ

199?~270
光禄大夫
騎都尉陽城亭侯

字は允南巴西郡西充国の人。

父譙栄始は『尚書』を学びもろもろ経典図讖術に通じていた。州郡より招聘されたが出仕しなかったので、州は彼の邸まで出向して師友従事の官を授けた。彼が亡くなったとき譙周はまだ幼かったが、成長してから古代愛好して学問打ち込み書物朗読しては笑顔浮かべ寝食を忘れるほどだった。六経詳細に研究し、とくに書簡巧みで、さらに天文学にも明るかった。ただ諸子百家には興味持たず全ては目を通さなかった。身の丈八尺もあり、容貌性格は素飾り気がなく、とっさの質問答えるような機転は持たなかったが、優れた見識秘めて頭脳明晰であった

建興年間丞相諸葛亮益州牧を兼任したとき勧学従事任じられた。諸葛亮敵地陣没したと聞くと、家にいた譙周は急いで出かけていった外出禁止命令出たときには既に城を出ていたので、諸葛亮陣所行き着くことができた。大将軍蔣琬益州刺史兼ねたとき典学従事転任した

延煕元年二三八)、劉璿皇太子立てられる太子僕となり、のち太子家令転任劉禅はしばし遊覧に出かけ、また宮中歌手楽員増やした。譙周は諫めて言った。「むかし王莽失敗したとき次々と豪傑たちが州郡を占拠しました。しかし更始帝公孫述らは広大な勢力持ちながら、遊猟飲食ふけって民衆をいたわらなかったため滅ぼされました。いま天下三つ分かれており歓楽尽す時期ではありません」と。皇太子お付きのまま中散大夫転任した

当時はたびたび軍勢動員され民衆疲弊していた。しばしば尚書令陳祗話し合い自分主張を『仇国論』にまとめて述べた。「因余国(蜀をさす)は弱小、肇建国(魏をさす)は強大だったが互いに宿敵同士でした。因余国の高賢卿は伏愚子に質問して過去弱国強国勝った例では、どのような方法だったのか』と言いますと、伏愚子『強大な者は必ず奢り弱小な者は必ず善を思うものです。周文王や越王勾践前例です』、高賢卿『むかし項羽と劉邦争ったとき、張良積極的に戦わなければ天下項羽の物になってしまうと主張した。いま肇建国弱点があるから攻撃しようと思うのだが』、伏愚子『周文王時代安定していて民衆変化求めませんでしたが、劉邦時代には始皇帝天下混乱させたばかり月ごと君主が変わるような有様でした。いま因余国と肇建国長く対立状態にありますので、周文王方法に倣うことはできても劉邦方法通用しないでしょう』」。

のち光禄大夫昇進した。 譙周は職務携わるようなことはなかったが、学識品行によって礼遇され、大事が発生して意見求められる経典基づいた応答をした。また若い学生意欲ある者はみな彼に質問した

景耀六年(二六三)、魏の大将軍鄧艾侵入してくると、人々は甘い見通し立てて防備怠ったが、鄧艾陰平まで進出した聞く大騒動となった群臣のうちある者は皇帝劉禅を呉に逃れるよう薦め、またある者は南方要害籠るべきだと言上した。ただ譙周だけは「呉の臣下となる恥辱受けたうえ重ねて魏に臣従するよりは、初めから魏に屈服する方がましです。南方逃れるであれば早く準備をするべきでしたが、今になって動こうとすれば混乱した人々何をしでかす予測できません」と主張し誰も反論できなかった。こうして劉禅は魏に降伏した

魏の相国司馬昭彼の功績称えて陽城亭侯に封じ中央呼び寄せた。しかし漢中まで進んだところで譙周は発病してしまった。そのとき「典午(馬を司る役人)は忽として月酉(酉の月)に没す」と司馬昭の死を予言したはたせるかな司馬昭没し、跡を継いだ司馬炎が晋を興して帝位上った司馬炎詔勅下して譙周の上洛の便を手配させた。泰始三年(二六七)、洛陽到着した騎都尉任ずる旨の辞令受けたが、功績なく封地与えられたので封地爵位返上したいと申し入れ聴き入れられなかった。同六年秋、散騎常侍指名されたが重病のため拝受せず、冬にいたって亡くなった

譙周による著述撰定は『法訓』『五経論』『古史考』など百篇余りに上る

参照】越王勾践 / 王莽 / 項羽 / 更始帝 / 公孫述 / 始皇帝 / 司馬炎 / 司馬昭 / 周文王 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 譙栄始 / 張良 / 陳祗 / 鄧艾 / 劉璿 / 劉禅 / 劉邦 / 陰平郡 / 益州 / 漢中郡 / 魏 / 呉 / 晋 / 西充国県 / 巴西郡 / 陽城亭 / 洛陽県 / 勧学従事 / 騎都尉 / 光禄大夫 / 散騎常侍 / 刺史 / 師友従事 / 相国 / 丞相 / 尚書令 / 太子家令 / 太子僕 / 大将軍 / 中散大夫 / 亭侯 / 典学従事 / 牧 / 仇国論 / 五経論 / 古史考 / 尚書 / 諸子百家 / 法訓 / 六経 / 図讖


譙周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 20:49 UTC 版)

譙周
西晋
散騎常侍
出生 生年不詳
益州巴西郡西充国県
死去 泰始6年(270年
拼音 Qiáo Zhōu
允南
主君 劉備劉禅曹奐司馬炎
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譙 周(しょう しゅう)は、中国三国時代から西晋の学者・政治家。允南益州巴西郡西充国県の人。父は譙𡸫[1]。子は譙熙・譙賢・譙同。孫は譙秀・譙登。

経歴

「譙周伝」によると、建興年間(223年 - 237年)に諸葛亮に召し出され勧学従事に任命されたとある。一方「先主伝」では、建安25年(220年)の劉備に帝位に就くよう求める上奏文に勧学従事として名を連ねている。

諸葛亮の後を継いだ蔣琬は譙周を典学従事に任命した。

延熙元年(238年)、劉禅の長男であった劉璿が立太子されると太子僕となり、やがて太子家令に遷った。その後、中散大夫となったが、引き続き劉璿に近侍した。

諸葛亮の死後、姜維は何度も北伐を行い、民は疲弊していた。譙周はその無謀さを諌めるため、陳祗との討論を元に『仇国論』を書いた。

後に光禄大夫に昇進した。政治に関わることはなかったが、何か問題が起こるたびに助言を求められた。

炎興元年(263年)、の軍勢が成都近くまで押し寄せると、南へ逃げようとする劉禅に「益州南部は遠方蛮族(南蛮)の土地で、反乱が多く統治の難しさから従来は税が課されていなかったが、諸葛亮が益州南部の反乱を制圧したのち益州南部に租税を課せるようになり、それを愁えて恨んでいる」と言って降伏を説いた。劉禅は進言に従って魏に降伏し、譙周はその功績によって陽城亭侯に封ぜられた。

泰始5年(269年)、弟子の陳寿は休暇の前に譙周の元へ別れの挨拶に訪れた。譙周は陳寿に、「その昔、孔子は72歳で、劉向揚雄は71歳でこの世を去った。今や私の歳は70を過ぎている。願わくば孔子の遺風を慕い、劉向・揚雄と軌を同じくしたいものだ。おそらく次の年を迎えることなく、きっと長い旅路に出るであろうから、二度と会うことはないであろう」と告げた。このため陳寿は、譙周は未来を予測する術を得ていたのであろう、と評している。

泰始6年(270年)秋、散騎常侍に任命されたが重病のため拝命せず、その年の冬に死去した。

後世では、降伏論者と見なされ評価は低い。例として、王夫之の『読通鑑論』には「姦佞売国」と書かれている。

人物・逸話

身長は八尺、誠実で飾り気はなく頭脳明晰だったが、不意の質問に上手く答えるような機転はなかった。幼くして父を亡くしたため家は貧しかったが、勉強熱心で六経を精細に研究し、書簡に巧みで天文にも明るかった。楊戯は譙周がまだ周囲から認められていなかった頃から「我らの子孫は譙周に及ばぬであろう」と高く評価した。

景耀5年(262年)、宮中の大木が何の前触れもなく折れてしまった。譙周は大層心配したが、相談する相手もいなかったので、柱に次のような文章を書き記した。「衆(おお)くして大なれば、その下に集まる。徳備わって天命降れば、再び動かし得ず」つまり、曹とは衆(おお)いという意味であり、衆くて大きいのだから、天下の人々はその下に集まるということであり、曹氏に「徳が備わって天命が降」ってしまえば、誰も帝位に就けなくなる、という意味である。蜀漢が滅びた後、人々は皆譙周の予言が当たったのだと考えた[2]

張璠の意見。譙周が述べた魏に降伏する策は、おそらくかねてより劉禅の懦弱さを考慮に入れ、自分に危害を加える気がないと判断していたから、それで実行しえたのであろう。かっとなって無茶をやる君主が相手だったら、君主は他に打つ手はなくとも、国のために死ぬことを尊しとし、恥辱を受けることを卑しとして、あるいは腹を立てて見当外れの処刑を行い、それによって当座の権威を打ち立て、つかの間の快感を抱いたであろう。とすれば、これも一族皆殺しの禍いということになる。

著作

前述の『仇国論』の他に、『古史考』・『蜀本紀』・『論語注』・『五経然否論』などを著したとされるが、ほとんどは散逸してしまっており、裴松之が三国志の注釈として引用したものなどが部分的に残っている。『華陽国志』を著した常璩は、自身の先駆者として譙周の名を挙げており、その影響がうかがえる。

物語中の譙周

小説『三国志演義』では、はじめ劉璋配下として登場し、劉備に降伏することを率先して進言したため、黄権劉巴に殺されそうになった。また、『仇国論』は姜維に一笑に付されており、このため史実より北伐が1回多くなっている。

脚注

  1. ^ 𡸫の字、『康熙字典』には『字意補』を引いて、音未詳と記す。譙周の父の名以外に使用された例はないようである。
  2. ^ 『捜神記』巻六 大木が折れれば 平凡社ライブラリー


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