趙雲
趙雲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/08 16:49 UTC 版)
| 趙雲 | |
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正定県〈子龍広場〉趙雲像
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| 蜀漢 中護軍・鎮軍将軍・永昌亭侯 |
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| 出生 | ?(常山国真定県) |
| 死去 | 建興7年(229年) |
| 字 | 子龍 |
| 諡号 | 順平侯 |
| 別名 | 号:虎威将軍 神号:趙聖輔天帝君(道教) |
| 主君 | 公孫瓚→劉備→劉禅 |
| 趙雲 | |
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| 各種表記 | |
| 繁体字: | 趙雲 ▶音声 |
| 簡体字: | 赵云 |
| 拼音: | Zhào Yún |
| ラテン字: | Chao Yün |
| 発音転記: | チャオ・ユン |
| 英語名: | Zhao Yun |
趙 雲(ちょう うん、拼音: 、? - 229年)は、中国後漢末から三国時代の蜀漢の将軍。字は子龍(しりゅう[1]/しりょう[2])[注 1]。冀州常山国真定県(現:河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯、諡号は順平侯[7]。子は趙統、趙広。
史実では長坂の戦いにて蜀漢初代皇帝・劉備の子劉禅(阿斗)を身に抱え、その母甘夫人を救い出したことで知られ、小説『三国志演義』では「常山の趙子龍」の名乗りで八面六臂の活躍を見せ、五虎大将軍の一人に数えられる。
後世、史家からは公正・無私・誠実といった品格や、主君への直言、政治的見識を評価された[8]。民間でもその人柄が敬慕され、明・清代には各地に祠廟(趙雲廟)が建立されて信仰対象となった[9]。劉備・諸葛亮および蜀漢の功臣を祀る成都武侯祠では、現在も武将の筆頭として祀られている。その信仰は開拓民が渡った先の台湾やマレーシアで受け継がれ、特に台湾では多くの廟が建立されるなど、今もなお盛んに信仰され続けている[10]。
概要
歴史書『三国志』、小説『三国志演義』の登場人物。年譜(→#年譜)。
- 三国志:(正史)
後漢末の冀州常山国真定県の人。元は公孫瓚の配下だった(→#故郷での争乱)。 - 191年、公孫瓚の客将だった劉備が、公孫瓚配下の将・田楷の援軍に派遣されると、趙雲もこれに随行した(→#仁君を求めて~#出会いと別れ)。
- 208年、曹操が荊州へ侵攻し、劉備軍が敗走した際、趙雲は戦場に置き去りにされた劉備の子・阿斗(劉禅)と甘夫人を救助した(→#長坂の戦い)。
- 211年、劉備が益州入りすると、荊州の留守を預かる(→#劉禅の奪還)。
- 214年、益州牧の劉璋と対立した劉備は、趙雲を援軍として召し出す。趙雲は諸葛亮らと共に益州の各郡県を平定した(→#益州平定戦)。
- 228年、諸葛亮の北伐に従軍し、本隊が祁山を攻める間、趙雲は曹真軍を引きつける囮となるが敗北。しかし被害は最小限に喰い止めた(→#第一次北伐)。
- 229年、死去、261年、劉禅から「順平侯」と諡された(→#最期と死後)[11]。
- 人柄は重厚篤実、忠義と勇気を備えていたという(→#人物/#評価)[12]。
- 三国志演義:(創作・フィクション)
後世の歴史小説『三国志演義』では脚色された「長坂坡の戦い」において、曹操の大軍の中を単騎駆けで将軍50人を討ち取り、阿斗を守り抜いて劉備に忠義を尽くしたことから多くの民衆の支持を得るに至り、現代でもその人柄を親しまれ続けている(→#三国志演義/#京劇/#演義の受容史/#民間伝承と古跡/#趙雲主題の作品)。
三国志
※以下、会話・引用「」との区別のため、名称・概念および会話内での別文献からの引用箇所は〈〉を使用する。
故郷での争乱
趙雲が歴史の表舞台に登場する以前、後漢末期の朝廷は疫病の流行と政治腐敗により衰退の極みにあった[13]。この混迷の中で勃発した中平元年(184年)の黄巾の乱を機に、常山国では同地出身の張燕が黒山賊(黒山軍)を率いて蜂起、各地を席巻した[14]。その後、朝廷への降伏と引き換えに官職を得ることで、常山国の支配権を容認させた[15]。
中平6年(189年)、霊帝が崩御すると、この政治混乱に乗じて諸侯が権力争いを始め[16]、冀州では支配権を巡って冀州牧の韓馥[17]、白馬で揃えた精鋭騎兵〈白馬義従〉を率いたことで知られる、幽州の有力豪族出身の公孫瓚[18]、四代に渡って三公を輩出した名門出身の袁紹[19]、そして常山の黒山賊・張燕らが対立する[20]。
初平2年(191年)、袁紹が韓馥を死に追いやり、冀州牧を称して冀州を占拠するに至った[21]。
仁君を求めて
『趙雲別伝』(趙雲について記された伝記[注 5]:以下『別伝』)曰く、このとき趙雲は常山国から推挙され、官民混成の義従兵[注 6]を率いて公孫瓚の下に参じた[34][1]。常山国が公孫瓚に与した理由について詳細な記述はないが、方北辰によると、当時冀州の大半が袁紹を支持する中、常山国は袁紹のやり方に反感を抱いたため、その敵対勢力であった公孫瓚を支援するために趙雲らが派遣されたという[21]。また、このときの趙雲の年齢は史伝に記されていないが、およそ18~20歳前後だったとみられる[注 8]。
『別伝』曰く、このとき公孫瓚は冀州の民が袁紹に従うことを憂いていたが、趙雲が義従兵を率いてやってきたので、公孫瓚はこれを大いに喜んだ。しかし、趙雲に対し「君の州の人々はみな袁紹を支持しているというのに、君はなぜひとり心変わりして、迷いながらもわたしに仕える気になったのかね?」と嘲笑したので、趙雲はこう応えた。「天下は騒がしく混乱し、未だ誰が正しいのかも判らず、民は逆さ吊りに遭うような苦難に置かれています。わたしの州の議論では、仁政を行う者に従うべきだと考えました。けっして袁紹殿を軽んじて、私情で公孫瓚将軍を尊重したわけではありません」。こうして公孫瓚の配下となり、ともに征討を開始した[注 9][34][40]。なお、渡邉義浩は、公孫瓚の一連の応対態度から、趙雲との間に真の主従関係は結ばれていなかったのだろうと推察している[41]。
出会いと別れ
| 冀州での主な出来事▼(表) | ||
|---|---|---|
| 年表 | ||
| 西暦 | 出来事 | 内容 |
| 191年 | 黄巾残党との戦い | 公孫瓚の勝利 |
| 冬 | 青州の田楷の救援 | 劉備が平原相に |
| 192年 | 界橋の戦い | 袁紹の勝利 |
| 不明 | 趙雲と劉備の別れ | 公孫瓚から辞去 |
| 193年 | 袁紹・公孫瓚が停戦 | 朝廷が介入 |
| 〃 | 公孫瓚・劉虞の戦い | 劉虞を殺害 |
| 6月 | 袁紹・黒山賊の戦い | 黒山賊が大敗 |
| 199年 | 易京の戦い | 公孫瓚が自害 |
| 205年 | 張燕が曹操に投降 | 黒山賊が帰順 |
『別伝』曰く、このとき公孫瓚の下には、黄巾の乱から挙兵して名を揚げた群雄のひとりである劉備(のちの蜀漢初代皇帝)が身を寄せていた。劉備は趙雲と接するたびに受け入れ、趙雲も劉備に好感を持ち、次第に二人は仲を深めていったという[34][42]。
同年冬、青州で袁紹と戦っていた公孫瓚配下・田楷の援軍に公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎[注 10]となった[注 11][11][52]。『別伝』曰く、そののち趙雲の兄が亡くなったため、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。このとき劉備は、趙雲がもう二度と戻って来ないだろうと悟り[注 12]、趙雲の手を固く握って別れを惜しむと、趙雲もまた、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と応えたという[34][42]。
劉備と別れた時期や、そこから建安5年(200年)までの趙雲の行動は史伝になく、一切不明である[注 13]。その間、193年には袁紹軍により黒山賊が大敗、199年には易京の戦いで公孫瓚を破った袁紹が、華北一帯を支配下に置いた(表参照)。
劉備との再会
| 劉備の動向▼(表) | ||
|---|---|---|
| 年表 | ||
| 西暦 | 出来事 | 内容 |
| 193年 | 徐州の陶謙の救援 | 豫州の小沛に駐屯 |
| 194年 | 劉備が徐州牧に | 陶謙死後跡を継ぐ |
| 195年 | 呂布が劉備を頼る | 呂布を迎え入れる |
| 196年 | ①呂布が裏切る | 下邳を掌握され 小沛へ移る |
| 198年 | ②曹操を頼って 共に呂布を討伐 |
討伐後、許昌で 厚遇される |
| 200年 | 献帝の曹操暗殺 計画が露見する |
曹操と争い小沛で 敗北、関羽が降る |
| 〃 | ③青州へ逃走 | 袁譚を頼る |
| 〃 | ④袁紹を頼る | 袁譚と平原へ |
| 〃 | ⑤袁紹と合流 | 袁紹が出迎える |
| 〃 | ⑥趙雲と再会 | 鄴で劉備に目通り |
| 〃 | ⑦劉表の元へ | 関羽らが再集結 |
劉備はその後、徐州・豫州・青州で袁術、呂布、曹操らを相手に、勝利と敗北を繰り返しながら、各地を転戦した(図・表参照)[57]。
建安5年(200年)『別伝』曰く、劉備が曹操と対峙していた袁紹を頼ると[57][58]、趙雲は冀州の鄴で劉備に目通りし、再会を喜んだ劉備と同じ牀(ベッド)を共にして眠った。袁紹を見限っていた劉備は、趙雲に秘かに数百人募兵させると、みな「劉備左将軍の部曲」と称したが、袁紹はこの動きに全く気付くことがなかったという。こうして劉備配下となった趙雲は、ともに荊州へと赴いた[注 14][34][42]。
なお荊州へ向かう際には、200年に曹操との戦いで劉備らが敗北したときに、曹操の降将になっていた関羽と、その敗残兵たちも劉備の下に再集結している[60]。
8月、官渡の戦いで曹操が袁紹を破ると[61][58]、荊州牧の劉表を頼った劉備たちは、曹操への対抗のために、豫州との州境近い荊州最前線の地である、新野を任されることになる[57][58]。
博望坡の戦い
建安8年(203年)、曹操配下の夏侯惇・于禁らが新野北東の博望坡に侵攻するが、劉備軍は伏兵を用いてこれを撃破することに成功した[57][62]。
『別伝』曰く、趙雲はこの戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を上げたが、彼が幼少からの同郷人だったため助命嘆願し、法律に明るい人物として軍正(軍法の官[63])に推挙し認められた。以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬように、自らは接近しないよう慎重に気遣ったという[34][64]。奥平卓は、趙雲のこの態度から、自身の派閥を形成する意志がなかったのだろうと論じている[65]。
長坂の戦い
袁紹の残党勢力と烏桓に勝利し、華北を完全に平定した曹操は、建安13年(208年)、荊州への侵攻を開始した[61]。このとき劉表はすでに病死し、次男の劉琮が跡を継いでいたが、9月に曹操軍が新野に到達すると劉琮は降伏し、樊城に居た劉備達は劉琮の降伏を知ると、劉備を慕う劉琮の側近の一部と、荊州の民衆10万人とともに南下を開始する[66][67]。
劉備軍は江陵を目指したが、荊州の当陽・長坂(または長坂坡)にて、曹操自らが指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれると、劉備は妻子を捨て、諸葛亮および張飛・趙雲ら、臣下の数十騎とともに南へ逃走した[68][69]。
劉備の娘たち二人は曹純に捕らえられたものの[70]、張飛が殿を務め[71]、趙雲が劉備の子・阿斗(劉禅)を身に抱え、さらにその母の甘夫人をも保護したので、母子は危機を免れることができた[72][73]。こののち、趙雲は牙門将軍[注 15]に昇進した[11][1]。
『別伝』曰く、この混乱の際に、「趙雲が北(曹操軍のいる方角)に逃げ去った」と言う者がいたが、劉備はその人物に手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない」と相手にしなかった。それからほどなくして、趙雲が到着したという[34][77]。
荊州平定戦
劉備は曹操軍に江陵を制圧されたが[61]、漢水(長江の支流)の漢津で関羽の船団と合流し、劉表の長男・劉琦の軍とも合流して夏口へ逃れた[57]。そののち、揚州の呉を治める孫権から派遣された魯粛を迎えた劉備は、孫権と同盟を結び、赤壁で曹操軍に勝利した[78][79]。
建安13年から14年(208~209年)にかけ、孫権・劉備軍は曹仁が守る江陵を攻めて陥落させると[80]、劉備はその間、軍事行動を起こす理由付けとして、劉琦を荊州刺史に推薦し、南部四郡(武陵・長沙・零陵・桂陽)を占拠して公安(油江口)を本拠地とした[81][82]。
『別伝』曰く、趙雲はこの荊州南部平定戦に参加して偏将軍[注 16]・桂陽太守になると、降伏した前太守の趙範が、自身の兄嫁である寡婦の樊氏を趙雲に嫁がせようとしたが、趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄ならわたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった[注 17]。しかし樊氏は絶世の美女だったので、なおも趙雲に娶るよう薦める者がいたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降伏したにすぎず、その本心は測りかね信用ならない。それに天下に女性は他にもたくさんいる」と言って、ついに娶らなかった。そののち趙範はやはり逃亡したが、趙雲は樊氏に何の未練も持たなかったという[34][86]。
劉禅の奪還
建安16年(211年)、益州の漢中に拠点を置く、五斗米道の指導者・張魯と対立していた益州牧の劉璋は、劉備に救援を要請する。劉備は益州へ向かう際、諸葛亮・関羽・張飛・趙雲を荊州に留め置いた[11][87]。『別伝』曰く、劉備はこのとき、趙雲を留営司馬[注 18]に任じた[34][64]。
そのころ甘夫人が病没し[91][92]、孫権の妹・孫夫人が劉備の正妻となっていた。これは劉備がまたたく間に南部を平定した勢いを恐れた孫権による政略結婚であった[57][93]。孫夫人は気丈な性格で、呉の官兵を率いて侍女にはみな刀を携えて侍立させ、劉備を戦々恐々とさせたという[94][95]。『別伝』曰く、彼女は孫権の妹であることを鼻にかけ、軍法を無視するなどの振る舞いを見せたことから、劉備は手を焼いていたという。そこで劉備は、厳格な趙雲にこの事態を収拾させるべく、目付役に任命し、内政を立て直させた[34][64]。
建安17年(212年)頃、『別伝』曰く、孫権は劉備の益州入りを知ると、船を出して孫夫人を呉に帰らせた際、孫夫人は劉禅(阿斗)を連れて行こうとしたが、これを知った趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪還した[34][96]。『漢晋春秋』には、「諸葛亮の命を受けて、趙雲が奪還した」と記述がある[97][98]。
益州平定戦
劉璋と不仲になった劉備は攻勢に転じ、建安19年(214年)、趙雲らを援軍として召し出し、荊州を関羽にまかせ、諸葛亮・張飛・劉封と共に長江を遡って入蜀した[57][99]。趙雲は江州(巴郡:現在の重慶市)から別の川に沿って西進し、江陽を攻略、夏、成都にて諸葛亮らと合流した[11][100]。『華陽国志』には、犍為も攻略したとある[101][102]。諸葛亮らと合流した劉備は、劉璋のいる成都を完全に包囲した。このとき、211年に曹操に反乱を起こしたのち敗れ、張魯のもとに身を寄せていた馬超が劉備のもとへ帰順すると、それを聴いた劉璋はついに降伏し、劉備は益州を獲得した[103][104]。趙雲はこの功績で翊軍将軍[注 19]に任ぜられた[11][108]。
『別伝』曰く、劉備は益州に備蓄してあった財産や農地を諸将に分配しようとしたが、趙雲はこう反対した。「霍去病(前漢時代に活躍した名将)は匈奴(異民族)がまだ滅んでいないとして、屋敷を持ったり私的なことに心を砕きませんでした。今の国賊は匈奴程度では済まされず、まだ平安を求めて暮らす時ではありません。天下が完全に平定されれば、それぞれ郷里に帰って故郷で農耕に励むのが一番です。益州の民は先の戦乱で家も田畑も失ってしまいました。今は彼らにこれを返して、安心して仕事に戻れるようになってから賦役や徴税を行なえば、民心を得ることができましょう」。劉備はこの意見を聴き容れたという[34][108]。
漢中争奪戦
建安20年(215年)、曹操が張魯を降し、漢中一帯を平定すると(陽平関の戦い)[61]、建安22年(217年)、参謀の法正が劉備に漢中を攻めるよう進言、劉備は自ら漢中に赴き[57][109]、趙雲も劉備の本隊に従軍した[110]。翌23年(218年)、戦いは一進一退の攻防が続いたが、建安24年(219年)正月、漢中を守る夏侯淵を黄忠が討ち取り[111]、3月、激怒した曹操は自ら軍を率いて漢中に赴いた[61][112]。
『別伝』曰く、このとき曹操軍は数千万袋もの兵糧を北山の下に運んだ。黄忠はこれを奪うことができると考え、趙雲の兵を借りて出陣したが、約束の時間を過ぎても黄忠が戻ってこなかったため、趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ、曹操軍の前鋒と遭遇した。趙雲は敵陣に突撃しては後退を繰り返して曹操軍を翻弄し、無事に自陣へ戻った。しかし部下の張著が負傷し、敵陣に取り残されていたので、趙雲は再び馬に乗って張著を迎えに行った。その後、曹操軍は再び盛り返して趙雲らの陣に迫ると、陣にいた沔陽長の張翼は門を閉じようとしたが、趙雲は逆にこれを開かせ、旗を伏せ戦鼓を止めさせた。曹操軍は静まり返った趙雲の陣に伏兵がいると疑い引きあげたところを[注 20]、趙雲は戦鼓を叩いて合図し、うしろから弩を乱射した[注 21]。驚いた曹操軍は互いに蹂躙し、大勢が漢水に落ちて溺死した[注 22]。翌朝視察に来た劉備は「子龍の一身はすべてこれ肝(きも)である」と称賛し、軍中は趙雲を「虎威将軍」と呼んだという[34][120]。
5月、曹操は全軍を撤退させ、劉備は漢中を手に入れた[66][121]。
夷陵の戦い
7月、劉備は漢中王を称すると、功臣に官位を与え、関羽を筆頭に馬超・張飛・黄忠を漢の重号将軍である前後左右将軍に封じたが[57][122]、趙雲は翊軍将軍のまま留め置かれた[注 23]。史伝にはこの理由についての記述はないが、先の益州平定時に趙雲が田宅分配に反対したように、その後も皇帝となった劉備へ諫言(後述)を行っていた事実から、劉備が正論を好む趙雲よりも、武辺一途の武官を好んだと見て、徐々に疎まれたとする見解がある[124](→#評価)。一方で『華陽国志』には、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり、「四将と並んで昇進した」と記録されている[125]。
この直後、関羽は荊州から北伐して曹操を攻めたが、荊州の領有を巡って劉備との関係が悪化していた孫権が、曹操と密かに結んだことで関羽軍は荊州の主要拠点を次々に失い、孫権軍に捕縛、処刑された(樊城の戦い)[注 24][127][128]。建安25年(220年)正月に曹操が病死し、子の曹丕が後漢・献帝に禅譲されるかたちで魏の皇帝に即位、ここに漢は滅びた[129]。これを受け、建安26年(221年)4月、劉備は群臣に擁立され、漢の正統な継承者として漢(蜀漢/季漢)の皇帝を称して即位した[57][130]。
同年、関羽の仇討ちと荊州奪還のため、劉備は呉征伐を決意すると、多くの臣下が不利を説き劉備を諫止したが聴き入れられず[131]、秦宓は劉備の怒りを買い、一時投獄された[132][133]。『別伝』曰く、趙雲はこう諫言した。「国賊は曹操であり孫権ではありません。まず曹魏を滅せば呉は自ずと降伏してきましょう。漢室を簒奪した曹丕を良しとしない民心に寄り添い、速やかに関中を平定し、黄河・渭水の上流を拠点として凶逆を討伐すれば、関東義士は必ず食料を携え馬に乗り、漢の王師を支援いたしましょう。魏を放置して先に呉と戦うべきではありません。一度戦端が開かれば容易に終結させることは不可能です」[注 25]。しかし劉備は聴き容れなかった[34][137]。
7月、呉征伐のため荊州方面へ侵攻を開始[57]。戦いは約一年続いたが、章武2年(222年)6月、夷陵の戦いで呉の陸遜の火攻めに遭い、蜀漢は大敗[57][138]。『別伝』曰く、趙雲は後詰で江州督として巴に留まっていたが、劉備の大敗を知ると永安(白帝城)まで救援に向かうも、呉軍はすでに撤退していたという[34][139]。
劉禅の即位
夷陵での大敗後、病を発して床に伏していた劉備は、章武3年(223年)4月、永安宮にて崩御した[57][140]。翌5月、子の劉禅が即位すると[23]、趙雲は中護軍[注 26]・征南将軍[注 27]、永昌亭侯(爵位)に昇進した[117]。一方で『華陽国志』には、この時すでに中護軍に就いていたと記録されている[145]。
そののち、時期は不明だが、鎮東将軍[注 28]に遷った[11][147]。
建興3年(225年)3月~12月にかけて、蜀の南部で起こった反乱を鎮圧するため、諸葛亮は兵を率いたが、趙雲がこの戦いに参じたという記録は史伝には見られない(→諸葛亮南征)。
第一次北伐
建興4年(226年)、曹丕が逝去すると、子の曹叡が第二代皇帝に即位した[129]。翌5年(227年)、諸葛亮は出師表を劉禅に上奏し、趙雲は諸葛亮と共に曹魏への侵攻に備え、漢中に駐留した[148][149]。
建興6年(228年)春、諸葛亮が斜谷街道を通って郿を奪うと宣伝し[150]、曹叡から派遣された曹真は大軍を進める一方、趙雲と鄧芝は別動隊を率いて箕谷で囮となる[11][147]。『三国志』「諸葛亮伝」および『華陽国志』によると、このとき趙雲たちの軍は、疑軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったと記されている[151][152]。その間、諸葛亮は本隊を率いて祁山を攻撃、動揺した南安・天水・安定の三郡が蜀に寝返った[151][153]。
そののち趙雲らは兵力で劣り、敵は強大であったことから不利を強いられたが、兵士たちをよくまとめて陣を堅守し、大敗には至らなかった[11][147]。しかし街亭では、諸葛亮が先鋒に抜擢した馬謖が張郃に大敗、蜀軍は三郡を手放し漢中に撤退した[154][153]。『水経注』によると、趙雲は撤退の際、軍用倉庫のある赤崖より北、百余里に渡る架け橋を焼き落すことで魏軍の追撃を断ち切り、しばらくは赤崖の守備と屯田を行っていたが、洪水によって赤崖南の橋梁が崩壊し、赤崖口にいた鄧芝軍と断絶され、崖伝いに連絡を取り合うなど一時危機的な状況にあったという[155][156]。
『別伝』によると、漢中に全軍が退却した際、諸葛亮は鄧芝に「街亭で退却した際、将兵は散り散りになってしまった。しかし箕谷での撤退では離散しなかった。何故だろうか」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲自らが殿となったため、軍需品や器物はほとんど捨てず、兵も離散せずに済んだのであります」と答えた。諸葛亮は恩賞として趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとしたが、しかし趙雲は「敗軍の将になぜ恩賞があるのですか。どうかその品々をそのまま赤岸(赤崖)の倉庫に納め、10月になってから冬の褒賞として配られますよう、お頼みします」と述べて、敗戦の責任を明らかにし、この進言に諸葛亮は大いに喜んだという[注 29][34][158]。
戦後、諸葛亮は「街亭では命令を違える過ちを犯し、箕谷では警戒を怠る[注 30][注 31]という過ちを犯しました。その責任は任命した私にあります」と上奏し、諸葛亮は自身の位階を三階級下げて右将軍に降格[151][162]、趙雲は鎮軍将軍[注 32]に降格された[注 33][11][108]。一方で『華陽国志』には、位階ではなく「秩を貶した」と記録がある[169]。
最期と死後
翌建興7年(229年)に死去[注 34][11][117]。長子・趙統が跡を継いだ[11][172]。しかし、諸葛亮が前年の建興6年(228年)冬11月に上奏したとされる『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣・馬玉・閻芝…(中略)…を失った」[173]とあり、11月以前に趙雲が亡くなっていたとする[174]。この矛盾のため、学者間では『後出師表』を偽作とする見解が強いが[注 35]、譚良嘯は228年冬に趙雲が亡くなり、翌229年春に埋葬されたと推測し、『三国志』の著者・陳寿が誤って埋葬年を記した可能性を指摘している[176]。
32年後の景耀4年(261年)春3月、趙雲は順平侯の諡号を追贈された。これは前年(260年)9月、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠らから半年後の追贈で、最後の12人目であった[177][178]。二文字の美諡は諸葛亮(忠武)・関羽(壮繆)・趙雲の3名のみである[179]。当時の世論は名誉なことと評価した[11][180]。追贈の遅れに関しては史書に言及はない[181]。先行した五将との没年の相違(劉備時代と劉禅時代の差)を要因とする説[171]や、劉禅が趙雲への失念に対し、姜維が追贈を奏上したとする説[注 36]があるが、『別伝』には以下の記述がある。
『別伝』曰く、劉禅は詔勅で以下を述べ、趙雲にも諡を贈るよう促したという[180]。
これを受け、大将軍の姜維たちは議を行い、以下を上奏して趙雲に諡し、その功績を讃えた[182]。
趙雲はかつて先帝(劉備)に仕え、その功績はすでに顕著であります。天下の経営に尽力し、法と秩序を重んじ、功績は記録に値するものでした。中でも当陽の役(長坂坡の戦い)における彼の義は金石を貫き、忠義を尽くして主君をお護りしました。主君がその功績を記憶にとどめ、彼を厚遇したのは当然であり、臣下は死を恐れず忠誠を尽くします。もし死者に知覚があるとすれば、その名は不朽の名声を得るに足るでしょう。生者もその恩義に深く感謝し、身命を捧げる覚悟です。謹んで諡法を調べますと、柔順・賢明・慈愛・恵愛を持つ者を「順」と称し、職務を秩序正しく、けじめのある事を「平」と称し、災禍・反乱を鎮め、平らげる事を「平」と称します。よって、趙雲殿に諡して順平侯と称すべきです。[34][180]
人物
背景・人柄
真定と旧居
乾隆年間(1736年~1795年)建立。四度の興亡を経て、香港の趙姓子孫を称する人々と正定県が協力し、1997年に再建された。
趙雲の出身地として知られる常山国真定県は、戦国時代には趙の統治領域に属し、東垣県と称されていた。のちの前漢時代になると、劉邦が趙の国相・陳豨の反乱を鎮圧した際に「真の安定」を意味する「真定」と改称したのがその名の由来である[183]。常山および真定は漢代には皇帝直轄の「郡」としてだけでなく、王が封じられて治める「侯国」としても機能した。2025年の考古学的調査結果によると、東垣古城遺跡(現:石家荘市長安区東古城・西古城周辺)から漢代の侯国都城としては稀な、長安にある「未央宮」の中央官署遺跡、宣帝の陵寝建築などの中央政府の建築に匹敵する大規模な宮殿基址が発見され、前漢・後漢時代を通じて真定国の国都および郡国治所であったことが確定している[184]。なお、趙雲の時代に起こった黄巾の乱(184年)の際には、常山国王の劉暠が国を棄てて逃走したため、その後の建安11年(206年)には国は除かれ、常山郡になっている[185]。
趙雲の故郷・旧居については、古今に行政区画の変遷があるため複数の説が存在するが、近年の研究では以下の理由から、現在の正定県城内や臨城県ではなく、学術的には「当時の真定県の治所であった東垣古城遺跡内にあったと見なすのが妥当」との主張がある[186]。
- 現在の正定県にある「正定城」は、隋唐以降に地域の中心が北へ移転した後のものであり、漢代の真定県「東垣古城遺跡」とは物理的に離れた位置にある。したがって、後漢末期の人物である趙雲の旧居が現在の正定城内にあったとは考えにくい。
- 臨城県澄底村を故郷とする説や、それに付随する墓や民間伝承が存在するが、漢代の臨城周辺は房子県であり、真定県との間には4県が介在していたため、故郷とは言えない。
- 正定と臨城双方に現存する「漢順平侯故里碑」は、いずれも清代末期に当時の官僚や好事家によって建立されたものであり、故郷確定の根拠とはなり得ない。
身分と出自
また、身分・出自については以下の考察がある。
- 井波律子ほか、正史に「常山国真定県の人」としか記されていないことなどを根拠として、平民と定義している[187][注 37]。
- 矢野主税は豪族と推定している[189]。
- 鶴間和幸は、同地出身かつ同姓の趙佗(前漢の南越王)の族譜に連なる者と推察し[190]、また趙春陽は、この地に趙佗一族の郡望(郡中の名望の族)があったことや[191]、史伝から窺える武芸・教養の深さを根拠に、同郡望の出と位置づけている[注 38]。
人物像など
その他の人物情報として、
- 年齢は生年・享年ともに不明だが、挙兵した当時の状況から170年前後の生まれとする考察がある[注 8]。
- 名前は、諱の「雲」と字の「龍」は儒教の経典のひとつ『易経』(周易)の「雲従龍」が由来と考えられている[注 1]。
- 人柄は、陳寿は「忠節勇武」(忠義に厚く節義を守り、勇ましく武勇に優れる)、楊戯は「厚重」(重々しく落ち着きがあり、情が深く誠実[193])と記している[12][194]。
- 容姿については、『別伝』によると身長八尺(約185cm)[注 39]、容貌は際立って立派だったと記されている[34][1]。
家族・子孫
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父 |
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兄 |
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趙雲 |
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関羽 | ||||||||||||||||||||||||||
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趙統 |
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趙氏 |
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関平 | ||||||||||||||||||||||||||||
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趙纂? |
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趙諮? |
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関樾 | ||||||||||||||||||||||||||||
※参考資料:『続修江陵県志』、『西充趙氏宗譜』、「[195]」を基に作成。
清代『続修江陵県志』によれば、趙雲には娘(趙氏)がいたとあり、関羽の息子・関平に嫁いだという(→関樾)[196]。正史には炎興元年(263年)、魏との交戦で次子・趙広が戦死したと記されるが[11][180]、長子・趙統および一族のその後については、史伝に記述はない。一方、四川省西充県の趙氏に伝わる『西充趙氏宗譜』によると、蜀漢滅亡後、趙統と趙広の子孫はみな四川に残り、趙統の息子とされる趙纂は凡渓に、趙広の息子とされる趙諮は射洪に定住したという。しかし元末の戦乱により一族は離散、明代には8人が残るのみとなったが、一族の趙権が南部県神壩鎮に移住、子孫は橋楼村を中心に広がり、三つの支流に分かれたという[196]。現在、神壩鎮には数千人の趙氏一族が住み、西充趙氏は数万人にのぼるというが、実際に彼らが趙雲の子孫であるかは不明[注 40]。
祠墓・逸話
趙雲の墓とされるものは、主に次の3か所が知られている。
- (1)趙子龍祠墓(四川省大邑県):〈大邑趙雲墓〉とも。中国学会から広く認められている墓。
- (2)南陽趙雲墓(河南省南陽市):唐代以前から存在した可能性のある墓。
- (3)臨城趙雲墓(河北省邢台市):趙雲の故郷を称する臨城県にある墓。
(1)は趙雲が晩年に大邑に駐屯し、異民族の青羌(羌族)の反乱を鎮圧したことから、この地に葬られたという伝承があり、関連する遺跡や民間伝承が複数残されている[198]。(2)は趙雲への敬慕から作られた衣冠塚(死者の衣冠を埋めた塚)と考えられ[199]、(3)は研究者の見解では、趙雲の墓の可能性は低いとされる(詳細は各記事を参照)[200]。
南朝の梁時代に書かれた『古今刀剣録』によると、劉備が皇帝に即位した際(章武元年:221年)、劉備が八振りの剣を鋳造し、一振りを趙雲に与えたという逸話がある[201]。
年譜
※正:『三国志』〈趙雲伝〉、別:裴注『趙雲別伝』、他:他の文献(華:『華陽国志』、漢:『漢晋春秋』、水:『水経注』)。
※年齢は「[注 8]」の説に基づき、満年齢で算出(当時の慣習である数え年に換算する場合、表中の数値に1を算入)。
※節:該当節へ移動。※参考資料:「[202]」「[203]」の年表を基に作成。
| 趙雲年譜(表)▼ | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 節 | 年 | 正 | 別 | 他 | 詳細 | 年齢 |
| ▲ | 191年 | 〇 | 初平2年秋~冬、趙雲が挙兵し公孫瓚の配下になる。 | 19 | ||
| ▲ | 〃 | 〇 | 公孫瓚配下の将・田楷の援軍として、劉備の主騎になる。 | 〃 | ||
| ? | 〇 | 趙雲の兄が死去。服喪のため公孫瓚の下を辞し、劉備と別れる。 | ? | |||
| ▲ | 200年 | 〇 | 建安5年、冀州の鄴で劉備と再会。 | 28 | ||
| ▲ | 203年 | 〇 | 建安8年、博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る。 | 31 | ||
| ▲ | 208年 | 〇 | 〇 | 華 | 建安13年、劉備軍が荊州の当陽・長坂にて敗走。 劉備の子・阿斗(劉禅)と甘夫人を救出。牙門将軍に昇進。 |
36 |
| ▲ | 209年 | 〇 | 建安14年、荊州南部平定戦に参加。偏将軍・桂陽太守に就任。 | 37 | ||
| ▲ | 211年 | 〇 | 〇 | 建安16年、劉備の益州入り。趙雲を荊州に留め置く。 その際、趙雲を留営司馬に任じ、孫夫人の目付役にする(別)。 |
39 | |
| 212年 | 〇 | 漢 | 建安17年頃、孫夫人の劉禅拉致を阻止する。 | 40 | ||
| ▲ | 214年 | 〇 | 〇 | 華 | 建安19年、益州平定戦で江州を攻略、翊軍将軍に昇進。 褒賞(田宅分配)に反対し、劉備に聴き容れられる(別)。 |
42 |
| ▲ | 219年 | 〇 | 建安24年、漢中争奪戦で曹操軍と交戦、空城計を用いて撃退。 | 47 | ||
| ▲ | 〃 | 華 | 劉備が漢中王に即位。(華)は、このとき翊軍将軍に昇進したとする。 | 〃 | ||
| 221年 | 〇 | 章武元年、東征を決意した劉備を諫止したが聴き容れられず、 江州督として巴に留まり、後詰めを命じられる。 |
49 | |||
| 222年 | 〇 | 章武2年6月、夷陵の戦いで大敗した劉備の救援に向かう。 | 50 | |||
| ▲ | 223年 | 〇 | 華 | 章武3年5月、劉禅が即位。中護軍・征南将軍、永昌亭侯に昇進。 のち、鎮東将軍に遷る。 |
51 | |
| ▲ | 227年 | 〇 | 建興5年、諸葛亮と共に漢中に駐留。 | 55 | ||
| 228年 | 〇 | 〇 | 華 漢 水 |
建興6年春、第一次北伐で曹真軍と交戦。 敗北したが被害を最小限に喰い止める。 撤退の際、殿を務めた(別)。のち鎮軍将軍へ降格。 |
56 | |
| ▲ | 229年 | 〇 | ※ | 建興7年、死去。※後出師表では228年冬以前とする。 | 57 | |
| 261年 | 〇 | 〇 | 劉禅が趙雲に諡するよう詔を出し(別)、 景耀4年春3月、〈順平侯〉を追贈される。 |
— | ||
評価
※以下、会話・引用「」との区別のため、名称・概念および会話内での別文献からの引用箇所は〈〉を使用する。
歴史的評価
清代の文官の袍服を着た趙雲の塑像(左:孫乾)。文官姿の理由は、劉備への諫言に見られる政治的見識と人格を讃えてのものとされている[204]。老人姿の理由は後節参照。
研究者間の共通認識として、誠実・謙虚といった品格、劉備への諫言に見られる勇気と政治的識見といった洞察力については高い評価が得られている(後述)[205]。一方、趙雲が正史〈関張馬黄趙伝:五虎大将軍〉の末に立伝されたのは、他の武将ほど戦功が顕著でなかったためという見解が強い[206][207]。官位が他の五虎将より一段劣る点については様々な論説があり、特に劉備が漢中王や皇帝になった際に昇進記録がないことについては[注 41]、以下のように、たびたび議論の的となっている。
官位における議論
武勲の上がらない特殊任務にばかり起用されたためとする見方のほか[注 23]、益州平定後の田宅分配に見られる蜀漢政権の腐敗と趙雲の理想との不一致による低待遇[注 42]、皇帝である劉備に諫言したことや[124]、諸葛亮派[注 43]に所属していたために劉備に警戒され信用を失ったとするものなど[211][212]、さまざまな推論・臆測が見られ、中には正史を基にした虚構(フィクション)である小説『三国志演義』を根拠として論じられることもあり、譚良嘯が苦言を呈している[注 36]。
その他の見解として、鄺龑子は劉備が趙雲のために独自の称号(雑号将軍)を設けた理由を、孫夫人の目付役や内政といった特別な任務に柔軟に充てるためであったと主張し、さらに、他の四将の諡がいずれも〈壮繆〉〈桓〉〈威〉〈剛〉といった雄々しく勇猛さを称えるものであるのに対し、趙雲の〈順平〉は、慈悲深さや規範の遵守を意味することから、趙雲の評価の本質は、軍の内部を助ける役割にあり、それが他の四将との官位の差に繋がったと分析している[214]。
史料解釈上の議論
また、趙雲が最初に就いた〈主騎〉を史書に倣って〈騎兵隊長〉とすべきか、〈護衛隊長〉として生涯劉備の親衛隊であったと解釈するかでも、役割や評価が割れる要因となっている[注 10]。渡邉義浩によれば、「正史には長坂で阿斗を保護したこと、北伐で曹真に敗れ、死後に順平侯と諡されたことしか書かれていない」、「三国志を編纂した陳寿は、趙雲を夏侯嬰(前漢の武将:劉邦の御者や太僕を務めた)になぞらえて評価している」ことを根拠として、「正史の趙雲は劉備の家族を守る〈護衛隊長〉」とする[215]。一方で、趙春陽ほかは、正史は益州平定戦に参加したことが記されていること、このとき趙雲が単独で兵を率いて攻城戦を行い、江陽を攻略していることなどを根拠として、〈護衛隊長〉または〈ボディーガード〉とする説を強く否定している[216][217]。
追封と栄誉
- 蜀漢:景耀4年(261年)春3月、蜀漢建国の功臣に追贈が行われ、劉禅から〈順平侯〉が贈られた。〈順〉は「慈和遍(あまね)く服する」、〈平〉は「治めて眚(わざわい)無き。事を執りて制有り。綱紀を振い持する」といった意味を持つ[218]。
- 明:地元正定で「見識ある人物」と評され、万暦4年(1576年)から清末まで県の〈郷賢祠〉顕聖忠臣の筆頭に列位した[219]。
- 清:民間では各地に趙雲廟が建てられた[注 44]。最古の祠は黎州に北宋以前から存在したという(→#文化的価値)[221]。
- 康熙11年(1672年)、〈成都武侯祠〉(1)に合祀、のち武将の筆頭となる。
- 康熙61年(1722年)、〈歴代帝王廟〉(2)従祀名臣として、三国時代からは諸葛亮と共に従祀した[222]。
個人の評価
趙雲に対する評価は時代によって変遷が見られる。後漢・三国時代から西晋・唐代にかけては、主に戦場での武勇が評価の対象であった。しかし宋代以降になると、裴松之が注に引いた『趙雲別伝』に見られる、彼の品徳や政治的見識、大局的な判断力が注目されるようになる。こうした側面から、史家からしばしば「古の大臣の風あり」と称えられた[223]。こうした史伝における「誠実で知略に長ける」という人物像は、のちの元・明代に成立する小説『三国志演義』において、武勇と忠義を兼ね備えた完璧な英雄像として結実することになる(次節参照)[224]。
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- (後漢)劉備:「子龍の一身はすべてこれ肝である」[34][225]
- (三国)楊戯:「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克。精鋭を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[12][226]
- (西晋)陳寿:「①黄忠・趙雲は共に彊摯壮猛、揃って軍の爪牙となった。灌嬰・滕公の輩であろうか?」[227][228][注 45]「②陳到は名声・官位ともに常に趙雲の次にあり、どちらも忠節勇武な人物として称えられた」[12][226]
- (唐)薛登:「武芸に関しては、趙雲は勇気があるが、諸葛亮の指揮を必要とした。(中略)闘将は敵の攻撃を打ち砕くことに長け、謀将は事態を的確に予測することに長けている」[230]
- 大唐平百済国碑銘:(蘇定方は)秀でた気風を文昌星に標し、李広・霍去病を凌駕して追随を許さず、彭越・韓信を眼下に見下ろすほど高潔である。趙雲は一身の胆にして勇は三軍に冠たり。関羽は万人の敵にして、声は百代に雄なり。躯を捐てて国に殉ずる志は、流鏑を冒すごとに逾々堅く、生を軽んじ義を重んずる(欠落)。心は水鏡を懸けたるが如く、鬼神といえどもその形を蔽うことはできず、資質は松筠を過ぎ、風霜といえどもその色を変えることはできない」[231]
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- (宋)朱黼:「(呉征討の諫言)この意見は深い洞察に基づいており、天下の情勢を的確に捉えている」[232]
- 陳造:「趙子龍が魏軍を退けた時、劉備は彼を「全身が度胸の塊」と称賛し、後世に語り継がれるべき武勇だと述べた。まさに死地から生還し、敗北を勝利へと転換させたのだ」[233]
- 陳普:「子龍がその身は、すべてが胆力の塊なり。さらには仁の心と義の肝を併せ持ち、士に説きて益州の地を和せしめ、百の驚威にも動ぜぬその姿こそ、真に人々を安んずる者なり」[234]
- 胡三省「趙雲の言葉は、何を優先させるかをわきまえていたと言えるだろう」[135]
- (元)鄭元佑:「趙雲が蜀で民を安んじたように、無限の需要を限られた資源で共有するのは得策ではない」[235]
- 郝経:「趙雲は忠誠を尽くして、その身をもって君主を守り抜いた。その志は初志貫徹であり、漢の忠義の士であった。功績と志は曹参と樊噲の輩のようである。趙雲は特に深識遠慮である。勇ましいが注意深い。たびたび忠言を献じ、その度に時勢を的中させた」[236]
- (明)蕭常:「趙雲は勇猛の臣でありながら、その建言は賢明であり、国体に通じていた。田畑や家屋を返還して民心を大切にしたり、軍資を冬の下賜にしたり、呉を赦免して魏を重視したりと、諸葛亮でも考えに至らない考えを有していた。同姓を理由に趙範の兄嫁を受け入れないなど、己への厳しさは当時の武将の中でも随一ではないか?」[237]
- 方孝孺:「関羽、張飛、趙雲、馬超の用兵、さらには諸葛氏に諸葛瞻・尚が、関氏に関彝、張氏に張遵、趙氏に趙広など、その由来を推し量るに、昭烈と孔明の事績は、単なる功業の範囲や成敗の結果を超越したものがある」[238]
- 楊時偉:「子龍の心は金石を貫き、雲天を凌駕し、関張にも劣らない」[239]
- 范光宙:「趙雲の終始を鑑みるに、おのずとそれは大臣の器量であると言えよう。どうして単なる名将と評して済ませられようか?」[240]
- 李賢:「智勇兼ね備わる。子龍はまさに古代の大臣の風格があると言えよう」[241]
- 徐奮鵬:「子龍は全身が胆力であるだけでなく、おそらく全身が智謀である。まさに天下三分における完璧な人物と言えよう」[242]
- 王士騏:「趙雲の言動を注視すると、彼は単なる名将ではなく優れた洞察力を持つ大臣としての器量を備えていることが分かる。これは趙雲のような優れた人物を武勇だけで評価するのは、彼の深い識見や政治的な能力を見落としてしまうという短見を戒めるものである」[243]
- 沈国元:「趙雲が田宅を拒否し、魏を滅ぼそうとしたのは、単なる武将としての勇気ではなく、古代の賢臣のような深い政治的見識に基づいた行動である。このような志気を、単なる武将としての能力だけで判断すべきではない」[244]
- 宋徴璧:「張遼と趙雲は敵陣を我が物顔で動き回り、その勇猛果敢な振る舞いで敵を圧倒し、恐れさせた。しかし自分の勇猛さを頼りにするようなやり方は、大将としての真の力量とは言えない」[245]
- 鍾惺:「趙雲の始終を観るに、およそこれは大臣の器量であって、単なる名将に留まらない」[246]
- 張萱 (明):「趙雲・文鴦は、何万もの敵の中に単騎で飛び込み、向かうところ敵なしだった」[247]
- 張溥:「(呉征討の諫言)趙雲は大義を理解し政策を決定するという点で魯粛と同じだったが、劉備は彼の諫言を聞き入れなかった」[248]
- 萬応隆:「趙雲は漢の賊は討たざるを得ないと考えたため、彼に家を授けても顧みなかった。「漢の賊がまだ滅びていない」という一言は、『春秋』の言葉よりも厳格であり、大いなるかな、すなわち天下の溺れるをおのれが溺れるがごとき心なのである」[249]
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- 王夫之:「猇亭で敗れ、先主(劉備)が亡くなり、国の精鋭は夷陵で尽きた。趙雲のように公(諸葛亮)の志に共感する老将もいなくなった。(中略)もし先主が、関羽を信頼したように公を信頼し、趙雲の言葉を聞き入れて東征をやめ、曹丕が天下を簒奪したばかりで人心も定まっていないときに、孫権と手を結んで中原を問いただしていたならば、国力もまだ十分で、士気もまだ盛んだった」[250]
- 黄彭年:「趙雲は数十騎で敵に遭遇し、門を開け旗を伏せ、戦鼓を止め敵を油断させるという大胆な戦略で勇気を示した」[251]
- 呉雲:「天性の勇猛さを持ち、将軍でありながら自ら矢石を浴び兵士を率いて最前線に立つ。これは趙順平(雲)、常開平(遇春)の遺風だ」[252]
- 李榘:世論は関羽と張飛を「傑出した人物」と讃えていることについて触れ、しかし趙雲はその二人にも引けを取らない武将であり、賞の辞退や東呉出征を諫め、謙虚さや時勢を見極める能力は関羽・張飛には及ばない、「真の良将」と評価する[253]。
- 朱軾:「陳寿評は趙雲のすべてを言い尽くしたものではない」と述べ、知略、度量の広さ、劉備との関係を鄧禹と光武帝の関係になぞらえ、先見の明を評価した。夏侯蘭の推挙を岑彭と韓歆の関係や馬武に喩え、美女や田園の贈与を拒み、私欲に走らず国に仕えたことは、呉漢の故事を想起させるとして、趙雲が長生きしていれば「大将軍の地位を与えられただろう」と評した[254]。
- 易佩紳:「趙雲は武臣であったが、儒臣としての性格も併せ持っていた」[255]
- 李光地:「趙雲と張嶷は偉大な将軍であるだけではなく、明決で思慮深く、成熟した人物であり、古の重臣に選ばれるだろう」[256]
- 厳如熤:「褒斜道の桟道、桟閣は趙雲と王平のような忠実で謹慎な良将を配置し、その指揮を任せたのは当然のことであった」[257]
- 牛運震:「『趙雲別伝』には劉備との係わり、田宅贈与の辞退、東征に関する助言などの経緯が記されているが、いずれも全体的な情勢把握という点で注目に値する」[258]
- 朱可亭:「①趙雲は関羽、張飛と共に、馬超・黄忠を加え五虎将と呼ばれた。陳寿は彼らの強靭・勇猛な姿を見て、灌嬰や滕公に匹敵すると評した」[259]「②孫臏は竈の数を減らして敵を欺き、虞詡は竈の数を増やして敵を威嚇した。趙奢は陣を築いて守りを固め、趙雲は陣を開いて敵を惑わせた。このように虚実と強弱は戦況に応じて変化し、軍事は常に予測不能なものである」[260]
- 魏裔介:『趙子龍論』において、長坂と漢中での戦いから「名将」と評し、さらに田宅分配や東呉征討での諫言から「古の大臣」でもあるとして、その識見と、才能を見出した劉備、ふたりの関係性を讃えている[261]。
- 杭世駿「趙雲の功績は関羽と張飛に次ぎ、馬超や黄忠よりも優れている。景耀三年に関羽・張飛・黄忠・馬超が追諡されたが、趙雲は含まれず、一年(半年)遅れて追諡されたのはなぜだろうか?」[262]
- 乾隆帝:「趙雲が言ったように渭水の上流から逆賊を討てば、漢王朝は再興できたかもしれない」[263]
- 李景星:「関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲はいずれも蜀の名将である。故に合伝されている」[264]
- 趙作羹:「(農地分配の諫言)趙雲の提案を見るに、これは統治の基礎と言える」[265]
- 林暢園:「孫夫人の横暴は趙雲と法正によって制御できた。このように賢者は国にとって非常に有益である」[266]
- 陳允錫:「(呉征討の諫言)これは素晴らしい戦略だ。劉備はそれに従わず敗れた。天は漢に味方しなかった」[267]
- 計大受:「(呉征討の諫言)この時点で彼は諸葛亮の大節に値する人物だ。そこには古代の大臣たちの遺風がある」[268]
- 陳淡野:「人はみな器であり、各々にはそれぞれの器量を持っている。 (中略)諸葛亮には智の器量あり、趙子龍には勇の器量あり、これらはすべて偉大な器である」[269]
- 王復礼:「①順平(趙雲)はまさに儒将であった。自己を律するは厳しく、人との接し方は慎重であった。道理を見る目は明晰で、私心を捨てる力は強かった。当陽(長坂)で後主を救い、奮って身を顧みず、漢水(漢中・定軍山)で功績を立て、その威勢は虎のようであった。ことわざにあるように、〈胆は大きく、心は小さくあれ。志は円く、行いは方正であれ〉。まさに順平のことである」[270]「②当陽の戦いと孫夫人の帰郷においては、もし趙雲がいなければ、後主は命を落としていたかもしれない。ゆえに功績・才品は言うまでもなく三国の諸人に勝っている」[271]
-
- (民国)盧弼:「絶世の美女の樊氏を子龍が受け入れなかったのは、関羽が秦宜禄の妻との結婚を懇願したのに対して賢明な行いだ」[272]
- 李澄宇:「長坂の戦いで趙雲が後主を抱いて保護し、甘夫人もみな難を逃れた。孫夫人が呉に戻ると、趙雲と張飛は河を遮って後主を奪還した。この二つの出来事は今でも私たちの心に鮮明に残っている。彼の逝去後、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠と同じく美諡を与えたのは良い行いだ」[273]
- 梅公毅:「将軍になるためには、大胆にして細心であること。大胆であれば勇気があり、細心であれば賢明さを養うことができる。そのため、敵を打ち破って勝利を収めることができるだけでなく、不利な状況に陥っても致命的な敗北を喫することはない。三国時代の将軍の中でこれができるのは、魏の張遼と漢の趙雲だけだ」[274]
- (現代・中国)方北辰:「趙雲の〈忠〉は劉備個人に尽くすだけに留まらず、約束を守り職責を放棄しないという高い境地にあり、人間性に忠実で弱者を見捨てないという最高の境地にも到達していた。〈勇〉は戦場で敵と激しく戦うことだが、より高いレベルは朝廷で君主に対して率直に直言・諫言を述べる勇敢さである。このように高い境地にある〈忠勇〉は古代でも稀有であったが、現代社会ではさらに貴重である」[275]
- 周思源:「歴史上の趙雲は、功績において他の英雄たちに匹敵するものではなかったかもしれないが、人々が及ばない美徳を備えていた。(中略)公私を明確に区別し、小さな義理と大きな義理を見極める能力に長け、(東征で)道理を非常に的確に説明し、警告を発した。これらのことから、彼は単なる武将ではなく、政治的な知恵と遠大な見識を持つ戦略家であったと言えるだろう」[90]
- 趙春陽:「三国時代から1800年が過ぎ、当時の価値観の多くが変容した現代においても、趙雲が示した使命への忠誠、責任を担う勇気、厳格な自己規律の精神は普遍的な価値を失っておらず、これら三つの精神は現代でも十分に通用するもの」として、「特に指導的立場にある者には大いに学ぶべき点がある」と評している[276]。
- (日本)宮川尚志:呉征討の際の劉備への諫言について「国策を明確に認識したもの」、北伐での褒賞の辞退を「思慮分別のある人」と評する[277]。
- 狩野直禎:「冷静かつ縁の下の力持ちに徹した武将」と位置づけ、その根拠として、長坂における劉禅救出や、関羽・張飛・劉備らが世を去った後も、長く蜀を支え続けた点を挙げる。さらに、北伐の撤退戦において最も困難とされる殿を見事に務め上げたことを指摘し、常に組織を下支えする役割を完遂した実務能力を評価している[278]。
- 井波律子:謙虚な態度や洞察力、第一次北伐の撤退戦を特に評価し、蜀の五虎将について「総合的な力量は趙雲に一日の長があるように思われる」と評する[279]。
- 渡辺精一:第一次北伐における趙雲の敗戦について、「わずかな兵力で敵軍を食い止めるよう命じた諸葛亮の構想自体に無理があった」と述べ、「趙雲自身に落ち度はなかった」と擁護している。その上で、「趙雲が目先の利益を追う人物であれば、このような無理な命令を遂行せずに魏へ寝返るという選択肢もあり得た」ことを指摘し、「しかし、趙雲はあえて困難な任務を忠実に遂行し、軍をまとめ上げ、帰還後は潔く責任を取って降格を受け入れた」ことを評価している[280]。
- 渡邉義浩:劉備を介さなければ諸葛亮の指示を聞かない傾向にあった関羽や張飛に対し、趙雲は常に諸葛亮の意図を汲んで「忠実に任務を遂行する人物」だったと見なした上で、諸葛亮が気難しい関羽の扱いに苦慮した一方、無条件で実務を任せられ、絶対的な信頼を寄せたのが趙雲であったと分析し、彼を「忠義の士」と評している[281]。
三国志演義
『三国志演義』(以下『演義』)は、元末明初に羅貫中によって編纂されたとされる歴史小説であり、正史『三国志』を基盤とした虚構(フィクション)作品である。
本作において趙雲は、初登場時の少年期から70代の老将に至るまで長期間にわたり活躍する。性格は大胆かつ細心、知勇兼備の堅実な武将として造形されており[282]、〈常山の趙子龍〉という名乗りと共に広く親しまれている[283]。特に「長坂坡の戦い」で劉備の嫡子・阿斗(劉禅)を単騎救出するエピソードは、その武勇と忠義を象徴する名場面として知られる[284]。
また、関羽・張飛・馬超・黄忠と並び〈五虎大将軍〉の一人に数えられる。この称号は、正史の撰者である陳寿がこれら5名を同一の巻(『蜀書』関張馬黄趙伝)にまとめて記述したことに由来する架空の称号である[285]。現在一般に普及している『演義』の内容は、清代に毛宗崗が整理・改訂を施した版本(毛宗崗本)に基づいている[286]。本節では、主にこの「毛宗崗本」を中心に概説する。
趙雲像の変遷
『演義』は、先行する『三国志平話』をはじめ、それを基に発展した元雑劇、および当時流布していた三国故事(民間伝承)などの諸要素を統合・再構成したものである。趙雲の人物像も、これら複数の源流を経て、以下のような過程を辿りながら確立されていった。
三国志平話
『三国志平話』(以下『平話』)は『演義』の原型となった白話小説である。当時流行した「冥界裁判」を導入部に置き、上・中・下の三巻で構成される。その内容は後世の『演義』と比較して粗削りで、荒唐無稽な描写が目立つ[287]。
本作は当時庶民から絶大な人気を誇った張飛を実質的な主人公としており[288]、趙雲を含む他の将軍たちは張飛の引き立て役としての側面が強い[289]。例えば、史実では趙雲が張飛と共に孫夫人から阿斗を奪還した逸話は張飛単独の手柄に改変され[290]、一騎打ちにおいても、趙雲は張飛と互角に渡り合いながらも最終的には体力負けするなど、張飛より劣る存在として描かれている[289]。
趙雲は中巻から登場し、史実とは異なり袁紹の客将という設定になっている。劉備が曹操に敗北して袁譚(袁紹の長男)を頼った際、自身の不遇を嘆く歌を詠んだ劉備に対し、廊下にいた趙雲が即興の歌で応じて励ます場面が初対面の描写となる[291]。その後、曹操の降将になっていた関羽が、袁紹配下の顔良・文醜を討ったことで袁紹が激昂し、劉備が処刑されそうになると、趙雲は自らの全親族を人質に供することで劉備の身柄を保証した。最終的に趙雲は親族を見捨てて劉備と共に荊州へ向かう道を選択しており、本作における趙雲は主君のためには手段を選ばない過激なまでの忠誠心を見せている[292]。こうした描写には、当時の〈兄弟は手足の如く、妻子は衣服の如し:衣服(妻子)は新調できるが、手足(義兄弟)は替えが効かない〉という価値観が反映されており、同様の傾向は、関羽の架空の息子・関索を主人公とした『花関索伝』において、関羽と張飛がのちのためにと、互いの家族を殺害しようとするエピソードなどにも散見される[293]。
その後の「長坂坡の戦い」では、曹操の大軍を単騎で突破し阿斗を救出するという、のちの『演義』の原型となる大活躍を見せるが、しかし物語全体を通じた出番は限定的であり、やはり張飛の陰に隠れた存在に留まっている[294]。
元雑劇
元雑劇は宋・元代に隆盛した戯曲の一種であり、三国志を題材とした演目も数多く制作された。これらは先行する『平話』を改編したものであるが、独自の脚色や民間伝承に基づいた物語も含まれる。しかし演目名のみが残り内容は散逸したものも少なくない[295]。現存する演目において、趙雲は『平話』に比して出番が増加しており、主役である〈正末:歌唱を担当する唯一の役柄〉として登場する作品も存在する(表参照)。劉備の行動を冷静に諫める場面など、後世の『演義』における冷静沈着な趙雲像の萌芽が見て取れるが、全体としては依然として脇役としての活躍に留まるものが多い[296]。
| 登場演目・内容一覧(表)▼ | |||
|---|---|---|---|
| 演目名 | 作者 | 演目内容 | 出典 |
| 劉玄徳独赴襄陽会 | 高文秀 | 『平話』中巻、『演義』の第34-35回相当。 蔡瑁らに暗殺されそうになる劉備を徐庶が補佐する話。 話術に長けた趙雲が、徐庶を説得して劉備に仕官するよう促す。 |
[297] |
| 諸葛亮博望焼屯 | 不詳 | 『平話』中巻、『演義』の第37-39回相当。 諸葛亮を迎え入れ博望坡で夏侯惇と戦う話。臥龍崗にいる劉備に、 趙雲が甘夫人が阿斗を出産したことを告げに来る。 |
[298] [299] [300] |
| 両軍師隔江闘智 | 〃 | 『平話』中巻、周瑜が美人計で劉備を謀る。「甘露寺」相当。 趙雲の会話に「長坂坡で三日三晩、百万の軍勢を相手に阿斗を守り、 曹操からは〈全身が胆〉と称された」[注 46]という話が出てくるが、 長坂坡を題材にした脚本は現存していない。 |
[301] [302] |
| 劉玄徳酔走黄鶴楼 ※役柄:正末 |
朱凱 | 『平話』中巻、赤壁戦後、周瑜との会合で劉備が黄鶴楼に向かう。 趙雲は会合への参加に反対し、自信過剰な劉封は劉備を焚きつけ、 趙雲と意見が対立する。深謀遠慮な老将(※ベテランの将軍)として 描かれ、劉封からは「老趙」と呼ばれている[注 47]。 |
[304] |
| 走鳳雛龐掠四郡 | 不詳 | 『平話』下巻。荊州南部四郡争奪戦。 関羽・張飛・趙雲が黄忠らと戦う。『平話』では趙範が長沙太守に なっているが、桂陽太守に修正されている。『演義』に描かれる 樊氏との一連の物語は脚本に見られない。 |
[305] [306] |
| 曹操夜走陳倉路 | 〃 | 『平話』下巻。劉備が益州を平定し、曹操が陽平関に攻め入る話。 黄忠の救出、空城計で敵を退けるようなエピソードはなく、 陽平関で待ち伏せ任務の担当、という脇役に収まっている。 |
[307] |
| 陽平関五馬破曹 | 〃 | 『平話』下巻。 黄忠が夏侯淵を斬るなどの陽平関、定軍山の話を基にした話。 諸葛亮が趙雲に敵将の旗を掲げさせ陽平関を騙し取ったり、 五馬(馬超・馬良・馬忠・馬謖・馬岱)をひそめて曹操軍を包囲し、 蜀漢が大勝利を収める。 |
[308] [309] |
| 寿亭侯怒斬関平 | 〃 | 『平話』には見られない話。民間伝承由来とみられる。 五虎将の子らが張虎と戦う話。趙雲の子・趙沖なる人物が活躍。 |
[296] |
| 趙子龍大閙塔泥鎮 ※役柄:正末 |
〃 | 演目名のみが残り、脚本散逸のため内容不明。 趙雲が主題の演目。 『平話』『演義』にも該当タイトルはなく、民間伝承由来とみられる。 |
[297] [295] |
性格は慎重かつ几帳面、演者には特にその大胆さと几帳面さを示すことが求められたという[310]。初期に広まった物語では、趙雲は諸葛亮よりも慎重な性格をしており、「城攻めの際に、いつ出発し、いつ食事をし、いつ川を渡って城を攻めるか、綿密な計画通りに従うよう求められ、趙雲は兵を率いて出発する。直後、諸葛亮はその計画の時刻では川が満潮の影響で増水し、渡れないという重大なミスに気づいた。しかし趙雲は川の増水の事を知っていたので、事前に筏(いかだ)を用意し、計画通りに問題なく完了した」となっている[311]。
また、元雑劇における趙雲には「文は三略に通じ、武は六韜を解す」[312]という兵法に通じた教養面の設定に加え、「若い頃には馬の売買に携わっていた」[313]という独自の設定が付与されている。葉威伸は、後者の設定が複数の演目に見られる点に着目し、当時の民衆の間で広く定着していた趙雲の出自像であった可能性を指摘している。この設定自体は史実ではないものの、趙雲が史実で公孫瓚配下の精鋭騎兵団〈白馬義従〉に属していた可能性に照らせば、単に乗馬技術に長けていただけでなく、馬の資質を見抜く鑑定眼をも備えていたことを示唆しているという[314]。なお、馬商人という設定の由来については、史実の〈主騎〉という職名が歴史的背景を欠いた劇作家の手によって誤読・改変された結果であるとする解釈も存在する[315]。
演義の趙雲像
完美武将の誕生
『演義』の編纂において羅貫中は、先行する『平話』や元雑劇の要素を取り入れつつも、荒唐無稽な描写を排して史実に即した整理・修正を行った。趙雲に関しては、正史や『趙雲別伝』の逸話を積極的に採用・引用することで、それまでのやや通俗的なキャラクター像を、より格調高いものへと刷新している[316]。 このため、『演義』の趙雲像は比較的史料に基づいて形成されたと見なされており、『平話』や元雑劇が与えた影響は限定的であるといえる[317][318]。一方で、羅貫中は正史から読み取れる理知的な印象に、『平話』や雑劇において既に成立していた「長坂坡の戦いで大軍の中を単騎掛けする」描写のように、勇猛さを表わすエピソードを大幅に加筆・強化した[319]。その結果、井波律子が「士大夫の美学の結晶」と評したように[320]、才能・徳・知勇を兼ね備え、中華民族の伝統的美徳を体現した、ほぼ欠点のない〈完美武将:文武両道の儒将〉という完璧なイメージを確立させた[321]。『平話』での活躍から『演義』で下方修正された張飛に対し、『演義』で大幅に神格化された関羽とともに、趙雲も株を上げたひとりと言える[322]。
性格面では、義に厚くも自尊心の高い関羽や、粗暴な面を持つ暴れん坊の張飛といった〈破滅型〉の登場人物と比較して、冷静沈着な趙雲は常に任務を完遂する〈安定型〉として描かれる[323]。そのため、劉備が荊州で継嗣問題に巻き込まれた際の護衛(第34-35回)、赤壁の戦い後に諸葛亮を迎えに行く任務(第49回)、孫夫人(本作での名は孫仁)との縁談に伴う護衛(第54-55回)など、劉備・諸葛亮の双方から重要局面で重用される頻度が極めて高く[90]、また、『別伝』に見られる思慮深さや卓越した政治的見解、率直な諫言の逸話は『演義』にもそのまま、あるいは樊氏との縁談話のように脚色して採用されている(後述)。こうした描写から「政治家の資質を備えた将軍」であるとたびたび評されるが[324]、これは『演義』に登場する他の武将、ひいては民間の語り物から生まれた中国古典小説の将軍像全体の中でも、他に類を見ない特筆すべき特徴であることが指摘されている[325]。
戦闘面においても、文醜に追い詰められた公孫瓚の危機に彗星のごとく現れる(第7回)、夷陵の戦いで劉備の絶体絶命の危機に鮮やかに駆けつけ朱然を討ち取る(第84回)など、主君の窮地に必ず現れる救世主的・英雄的描写は読者に絶対的な〈安定感〉を与え、後世、趙雲を形容する代名詞となる〈常勝将軍〉のイメージは、こうした『演義』による造形の集大成として完成をみたといえる[326]。
羅貫中の造形意図
麹義と戦う少年趙雲(左)
趙雲のキャラクター設定について、上野隆三は物語への早期の登場や五虎将の中で最後まで存命するという〈利便性〉に着目している。史実では無関係な場面でも劉備の護衛として、あるいは関羽・張飛を補完する役割として登場させていると論じ[327]、失敗の多い張飛に対して趙雲が常に無謬の行動をとるのは、大衆に愛された暴れん坊・張飛の個性を対比によって際立たせるためであり、その本質は依然として「張飛らの引き立て役」との見解を示している[328]。
一方、周思源は趙雲の登場から最期に至るまでの描写の丁寧さを指摘する。公孫瓚を救うために少年の身でありながら文醜と互角に渡り合う鮮烈な初登場に始まり、他の五虎将が惨殺や暗殺などで世を去る中、趙雲のみが最晩年まで武功を挙げ続けていることから、「羅貫中が趙雲の生涯を丹念に構築し、彼を特別に愛好していたことの反映である」と指摘する[90]。実際、『演義』の一騎打ちにおける趙雲の勝利数は全武将の中で最多であり、長坂坡での敵将50人斬りといった武勇[329]、数々の徳義ある描写には、羅貫中個人の理想や肩入れが反映されているとの見解が多い[注 48][注 49][335][336]。
また、羅貫中は五虎将それぞれの英雄性を際立たせるため個別の調整・差別化を行っている。関羽には忠義の誇張と神格化を施し[337]、張飛は『平話』での荒唐無稽な描写を抑えて史実に近づけ[338]、黄忠は寿命を延ばすことで老将としての活躍を強化し[339]、馬超は容姿を美青年へと創作した上で、欠けていた孝・徳の性格を矯正し美化を施した[340][341]。陳香璉は、趙雲には正史に乏しい武勇描写を補強し、『平話』で不当に弱められていた形象を羅貫中や後の毛宗崗が史料に基づいて本来の姿へと復元・調整したのは、「五虎将全体のバランス調整の一環」と分析している[注 50][289]。
演義の設定
『演義』の古本である「嘉靖本」では、その容貌を「身長八尺,濃眉大眼,闊面重顔,相貌堂堂,威風凛凛」(身長約185cm、濃い眉に大きな目、広い顔と額、端正で堂々とした容貌、威風があり凛々しい姿)と描写している[注 51][346]。一方、のちに普及した「毛宗崗本」では「相貌堂堂」の語が削除され[注 52]、「重顔」が「重頤」(重なったあご)に変更されている[注 53][353]。この改編意図は不明だが、西洋人的なより逞しい男らしさを強調した描写との見解がある[319]。
史実における趙雲は年齢不詳だが、『演義』では191年の初登場時に「少年」[354]と記され、228年の第一次北伐時には「70歳」[355]と設定されている[注 54]。しかし、この「70歳」を基準に逆算すると、初登場時(191年)にすでに33歳となり、「少年」という描写と整合性が取れなくなる(下左表)。この矛盾について、沈伯俊は「羅貫中の計算ミス」と断じ、趙雲の年齢を10歳若く見積もることで諸問題を解消する合理的な再計算を提示した(下右表)[360]。一方で、作中では40代の曹休や陸遜が「少年将軍」[361]「白面の若き書生」[362]と形容され、20代の諸葛亮が熟練の賢者のように描かれる傾向がある。そのため、これらの年齢設定は実年齢の正確さよりも、人物像のイメージを際立たせるための〈文学的表現〉としての意図が優先された結果であるとする解釈も存在する[注 55][365]。
| 『演義』の70歳を元にした年齢 | 沈伯俊の著書(-10歳) | ||||
|---|---|---|---|---|---|
| 西暦 | 年齢 | 実際の描写 | 西暦 | 年齢 | 実際の描写 |
| 228年 | 70歳 | 第一次北伐 | 228年 | 60歳 | 第一次北伐 |
| 225年 | 67歳 | 孔明が「中年」と呼ぶ | 225年 | 57歳 | 孔明が「中年」と呼ぶ |
| 219年 | 61歳 | 関羽が「弟」と呼ぶ[注 56] | 219年 | 51歳 | 関羽が「弟」と呼ぶ |
| 211年 | 53歳 | 小将と称する[注 57] | 211年 | 43歳 | 小将と称する |
| 191年 | 33歳 | 「少年」として登場 | 191年 | 23歳 | 「少年」として登場 |
事績と描写
第7回、公孫瓚が袁紹配下の文醜に襲われ絶体絶命のところを、突然一人の少年(趙雲)が現れ、文醜と互角に戦い撤退させるという鮮烈な登場シーンが描かれる。公孫瓚から感謝され素性を問われると、趙雲は「袁紹に仕えたが、民を顧みない人物であると見限り、理想の主君を探していた」のだという。それを聴いた公孫瓚は喜び、彼を臣下に迎えた。第11回では、界橋にて公孫瓚軍の援軍に現れた劉備・関羽・張飛たちと出会うと、趙雲と劉備はお互い深く敬慕し合うが、趙雲は公孫瓚の下に残り、劉備と別れることになる[注 58]。公孫瓚の滅亡後、袁紹から執拗な勧誘を拒絶して各地を放浪の末、第28回にて、ついに劉備と再会、正式な配下となった[注 59]。
第39回「博望坡の戦い」では、史実よりも早く劉備に迎え入れられた諸葛亮(孔明)の策により、夏侯惇を撃破する。『別伝』で趙雲が救った幼馴染の夏侯蘭は、『演義』では張飛に討ち取られている[370][371]。これについて姚品文らは、公私の峻別を趙雲の美徳として際立たせるため、羅貫中があえて私情の絡むエピソードを排除したと指摘している[372]。
第41-42回「長坂坡の戦い」では、混乱の中で行方不明となった劉備の妻子を救うため、曹操の大軍の中へ単騎で突入する。敵将・夏侯恩を討って宝剣〈青釭剣〉を奪い、井戸に身投げし自害した糜夫人から託された阿斗(劉禅)を懐に抱えて敵陣を突破[注 60]。帰還後、阿斗を投げ捨てて趙雲の無事を喜んだ劉備の言葉に涙し、生涯忠誠を誓う場面は両者の絆を象徴する[注 61]。
第52回「桂陽攻略」では、降伏した趙範から未亡人である樊氏との縁談を持ちかけられるが、趙雲は「亡兄の妻を娶るのは道徳に反する」と激昂して趙範を殴りつけ拒絶したため趙範は激怒、二人は争いになる。その後、趙範が捕縛されると劉備からも樊氏との婚姻を勧められるが、征服地で妻を娶ることで劉備の名声への影響を考慮して固辞したので、その潔癖な性格で劉備を感嘆させた。
劉備の死後も諸葛亮の右腕として重用され、南蛮征伐(第87-90回)や第一次北伐(第91-96回)に従軍する。北伐時、70歳の高齢ながら韓徳の一族を次々と討ち取る獅子奮迅の働きを見せるが、程武の計略にかかって夏侯楙の軍に包囲された際には、自らの老いを自覚する描写も差し挟まれる。第97回、諸葛亮の元に息子の趙統と趙広が父の病没を報じに訪れる。諸葛亮は「国家は棟木を失い、私は片腕を失った」と嘆き、劉禅もまた声をあげて泣き、大将軍・順平侯の爵位(史実では諡号)を贈った。
文学的技巧
『演義』における趙雲の描写には、羅貫中の高度な芸術的技巧が凝らされている。
- 多角的な叙述視点:
「長坂坡の戦い」において、羅貫中は視点を巧みに操作している。趙雲の至近距離から敵将50人を次々に討ち取る戦場の凄惨さを描く〈近視点的描写〉と、曹操が山頂から戦場を俯瞰し、無人の境を行く如き趙雲の勇姿を讃える〈遠視点的描写〉を交差させることで、戦争の全貌と英雄の躍動を立体的に浮かび上がらせている[377]。 - 武器による象徴性:
趙雲が手にする宝剣〈青釭剣〉は、単なる武器以上の役割を担っている。漢代以降、実戦では片刃の刀が主流となり、両刃の剣の使用が減少したことで、かえって剣には神秘性が付与され、尊重されるようになった。この歴史的背景を踏まえ、あえて趙雲に宝剣を授けることで、彼の英雄性を際立たせる効果が図られている[378]。また、小林瑞恵は、この剣が主に劉禅を救出する場面(長坂坡と孫夫人の連れ去り)でのみ用いられる点に注目し、〈青釭剣〉は趙雲の英雄性を高めると同時に、趙雲と劉禅の主従の絆を可視化する物語上の装置として機能していると指摘している[379]。 - 比喩による美学:
「定軍山の戦い」における趙雲の戦闘シーンでは、「槍が上下する様は梨の花が舞うようであり、瑞雪が翻るかのようである」と形容される。槍の動きを花や雪に喩える華麗な表現は、趙雲自身の美しさと文学としての美しさが高度に融合した結果であり、〈文武両道の儒将〉として印象づけることに成功している[380]。 - キャラクターの純化:
前述の夏侯蘭の扱い(私情の排除)や、樊氏との縁談拒絶(道徳性の強調)、諸葛亮と共に劉備の関羽の敵討ちを冷静に諫める(政治的見識)など[注 62]、羅貫中は先行する語り物にあった通俗的な要素を削ぎ落とし、儒教的な規範と士大夫的な美意識を体現する〈完美武将〉へと趙雲を昇華させた[381]。
演義の評価
趙雲(左)と劉備の挿絵
Hem Vejakorn
中国では古くから関羽は神として、張飛は豪快な武将として庶民に愛され、高い人気を誇っていた[382]。しかし時代が下るにつれ、趙雲のような冷静・誠実・謙虚な人物が好まれる傾向が強まった[383]。大日本帝国海軍中将だった小笠原長生が昭和4年(1929年)に著した『大海戦秘史』には、清朝北洋海軍の蔡廷幹について、彼が軍中で「趙雲」と呼ばれ讃えられていることや、「関羽は瑕(きず)ある金の如く、趙雲は瑕なき銀の如しと世人からうたわれた趙雲というのは、人気は蜀漢五虎将の随一で、長坂坡で幼児を守護したという天晴(あっぱれ)勇将である」と、当時の日・中間での趙雲評が記されている[384]。
価値観の変化
沈伯俊によれば、現代中国においては、封建時代のような関羽への畏敬や崇拝は失われており、傲慢・傍若無人な態度は、現代人の価値観と相容れずイメージが低下した傍ら、趙雲の勇敢な戦いぶりや美徳は現代人にも理解しやすく、評価が自然と高まったという[385]。一方で、趙雲の「完璧さ」を批判的に捉える視点も存在し、趙雲の数々の美徳を無個性で「欠点」と見做したり[386]、完璧すぎる芸術的イメージ故に「人の心を深く打つ力に欠ける」と批評する向きもある[342]。郭瑞林によると、趙範の兄嫁を妻にすることを拒んだ趙雲について「偽善的」だと批判し、「道学者のよう」だとする論者(無名)も存在する[387]。
史実との比較
趙範を殴り飛ばす趙雲(左:樊氏)
また、『演義』で完成された趙雲の完璧な人物像に対し、一部の研究者からは「史実の趙雲とは全くの別人」との主張もなされている[388]。アメリカの漢学者アンドリュー・H・プラクスは、趙範が勧めた樊氏との縁談を拒絶した趙雲の態度に、『水滸伝』の好漢に見られるような女性嫌悪(ミソジニー)の傾向を指摘し、また、最古の『演義』の版本である「嘉靖本」の記述(第52回)に基づき、荊州攻略戦で周瑜との協定を破り城の占領を宣言した際の趙雲の興奮ぶりは、劉備らの命によるものとはいえ「読者に反感を抱かせる」と分析する[注 63]。さらに北伐における老将としての描写(同版本:第183回)についても、「老衰の苦労を強調することで、羅貫中が趙雲の完璧な人物像に対して疑念と皮肉を表明している」と批評的に再解釈した[390]。
これに対し、鄺龑子はプラクスらの主張に強く反論している。「別人」とする見解については、「〈長坂坡の戦い〉などの武勇に焦点を当てた描写や、地位や恩寵が向上したことに起因する表面的な誤った見方であり、これらは歴史の欠落を芸術的に補う〈詩的正義/英:Poetic justice〉として捉えるべき」であるとし[391]、また、プラクスの批評についても、「荊州での行動はプラクス自身が認めているように、主君の命令に基づく正当な遂行であり、婚姻の拒否は〈先公後私:私情より公務を優先する姿勢〉への合理的な固執、老衰の描写は〈鞠躬尽瘁:身を粉にして尽くす〉という忠義の証左である」とし、「テキスト的根拠を欠く異論は訂正されるべき」として、その有効性を否定している[389]。
普遍的英雄像
林盈翔によると、上述の批判はあくまで一説であり、学界における趙雲像研究においての共通認識は「最も(あるいは諸葛亮の次に)読者の心をつかんだ人物」でほぼ一致しているという[392]。現に、『演義』の人気投票では絶大な人気の諸葛亮に次いで2位[393]、あるいは1位になることもあり[394]、日本でも同様に人気が高い[395]。支持は幅広い年齢層に見られ、中国の子供たちが『演義』を読む際に最初に好む人物と言われており、中でも長坂坡の戦いにおける活躍は子供たちの崇拝対象になっているという[396]。また、女性支持も高いとされるが[397]、方北辰はこの傾向について、「幼い赤ん坊を抱え、か弱い女性を保護した」という、弱者の命が軽んじられる時代での稀有な行為が理由という[398]。韓国の朴槿恵元大統領が2012年に出版した自伝で「初恋の相手」と告白すると[399]、当時中国で好意的に取り上げられ、習近平総書記が趙雲の肖像画を贈呈したことがニュースで報じられた[400]。北方謙三は小説『三国志 (北方謙三)』の執筆にあたって中国で取材した際、現地の女性に三国志の好きな人物を尋ねたところ、赤ん坊を助けたことを理由に、みな趙雲と答えたという[401]。鄺龑子は現代におけるこれら趙雲の評価向上は、単なる時代の変化によるものではなく、かつて狭隘な忠義観念や関羽の圧倒的イメージに覆い隠されていた趙雲の美徳が、今日において必然的に再発見された普遍的な英雄像だったと見做している[402]。
個人の評価
- 金良年:「趙雲は勇猛果敢であること、常に勝利を収める将軍であること、慎重で厳格であること、私心がなく欲望が少ないこと、公務に忠実で法を遵守すること、そして最後までやり遂げることなどで知られ、類まれなる優秀な武将であった」[403]
- 傅隆基:「趙雲は個性に欠けると言う人もいる。しかし、劉備が激怒し、諸葛亮でさえ何も言えなかった時に、趙雲はあえて劉備が私情で公を害していると鋭く指摘した。これは個性がないとは言えないのではないか?言うまでもなく、趙雲は『三国志演義』の中で非常に見事に描かれた典型であり、人民から最も愛されている英雄の一人である」[331]
- 周思源:「孫夫人が劉禅を連れて呉に帰ろうとした場面で、趙雲が孫夫人の侍女たちを殺すことなく押しのけることしかしなかったのは、孫・劉両家の関係を損なわないよう冷静に配慮しており、その他にも田宅を分配することに反対したり、呉討伐の諫言など、劉備たちの長期的利益や民心を得ることも重視している。数多の武将が登場する中、このように根本的な大局から劉備に直言、諫言できる武将は他におらず、これは趙雲が人並み以上に識見があったことを示しており、趙雲のもっとも素晴らしい点はその高潔な品性であり、他の人物が及ばない点である」[90]
- 鄺龑子:「歴史小説は必然的に芸術的改変を伴う。趙雲が史伝の中で既に証明した知・仁・勇を兼ね備えた人格を小説が潤色して広げ、史伝の輪郭を豊かにし、その「人」としての根本的な精神と模範的な品徳に反することなく、歴史の輪郭をより豊かで充実したものにしている。『演義』における趙雲の芸術的昇華は、アリストテレスが述べた〈詩人の職務は、実際に起こったことを記述することではなく、起こりうることを記述すること、すなわち蓋然性または必然性に基づいて起こりうることである〉という言葉を想起させる」[404]
- 姚品文・張峰:「蜀漢の英雄たちの運命は、そのほとんどが悲劇的であるのに対し、趙雲だけは善始善終を遂げた。完璧な芸術的イメージを持つ趙雲は、悲劇的な人物が持つような人の心を深く打つ力に欠けている。完璧すぎる人物とは、概してそうである。これは、完璧な芸術的典型を創造しようとする者への戒めとなるかもしれない」[342]
- 李殿元・李紹先:「三国志人物の人気投票で、趙雲は関羽や張飛を上回り、諸葛亮に次いで第2位を獲得した。中国では諸葛亮に次いで、趙雲が最も愛され、忘れられない三国志の人物と言えるだろう」[393]
- その他、武侠小説の大家である金庸は『演義』の中で趙雲を特別好んでいると語っており[405][406]、その著作に登場する主要人物(喬峰、郭靖、令狐冲、張無忌)は、少なからず趙雲の影響を受けていることが指摘されている。
京劇
※以下、演劇、演目名に関するものは《》で表す。
長安大戯院・2022年(映像[407])
京劇とは、清代(1790年頃)に北京で生まれ発展した演劇・戯曲である。清代は毛宗崗が編纂した『演義』が広く普及した時代でもあり、『演義』を改編した《三国戯》(三国劇)が数多く作られた[408]。演目のひとつ《長坂坡》は名優の高度な技巧も相まって、特に高い人気を誇っている[409]。長坂坡で曹軍の陣営に何度も出入りし、劉備の臣下や夫人たちを救出したことを表す言葉としてよく知られている〈七進七出〉[410]は京劇の台詞由来であり[411]、現代でも何度も出入りする行動を表す言葉として使用されるように[注 64]、京劇の趙雲像および劇中の台詞・設定は後世の民間伝承や『演義』派生作品にも大きな影響を及ぼし[414]、〈白い若武者〉趙雲の起源とされる[415]。
役柄と設定
趙雲は主に生(男性役)に属する武生(武将役)として登場し、武生はさらに短打武生(軽装)、
周瑜・呂布と並び〈白い将軍〉として有名で[注 66]、白い靠(鎧)姿に銀槍を持ち、膝まである黒の厚底靴(別名:高方靴)を履く[421]。背中の旗は4本挿すが、その意味は「軍隊の表現」「背後からの敵の弓矢から身を守る旗に由来」など諸説ある[422]。《甘露寺》(劉備と孫夫人(京劇名:孫尚香)の婚姻話。別名《龍鳳呈祥》)など一部の演目では靠を脱ぎ、
演目と内容
| 主な登場演目と内容・役柄一覧(表)▼ | |||
|---|---|---|---|
| 演目名 | 役柄 | 演目内容 | 出典 |
| 磐河戦 | 武小生 | 『演義』第7回。趙雲が袁紹を見限って、公孫瓚を救援する。 | [431] [432] |
| 借趙雲 | 〃 | 第11回。別名《一将難求》。援軍として趙雲を借りることに張飛が不満を漏らす。 | [433] [434] |
| 長坂坡 | 武生 | 第41回。別名《単騎救主》。単騎で阿斗を救う、趙雲の最も有名な演目。 | [435] [436] |
| 甘露寺 | 〃 | 第54-55回。別名《龍鳳呈祥》。劉備の結婚に趙雲が護衛で従う。 | [437] [438] |
| 截江奪斗 | 〃 | 第61回。別名《攔江奪斗》。孫尚香から阿斗を奪還する趙雲の代表演目のひとつ。 | [439] [440] |
| 子龍護忠 | 〃 | 第71回。別名《陽平関》。漢中で黄忠を救援する。この演目から髭をつける。 | [441] [442] |
| 鳳鳴関 | 武老生 | 第92-94回。別名《斬五将》。韓徳の息子達と戦う。老将なので白髭をつける。 | [443] [444] |
| 収趙雲・金鎖陣・黄鶴楼・取桂陽・奪成都・白帝城・天水関(収姜維)・失空斬[注 69]ほか[445]。 ※《鳳鳴関》など、北伐に関する演目以外の役柄を「武小生」と記す資料もある[445]。 |
|||
『演義』にはない京劇独自の演目《借趙雲》は、陶謙の救援のために劉備が公孫瓚から援軍として趙雲を借りて強敵の典韋に見事勝利すると、当初は優男の趙雲がやってきたことに不満を抱えていた張飛も、すっかり心服するという内容[注 70]。《甘露寺》《回荊州》(結婚後、劉備らが荊州へ帰る演目)を総称した演目《龍鳳呈祥》に《取桂陽》(趙範と樊氏の話)を取り組み、整理改定された《龍鳳呈祥》が2001年に日本で公演され、この公演でのみ趙雲と樊氏(今作での名は樊玉鳳)が結ばれる(→樊氏#京劇)[447]。
《長坂坡》は京劇初期の36本の連台軸子戯の一つで(後述)[448]、趙雲の代表的演目であると同時に『演義』の演目の中でも高い人気を誇る[449][450]。武劇(立ち回り中心の劇)[451]に分類されるが、糜夫人とのやり取りでは歌で観客の心を揺さぶる心理表現が必要なため、文武の高い技芸が要求される[452]。そのため《長坂坡》は武生の試金石であり、「長坂坡を観ればその役者の技量が判る」のだという[450]。《長坂坡》には高度な技が多用されており、厲慧良ら名優によって数々の難度の高い技が編み出され、観客を大いに魅了した[453]。関羽が曹操軍と対峙する演目《漢津口》[454]とセットで上演されることがあり[449]、知名度の高い武生の役者が演じる場合は、前半の《長坂坡》では趙雲役、後半の《漢津口》では関羽役、一人二役で演じられる[注 71][454]。
当時の反響
清代中頃、外国勢力の侵攻によって国家の危機に陥っていたにもかかわらず、劇場では人々が昆劇などを楽しんでいたことに強い不満を感じた、京劇の祖『三慶班』の程長庚は『演義』を改編し、忠君愛国の思想を盛んに訴えた36本の演目を連日上演する大作(連台軸子戯)を創り上げると、都中で大評判となって「人々がこぞって三国志を見る」という文化現象が生まれた[296]。趙雲は仁義礼智信を完備した美将として人々から歓迎され[457]、清朝末に宮廷内で109回演じられた『三国戯』のうち《長坂坡》は13回にも及び、庶民の間でも劇団『三慶班』が毎年年末の公演では《長坂坡》でその年を締めくくるほどの人気を見せた[409]。
京劇に熱心だった西太后[458]の寵愛を受け、親子二代で趙雲を演じた武生の宗師・楊小楼[459]は特に有名な俳優で[460]、《長坂坡》での華麗な立ち回り姿から、「楊小楼の趙雲を見るたびに目が釘付けになり、まるで目の前に順平侯(趙雲)が現れ、魏の武将たちとの激戦を直接見ているかのようだった」と当時の反響が残されているように[461]、〈活趙雲〉〈活子龍〉(生きている趙雲)と称賛された[注 73][463]。西太后が楊小楼の《長坂坡》の趙雲を観て涙したことや[464]、宮廷で《黄鶴楼》(荊州を返さない劉備を黄鶴楼に招いて、兵で脅そうとする周瑜の計画を趙雲が阻止する)が上演された時には、彼女を喜ばせるために光緒帝自らが趙雲を演じた、といったエピソードが残されている[465]。
京劇が民衆に与えた影響は大きく、1950年代の大躍進政策時には「男は趙雲に、爺さまは黄忠に学べ」のスローガンが流行したのも京劇の影響だという[注 74]。京劇が民衆に広く支持され影響力を持った背景には、当時中国では識字率が低く、文字を読めない人々にとって、演劇が娯楽であると同時に歴史を学べる貴重な場所でもあったことが挙げられ、その絶大な影響力ゆえに満州国での統治や毛沢東ら政治家が民心を掌握するため、政治利用することもたびたびあったという[467]。このように中国の人々の『三国志』の知識は『正史』でも『演義』でもなく、それらから発展した京劇などの〈演劇〉の内容に依拠している[207]。趙雲のイメージ像への影響については次節参照。
演義の受容史
今日のさまざまな『演義』を基にした芸能・小説・映像作品・コンピュータゲームなどの諸作品において、特に中国では「白馬(白龍/白龍駒)に跨り銀槍を振るう、白袍を纏った美将」として描かれることが定着した。以下、後世における趙雲像の受容と変遷について概説する。
中国での受容
趙雲役の少年(2024年)[注 76]
今日における趙雲の若武者としてのイメージについて、一部の日本人学者は「中国では趙雲は本来老将のイメージが強かったが、日本のコンピュータゲーム等の影響が逆輸入され、若武者イメージが定着した」と分析している[472]。しかし、中国の研究者が「老将は黄忠のイメージである」と指摘するように[473]、中国の諸芸能においては、前節の清代の京劇のみならず、各地の地方劇(3)や民族パレード(4)において、伝統的に若武者として演じられてきた[471][474]。清代の頤和園長廊の壁画(1)などの芸術作品(2)においても、その姿は一貫して白馬にまたがる若武者として描かれている[475]。
一方で例外もあり、四川省の川劇では、趙雲が物語の早い段階(南蛮征討)から老将となっており、魏延が何度も趙雲を「老将軍」と呼び、趙雲自身も老将であることを強調する台詞や歌を唄う演出がなされる。この演出は研究者から「過剰」と指摘されるほど強烈なものであったため[476]、かつての四川地方では趙雲に老将のイメージが根付いていたといい、成都武侯祠の趙雲の塑像が老人の姿で制作されたのは、この川劇の影響が一因であると考えられている(→成都武侯祠#文臣武将廊)[477]。このように特定の地域を除けば、多くの中国人にとって趙雲は〈若武者〉として認識されていたが[477]、それには以下の過程を踏まえて形成されたと考えられている。
少年将軍
正史『三国志』および『趙雲別伝』には、趙雲の没年(229年)や「身長八尺,姿顔雄偉」(姿かたちが立派である)という容貌の記述はあるが[473]、生年の記録はない。学術的には191年時点で20歳前後とする考察もあるが、正確な年齢は不詳である(→#背景・人柄)。
一方、『演義』第7回での初登場時、趙雲は秀でた容貌と才能を持つ「少年将軍」として描写される(→#演義の設定)[478]。容貌については『別伝』の記述を継承しつつ[注 78][480]、名前が明かされるまでに計4回も「少年」と呼称されている。明・清時代の『演義』の挿絵はこの記述に基づき「髭のない若武者」として描いている[注 79][482]。
趙雲の代表的な戦いである第41回「長坂坡の戦い」での「槍を構え馬を駆け、無人の境を行くがごとき」奮戦や、第71回「定軍山の戦い」での「その槍の動きは梨の花が舞い、瑞雪が散るかのよう」と形容される華麗な槍さばきは[380]、物語後半で趙雲が老将軍として活躍するとはいえ、読者にはこれら最盛期の躍動感あふれる描写が印象に残り[483]、「容貌秀でた少年将軍」というイメージを決定づける素地となったといえる[480]。
白馬銀槍
白馬に乗る趙雲(右)
『演義』のテキスト上には、趙雲が騎乗する馬の毛色についての具体的な記述はない[484]。しかし、後世のイメージにおいては白馬に跨る姿が定着している。 これについて林盈翔は、作中の描写に加え、『演義』の諸版本における挿絵の影響を指摘している。挿絵において趙雲は常に白馬に乗り、対する敵方は黒馬で描かれることで、視覚的な識別が容易にされていた(図参照)[485]。また、第41回(長坂坡の戦い)の賛詩にある「血は征袍(旅装・軍服)を染めて鎧を紅く透かす」[486]という一節は、白い衣装や馬に返り血が映える様子を想起させ、趙雲に〈白馬〉のイメージを強く付与する要因となった[487]。さらに、史実で趙雲が最初に仕えた公孫瓚は、白馬の騎兵のみで構成された精鋭部隊〈白馬義従〉を率いたことで知られ、『演義』においても「白馬将軍」と号されている[488]。趙雲自身も史実においてこの〈白馬義従〉の一員であった可能性が高く、こうした史実背景が、創作における〈白馬に跨る将軍〉というイメージを補強・定着させたものと考えられている[489]。
白袍小将
京劇などの伝統演劇においては、趙雲の〈若武者〉としてのイメージがさらに洗練された。白皙(色白)で髭がなく、若く美しい〈白袍小将:白い装束の若き将軍〉としてのキャラクター性が確立されたことで、〈白〉のイメージは決定的なものとなった[490]。これは、紅顔の関羽や黒顔の張飛といった他の武将との対比を際立たせ、個性を明確化することにも寄与している[491]。こうしたイメージは、京劇と同時期に成立したとされる八扇屏(2人組による掛け合い漫才のような形式で、歴史を扱った話芸。→相声)の一節《莽撞人》にも顕著に現れている。
これらの形容は『演義』の原典には見られないものであり、京劇における趙雲像の影響を受けて生まれた表現とされる[494]。また、趙雲=白のイメージは民間伝承にも散見され、四川省成都市に伝わる『子龍池』と呼ばれる伝承では「白袍姿の将軍が蒙古兵を蹴散らした」とあり、台湾での子龍信仰における信者の伝承においても、「日本兵を白袍姿の将軍が蹴散らした」と伝わっているように、いずれも〈白〉と趙雲が強く結びついていることが窺え、また、このイメージは趙雲の愛馬〈白龍/白龍駒〉にまつわる伝承が形成される素地ともなった(後節)[495]。こうした段階を踏まえて、〈白馬銀槍〉〈白袍小将〉〈白袍将軍〉といった現代に繋がる趙雲像が定着した[496]。
現代の派生作品
現代中国の大衆文化においても「白馬に跨り、白袍を纏い銀槍を振るう若武者」という描写は連綿と続いている。趙雲の愛馬として知られる〈白龍〉の名は1980年代前後の作品から確認されるようになる[495]。以下は、現代中国において影響を与えた代表的な作品である。
- 反三国志演義:(小説)
1924~30年にかけて周大荒が新聞『民徳報』にて連載した作品。略称『反三国志』。本作では白馬・銀槍を携えた美丈夫として、馬超と共に主人公の扱いを受けている[497]。本作オリジナルキャラクターである馬超の妹・馬雲騄と趙雲が結ばれる[498]という設定は、他の作品でも採用されている[499]。 - 評書三国演義:(講談)
北方講談大家・袁闊成(1929年 - 2015年)による評書(語って聞かせる話芸)作品。略称『袁三国』。1984年から中央人民広播電台でラジオ放送され、中国語教材にも採用されるなど国内外で絶大な支持を得た[500]。本作の趙雲は、張飛らから「四弟」と呼ばれる少年将軍であり、白袍と銀の鎧兜に身を包み、〈亮銀槍〉を持って白馬〈白龍駒〉を駆る姿で描かれている[注 80][503]。
- 長編平話三国:(小説)
南方講談大家・張国良(1929年 - 2013年)による説話(平話)作品。1983年刊行の作品。本作の趙雲は桃園の四人目の兄弟〈四弟〉として位置づけられ、白袍姿に銀槍〈鼠白爛銀槍〉、白馬〈鶴頂白龍駒〉を用いる[504]。外見は「小柄な書生」[505]と称されるほどの童顔の美将として描かれるが[506]、年齢設定は「長坂坡の戦い」時点で49歳(劉備と同年)とされている。これは『演義』後半で趙雲が突如として老将扱いされる矛盾を解消するための作者独自の解釈である[499]。また、張任・張繡と同門の兄弟弟子[507]という設定も本作が初出であり[508]、この設定は現代の映像作品[509][510]、ゲーム[511]においても頻繁に引用されている。
祠廟と信仰
かつての黎州にあたり、最古の趙雲祠がこの地に存在したとされる(明代に消失)[221]。
明・清時代、「その忠義は関羽にも劣らない」と評価され、河北省の正定(故郷)、湖南省の桂陽(荊州)、四川省(益州)といった、趙雲が生前に縁のあった地でそれぞれ趙雲廟が建てられた[512]。最盛期には福建省や広東省にも信仰が及んでいたとみられる[513]。
しかし、大陸の趙雲廟の大半は戦乱や文化大革命によって破壊、あるいは自然消滅した。正定の趙雲廟(1)は1997年に再建されたが、現在は宗教施設ではなく、記念館になっている[514]。
清代に大陸から開拓民が渡った台湾では、現在も〈趙聖輔天帝君〉(趙聖帝君)として信仰が続いており(2)、台湾全土には主神・配祀として祀る廟は37宇におよぶ。台湾の広範な民間信仰体系の中では比較的小規模に属するものの、地域の中心的大廟も多く、三国時代の人物を祀る神としては、関羽に次ぐ存在にまでなっているという[515]。信者はみな敬虔で、長坂の戦いにおける趙雲の忠勇を最も重要な功績とし、公正・無私・清廉といった人格を道徳規範として生活の中で実践している[516]。また、マレーシア華人の間でもその人格を慕われ、現在、子龍廟が6宇ほど存在している[517]。
文化的価値
一方で、台湾の各子龍廟内の展示は「曹操軍の将軍50人を討ち取りながら阿斗を救った」といった、史実から誇張された『演義』の事績が描かれているように、趙雲の人物像は史書の記述(歴史的記憶)から『演義』などの創作物を基に構築された、文化的記憶への変遷を経て形成されたことが指摘されている[518]。これは趙雲のみならず、関羽など他の三国時代の人物や事績においても同様の現象が見られる[519]。一例として、『演義』で諸葛亮が乱石を配置し、風を起こして敵を惑わせた〈八陣図〉が、方北辰が現地調査したところ、多くの人々に真実だと信じられているといい[25]、萬建中によれば、地元の住民にとっては伝承こそが主な歴史であり、その真偽を問うことは専門家である学者たちの領域なのだという[520][521]。
『演義』の影響は民間のみならず学者間にもみられ、袁枚『隨園詩話』によると、『趙雲別伝』を「子孫が賛美目的で書いたもの」見做し、激しく批判した清の考証学者・何焯は、自らの書簡で『演義』と史実を混同して言葉〈生瑜生亮:天はなぜ周瑜を生みながら、諸葛亮をも生んだのか〉を用いたため、毛奇齢から「根拠がない」と指弾され、終生恥じ入ったという逸話があり[522]、狩野直禎は自著の中で、『演義』の影響を完全に排して史実を記述することの困難さを語っている[523]。
一方で葉威伸は、〈文化的記憶〉への変遷が単なる個人の誤解や恣意的なものではないと指摘するように[521]、鄺龑子は、「羅貫中が『演義』を編次、毛宗崗が改評したのは、普遍的に認められた歴史を持つものであり、小説中の趙雲は戦功・地位・性格において、正史よりも際立ってはいるが、細部の虚構性を強調するよりも、正史の『本伝』『別伝』の歴史的記憶が文学的再創造を経て、〈文化的記憶〉として凝縮され、文化的価値の規範が体現されたという本質を認識すべき」だと評している[391]。その〈規範〉としてのイメージは現代にも受け継がれ、1950年代の大躍進政策時には、趙雲をロールモデルとしたスローガンが流行し(→京劇#当時の反響)、河北省の全民国家安全教育日のイメージキャラクターになるなど、社会的アイコンとなっている[524]。
アジアでの受容史
趙雲と阿斗(日本:1838年頃)
日本での受容
日本においても『演義』は古くから親しまれ、江戸時代には『通俗三国志』(『李卓吾先生批評三国志』の翻訳本)が広く読まれていた[525]。当時の挿絵における趙雲は、関羽や張飛らと同様に〈髭を蓄えた豪傑〉の一人として描かれ[526]、また、同書では『演義』原典にある「少年」という記述が削除されており[527]、浮世絵などで描かれる趙雲像も概ねこの〈髭の豪傑〉というイメージを踏襲していた[528]。のちの吉川英治の小説『三国志 (吉川英治)』においても、「星眸濶面の威容堂堂たる偉丈夫」として描かれている[注 81][530]。
日本における趙雲像が一変したのは、1982~84年にかけて放送されたNHKの『人形劇 三国志』が契機とされる[531]。同作において趙雲は髭のない端正な若武者として造形された[528]。
翌1985年、光栄(現:コーエーテクモゲームス)から歴史シミュレーションゲーム『三國志シリーズ』が発売されると、同シリーズでは〈白馬銀槍・白袍の若武者〉という中国伝統の趙雲像をベースにしつつ、現代的な美的価値観で洗練されたビジュアルが提示された。このデザインは日本国内のみならず、中華文化圏でも広く受け入れられることとなった[532][531]。さらに、同社のアクションゲーム『真・三國無双シリーズ』などの日本のコンピュータゲームにおいて、若武者としてのイメージがさらに象徴化・洗練されたことで、日中両国における今日の趙雲形象に決定的な影響を与えたと指摘されている[533]。
韓国での受容
韓国でも朝鮮時代から『演義』は広く普及していた。中でも趙雲の人気は際立って高く、ことわざや俳句に彼をモチーフにしたものが散見され、彼を主人公に据えた独自の物語『山陽大戦』(別名:趙子龍実記)も創作されている。これらは『演義』を基底にしつつ、中国の原典にはない朝鮮独自の展開を含む作品となっている[534]。また、当時の女性知識人層の間では、趙雲が趙範から提示された樊氏との縁談を潔く断ったエピソードから、その誠実な人柄が特に高く評価され、好感を持たれていたという[535]。
民間伝承と古跡
陳寿の編纂した正史『三国志』の「趙雲伝」は、わずか300字程度の極めて簡素な記述に留まっている。後に裴松之が注釈として引用した『趙雲別伝』によって事績が補完されたものの、依然としてその実像が完全に描き出されたとは言い難かった。こうした歴史記述の〈空白〉を埋めるように、民衆は『演義』や演劇、語り物芸、さらには各地に残る遺跡から想像力を膨らませ、彼の妻や愛馬、愛用の武器、装飾品にまつわる多種多様な伝承が創出されていった[513]。
民間伝承における趙雲は、史伝や『演義』に描かれるような知的な人物に留まらず、時には妖怪を退治する義士として、あるいは身近な食品の発明者として多才に描かれる。また、妻に自らの功績を誇ったり、激昂したり、指の傷を隠すために指輪をはめる、といった人間味に溢れるエピソードも少なくない。これらは史実とは異なる創作とはいえ、民衆が自らの理想や願いを託すことで〈趙雲〉という一人の人間の生涯をより豊かに、そして完璧なものへと再構築・補完した。葉威伸は、こうした伝承を民衆による〈口述歴史〉と捉えている[536]。
台湾での信仰ほか、民間伝承の流伝を通じて〈趙雲〉は現在も絶えず進化を続けており、その文化的価値を高め続けている[537]。
人物・愛馬
- 貂蝉:『演義』に登場する架空の女性。民間伝承『貂蝉改嫁』という物語で、「呂布の死後、貂蝉は郭嘉の助けで曹操から逃亡中に偶然偵察に来ていた趙雲に救われ、彼に惹かれることになる。郭嘉は二人の縁を結ぼうとするが、趙雲が劉備軍であるため難航。郭嘉の死後、張遼がその意を継ぎ、長坂坡の戦いの混乱に乗じて趙雲に縁談を持ちかける。貂蝉を気にかけていた趙雲はこれを受け入れ、張遼が曹操に献策し、曹操軍の攻撃が止んだことで趙雲は無事脱出。その後、張遼と郭嘉の妻が貂蝉を趙雲のもとへ送り届け、二人は結婚。貂蝉は郭嘉の妹「郭蕙」と偽り、正体を隠して幸せに暮らした」という顛末になっている[538]。
- 孫軟児:民間伝承に登場する趙雲の妻。戦場で一度も怪我をしたことがない趙雲を戯れで針を刺したところ、趙雲は血が止まらず死んでしまった。
- 関銀屏:関羽の娘がモデルの人物。趙雲に師事して武術を習う。
- 李翠蓮:現在では散逸した河北梆子の演目《青鋼剣》では、趙雲の妻として登場し、長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚し、趙全定という息子を授かる[注 82]。
- 白龍:(はくりゅう)
もしくは白龍駒という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。この馬は昼は千里を、夜は八百里を走ることができ、人の心も理解したので趙雲と意思疎通ができ、馬上でどんな技を使おうとも、すぐに理解して手足のように動き、趙雲はこの馬を特別に可愛がったという[541]。『平話』『演義』では白馬に乗る趙雲像はまだ確立されていなかったが[495]、清代の京劇における趙雲の〈白〉のイメージが民間伝承や創作作品に影響を与え、趙雲の愛馬=白馬となって中国各地に白馬の伝承が生まれ、1980年代前後に講談大家の袁闊成・張国良がそれぞれ作品内で〈白龍(駒)〉と名付け、これらが広まったと考えられている[注 83][495]。 - 子龍池:(洗馬池、子龍洗馬池)
四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった、どんな傷も癒したという池[543]。「南宋時代、蒙古の成都襲撃を受けると、白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れ、これを撃退した。成都の人々は彼を趙雲だと考え、その将軍が馬を洗っていた〈子龍池〉という池の横に楼閣と塔を建て、趙雲の塑像を祀った」という民間伝承が存在する[544]。1950年頃には池は埋め立てられ、跡地に建てられた学校には〈漢順平侯洗馬池碑〉が立てられた[545]。伝承によれば、現在の〈和平街〉という通りの旧称〈子龍塘街〉は子龍池に由来するという[541]。
長槍・刀剣
趙雲と阿斗の彫刻
(ウォルターズ美術館所蔵)
- 涯角槍:(がいかくそう)
『平話』に登場する。「海角天涯に敵う者なし」という意味で名付けられており、張飛の槍に次ぐ名槍とされる[546]。同説話ではこの槍で張飛と互角に一騎討ちをしている[547]。『演義』では採用されていない。元雑劇では〈牙角槍〉または〈牙角長槍〉、〈鴉脚長槍〉と記され、牙角は陳寿が趙雲を評した「強摯壮猛、併作爪牙」が由来と考えられ、鴉脚は槍の形状を指しており[296]、涯角・牙角・鴉脚は全て発音が似ているため、涯角槍という呼称は当時の民間の口承で広まり、説話者や雑劇作家それぞれが表記や解釈を加えた可能性が高いと考えられている[548]。 - 亮銀槍:(りょうぎんそう)
涯角槍以外に近代の民間伝承で一般的になった槍の名称。京劇の銀槍の影響を受けて創作されたと考えられ、民間伝承と芸術分野で相互に影響を与えあい、趙雲の標準武器として銀槍のイメージが定着した[549]。正定県・臨城県[550]・その他民間伝承を扱った書籍にさまざまな物語が語られる[551][552]。
正定版では、2つの物語[553][554]が存在し、「趙雲が両親に別れを告げ、太行山で武術の師匠(老人)を数日掛けて見つけだすが、老人はいびきをかいて眠っており、趙雲は辛抱強く跪いて待ち続ける。目覚めた老人は誠意に感動して弟子入りを認め、趙雲は3年武芸を学ぶ。師匠は趙雲に銀槍(亮銀槍)を与え、人々を救うために旅立たせる」。二種類の武術を習得し、ひとつは〈亮銀槍〉の槍術、ひとつは〈破堅拳〉という拳法で、「漢中の戦いで曹軍を散々に打ちのめした」と書かれる。師匠が得物に大刀を選ばせなかった理由として「赤ら顔(関羽)がすでに習得しているためだ」と説明し、関羽と兄弟弟子であることが示唆される[555]。
- 青釭剣:(宝剣)
『演義』に登場。元は曹操が所有する対の宝剣(倚天剣と青釭剣)の一本。夏侯恩が曹操から預かっていたのを趙雲が奪い取った[556]。長坂坡や孫夫人による連れ去りなど、阿斗の危機の際にのみ使用される。
かつて当陽には趙雲の剣にまつわる〈当陽草〉と呼ばれた植物の伝承が存在し、清代(康熙)の『当陽県志』には「趙雲が長坂坡の戦いで曹洪の剣を手に入れ、それは鉄を切ること泥の如く、曹兵数百人を斬って血が草に飛び散り、今も草には血の点が残っている。里謡(民謡)に曰く、〈当陽草、点々班班として血を掃う如し。問う、明公は何の故ぞ?子龍の一戦、旌旗倒る〉」とあり[557]、当時地元で語り継がれ広く流布していた証拠として記される[558]。
この植物は明代の嘉靖本『三国志通俗演義』において、司馬温公(司馬光)の作とする『長坂詞』の引用にも見られるが[559][注 84]、毛宗崗本『三国志演義』では削除されている。これは清代以降に里謡が次第に消滅したためとみられ、現在、どの植物を〈当陽草〉と呼んだのかは不明[561]。そのほか、趙雲が越王の雄剣を得る別の伝説も存在する[562]。
装飾品
- 戒指:(指輪)
趙雲が指輪を身につける文化を広めたとの伝承がある。益州・荊州・正定で似通ったパターンがあり、益州版では「趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、敵将(曹洪または張郃)から薬指に深い傷を受けた。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた」という[注 85]。荊州版は2種類あり、どちらも「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、指に金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」とされ、相違点は、塑像の由来が「後主・劉禅は趙雲に感謝し、彼の像を作った」とするものと[565]、「荊州の関帝廟にある趙雲の像」に基づいたとする[566]。正定版は、「長坂坡で徐庶に助けられた趙雲は、張郃・曹洪から受けた指の傷を指輪で隠した。その後益州に入った折、趙雲の金の指輪を見た現地の人々も指輪をつけるようになり、今日でも指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で伝わる」とある[567]。
古跡関連
古跡や地名、食品類の伝承など。
| 古跡・地名にまつわる伝承▼(表) | ||
|---|---|---|
| 名称 | 場所 | 説明 |
傾井村 |
河北省 霊寿県 |
正定県のある石家荘市に隣接する霊寿県にある村。 村名は、公孫瓚配下時代の趙雲が袁紹配下の将・周昂との戦いに敗れた際、 立ち寄って飲んだ傾いた井戸の伝承に由来する[568]。 |
| 長坂坡公園 | 当陽市 | 長坂坡古戦場に整備され、趙雲を顕彰するために造られた公園。 近くには〈子龍路〉〈子龍村〉など、趙雲にちなんだ地名や村名がある[569]。 〈子龍畈〉と呼ばれる丘の近くには、糜夫人が阿斗を抱えて避難したという 〈太子橋〉や、糜夫人が身投げした井戸〈娘娘井〉など、『演義』にまつわる遺跡 が多数存在し、地元では〈長坂坡花飯〉という炒飯が名物[注 86][570]。 |
子龍灘 |
同省 咸寧市 赤壁市 |
赤壁近くの砂州の名。 民間伝承〈子龍射帆〉によると、『演義』で東南の風を起こした諸葛亮を恐れた 周瑜が兵を差し向けた際、追跡から逃れるために趙雲が呉船の帆を止める縄 を射抜くと、落ちた帆が大きな砂州へと変わり、追手の進路を遮ったことから その場所は〈子龍灘〉と呼ばれるようになったという[571]。 |
| 子龍脱袍 | 湖南省 南陽市 |
湖南省の〈子龍脱袍〉という鰻を使った伝統的郷土料理。 名の由来のひとつは趙雲にまつわる[注 88]。 |
| 蒙泉(八角井) | 同省 長沙市 寧郷市 |
趙雲にまつわる泉。2006年省級文物保護単位指定。 伝承では、桂陽攻略時に趙雲が兵を芙蓉峰に駐屯させたが、真夏の水不足で 兵たちの士気が低下。危急の際に開けるようにと諸葛亮から渡された錦囊に 入っていた八卦図を長槍で突き刺すと、そこから勢いよく水が噴き出した。 喜んだ兵たちはそこに井戸を掘り、〈萬軍泉〉と名付け、のち〈蒙泉〉に改名 したという[574][575]。この泉を使ったブランド酒〈趙子龍〉がある。 |
肉丸子 |
桂陽県 | 趙雲の桂陽攻略にまつわる伝承が数多く存在している。 桂陽攻略を祝って桂陽の人々が趙雲に提供したという〈肉丸子〉[注 89]、 〈子龍郡壇子肉〉(桂陽壇子肉[577])などがある[注 90][578]。 営盤嶺地区には趙雲が駐屯したという伝承があり、趙雲が保存食にしていた という乾燥タケノコの伝承に基づき、この地域でのみ、薄切りの乾燥タケノコ のことを〈子龍片〉と呼んでいるという[注 91][580]。 |
石経寺 |
四川省 成都市 |
竜泉駅区山泉鎮にある中国仏教とチベット仏教が融合した、四川省西部五大 仏教密林のひとつ。後漢末期に建てられ、 当初は官僚の私邸であったが、蜀 漢時代に趙雲が封地として受け継ぎ、家廟にして〈霊音寺〉と名付けたと伝わ る[581]。寺の大雄宝殿左側には、道光四年に建てられた石碑があり、「霊音 とは、漢の将軍・趙侯の香火である」と刻まれている[582]。 |
| 姜太公釣魚台 | 陝西省 宝鶏市 |
五丈原西に位置。太公望に因んだ地名。 崖に赤い文字で「趙雲、鄧芝屯兵處」と刻まれており、この地に趙雲と鄧芝が 第一次北伐で駐屯したとされている[583]。 |
趙雲主題の作品
映画
- 『長坂坡』 中国、1905年。
主演:譚鑫培。
中国最古の映画のひとつ。京劇《長坂坡》を演じたもの[584]。 - 『三国志 (2008年の映画)』 (原題:三国志之見龍卸甲)中国・韓国、2008年。
主演:劉徳華(アンディ・ラウ)、声:東地宏樹。 - 『真・三国志 蜀への道』 (原題:趙子龍)中国、2020年。
主演:賀軍翔(マイク・ハー)、声:小松史法。 - 『三国志 趙雲 無双伝』 (原題:趙雲伝之龍鳴長坂坡)中国、2020年。
主演:梅洋(メイ・ヤン)、声:小松史法。 - (日本未公開)『趙雲伝之莫問少年狂』 中国、2021年。
主演:王正宣。
張繡とともに槍の名手・童淵のもとで学び、黄巾賊と戦う[509]。 - (日本未公開)『槍神趙子龍』 中国、2022年。
主演:張子文。
長坂坡の戦いを元にした作品。同門の兄・張繡と戦いを繰り広げる[510]。 - (WEB配信)『三国志 武神・趙雲伝』 (原題:武神趙子龍)中国、2023年[585]。
主演:杜宇航(デニス・トー)。 - (公開前)『戦神趙雲』 中国、2028年[586]。
主演:張子文。
アニメ(映画)
テレビドラマ
小説
- 王京瑞『趙子龍伝記』 中国民間文芸出版社、1990年。ISBN 9787504003010。
- 張蘭亭『趙子龍伝』 華文出版社、1998年。 ISBN 9787507506754。
- 彭一峰『趙子龍的奮斗』 広西師范大学出版社、2008年。 ISBN 9787563375707。
- 大場惑『三国志武将列伝』 表紙・本文イラスト:小島文美、 光栄、全四巻。
「放浪の子龍♦趙雲」1992年。 ISBN 4906300731。
「天翔の騎士♦趙雲」1993年。 ISBN 4877190309。
「江東の策謀♦趙雲」1994年。 ISBN 4877191666。
「覇望の入蜀♦趙雲」1996年。 ISBN 4877193332。
-
文庫版『三国志武将列伝 趙雲伝』(歴史ポケットシリーズ)、全四巻。
「放浪の子龍(1)」1998年。 ISBN 487719620X。
「天翔の騎士(2)」1998年。 ISBN 4877196455。
「江東の策謀(3)」1998年。 ISBN 4877196463。
「覇望の入蜀(4)」1998年。 ISBN 4877196471。
- 加野厚志『趙雲子竜 中原を駆けぬけた三国志最強の戦士』 幻冬舎文庫、2001年。 ISBN 9784344400818。
- 塚本靑史『趙雲伝』 河出書房新社、2022年。 ISBN 9784309030258。
- (未完)奈々愁仁子『精恋三国志I』 アスキー・メディアワークス、電撃文庫、2010年。 ISBN 4048684582。
- (短編)伴野朗「火龍の槍(趙雲編)」『三国志英傑列伝』 実業之日本社、1997年。 ISBN 4408590924。
- (短編)万城目学「趙雲西航」『悟浄出立』 新潮社〈新潮文庫〉、2016年。 ISBN 9784101206615。
- (短編)宮城谷昌光「趙雲」『三国志名臣列伝 蜀篇』 文藝春秋〈文藝春秋BOOKS〉、2023年。 ISBN 9784163916613。
講談
- 袁闊成『長坂雄風』 全27回、中央人民広播電台、1988年(再配信:蜻蜓FM、2014年)。
- (小説版)袁闊成・李程『趙子龍』 百花文芸出版社、1988年。 ISBN 9787530600740。
- 袁闊成『常山趙子龍』 全31回、(動画配信:CCTV)2020年[588]。※『長坂雄風』を整理改訂。
舞台
朗読CD
- 『三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ "夷陵に燃ゆ" 趙雲篇』
「三国志TK朗読CD」製作委員会、エスピーオー、2012年。
【~眠れぬ貴女に捧ぐ~特装版】CD+DVD
(インタビュー映像、ドラマ「三国志Three Kingdoms」ダイジェスト映像)
【通常版】CDのみ。主演:KENN。
漫画
- 陳某『火鳳燎原』 2001年 - 連載中。
趙雲(燎原火)と司馬懿が主人公。 - 黄十浪『雲漢遥かに-趙雲伝』 メディアファクトリー、全三巻。
①巻、2008年。 ISBN 9784840122542。
②巻、2009年。 ISBN 9784840125277。
③巻、2009年。 ISBN 9784840129534。 - 緒里たばさ 『王者の遊戯』 2012年 - 2015年。
軍師と武将のバディもの。主人公・郭嘉の相棒として活躍する。 - (短編)山口陽史「趙雲子龍という男(前・後編)」『三国志武将列伝2~蜀の章~』
秋田書店、2019年。 ISBN 9784253253123。 - (読切)『コミック三国志マガジン』
(Vol.1)原作:夏秋のぞみ、作画:SHINYA『子龍奮迅』
(Vol.3)志水アキ『巌のごとく』 (趙雲&黄忠)
(Vol.8)立花未来雄&ダイナミックプロ『忠義問答』 (趙雲&許褚)
(Vol.12)こしじまかずとも『子竜と飛燕』 (趙雲&張燕)
ゲーム
- 『真・三國無双 英傑伝』 コーエーテクモゲームス、2016年。声:小野坂昌也。
- 『Fate/Samurai Remnant』 コーエーテクモゲームス、2023年。
DLC3:「断章・白龍紅鬼演義」 声:阿座上洋平。 - 『三国趙雲伝』 中国、2001年。[590]。
- 『Three Kingdoms Zhao Yun』 (原題・趙雲伝:雲漢騰龍)中国、2024年[591]。
『三国趙雲伝』のリメイク作品[592]。
脚注
注釈
- ^ a b 字(あざな)の「子」は男子の尊称、「龍」は『易経』の『乾』「雲は龍に従い、風は虎に従う」[3]が由来で、「相似た性質を持つ者同士は互いに求め合う。立派な君主のもとには優れた臣下が現れることのたとえ」という意[4][5]。日本では「子竜」表記もある[6]。
- ^ 蜀は他の2国より巻数・記述量ともに最も少ないが、著者陳寿によると蜀には史官が設けられていなかったという[23]。また、西晋を正統とするためには、前身の魏の正統性が求められたため、西晋・魏について不利益な内容などは書けないことが多かったという事情があり[24]、方北辰によると、陳寿が魏の司馬懿へ配慮し、司馬懿と交戦した諸葛亮の軍略を低く評価したことにもそれが現れているという[25]。
- ^ 清代・李光地は「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのはなぜなのだろうか?」と述べている[28]。
- ^ 清の考証学者・何焯は、『別伝』の作者は趙雲の子孫が書いたものとみなし、「子孫による美辞に溢れ、他の人物の手紙などから模倣している」と激しく批判している[29][30]。
- ^ 裴松之が正史を補完するために引用した文献の一つで、正史本伝と区別するために「別伝」と称される[22]。本伝が簡素な記述に留まるのに対し[注 2]、『趙雲別伝』は作者や成立時期が不明のため国家が編纂した正史と比べた場合、その信憑性は相対的に低く評価される[26]。裴松之は『趙雲別伝』については他の別伝や引用文献のように批判を行っていないため、正史を補う史料として認定していたといえるが[27]、清代になると信憑性について疑問視[注 3]や批判[注 4]する研究者が現れる。現代では『別伝』を含めた別伝全般について、肯定[31]や懐疑的意見[32]に分かれるが、研究者は通常、正史を語る際に『別伝』を採用している[33]。
- ^ 当時、義勇兵は〈義従〉と呼ばれ、「道義によって従う人」という意[21]。
- ^ 清の歴史学者・王鳴盛の『十七史商榷』[36]など。
- ^ a b c 孫堅や劉備など、州郡と協力して兵を率いた人物の年齢は、およそ18歳前後~20歳以上の者に多くみられることから、趙春陽と方北辰は趙雲の生年を170年前後、つまり191年の挙兵時は20歳前後の説を支持している[35]。175年~180年頃に生まれたとする説[注 7]もあるが、生年を180年と仮定すると191年時点で11、2歳となり、この年齢で義従兵を率いたとは考えづらく、趙春陽はどんなに遅い生年でも175年までとし、それ以降に生まれた可能性を否定している[37]。
- ^ 趙春陽は「公孫瓚とともに征討した」の一文と公孫瓚配下となった時期から、191年の勃海郡で起こった、黒山賊と合流しようとした青州・徐州の黄巾残党30万と公孫瓚の戦い[38]に趙雲も参加した可能性が高いとしている[39]。
- ^ a b 「主騎」の解釈について、沈伯俊や渡邉義浩を中心に「護衛隊長」「親衛隊長」[43]、「ボディーガード」[44]とするものが見られる。一方で、関尾史郎が『続漢書』「主烏桓騎」[45]を「烏桓の騎を主(つかさど)る」と訳すように[46]、趙春陽は『新唐書』巻一百三十五「哥舒翰伝」に見られる「使王思礼主騎,李承光主步」(王思礼に騎兵の指揮を執らせ、李承光に歩兵の指揮を執らせた)や、『資治通鑑』第六十巻の「為備主騎兵」(劉備の騎兵を指揮した)などの史書の記述を根拠に[39]、「騎兵隊長」だとする解釈もある[47] 。
- ^ 幽州北部の烏桓を中核とした精鋭騎兵隊〈幽州突騎〉は後漢光武帝の切り札で、公孫瓚も烏桓を含めた〈白馬義従〉を率いた[48]。方北辰は、趙雲が馬術に優れていたことから、常山の義従兵が〈白馬義従〉に編入されたと見なしている[49]。劉備の主騎(騎兵の隊長)となったときに趙雲が率いてきた騎兵は、『三国志』「先主伝」に記される「幽州烏丸雑胡騎」、すなわち烏桓を含む異民族の騎兵であり、「天下の名騎」と称されるほどの高戦闘力を誇る精鋭部隊であったという[50]。この騎兵団の加入は、当時歩兵のみだった黎明期の劉備軍の総合力を飛躍的に向上させ、徐州の陶謙を救援できるほどの力を得、のち徐州牧を譲られるに至っていることからも、趙雲は「劉備の事業に貢献した」としている[51]。
- ^ 趙春陽は、劉備が青洲で袁紹との戦いにおいて功績をあげ平原郡の相になり、身分で差別せず平原の人々に善政を敷いて慕われたことと[53][54]、公孫瓚の立ち振る舞いなどを比べ、趙雲が公孫瓚に失望していたのだろうと述べている[55]。
- ^ 通常、研究者の多くは『別伝』に記される「兄の服喪を理由に公孫瓚の元を辞した」を採用し、再会までの出来事(次の年表参照)に趙雲は関わっていないとするが、方北辰は劉備の主騎になって以降も、そのまま付き従ったとする[56]。
- ^ 清代の学者・何焯は、「正史の趙雲伝には「劉備が平原相であった時、趙雲はすでに劉備に従って騎兵を率いていた」と記されている。一方、『別伝』には「袁紹のもとに身を寄せ、趙雲は鄴で劉備に目通りした」とあり、これは建安5年(200年)以降の出来事であるため、本伝の記述と矛盾する」と指摘し、『別伝』の記述を虚構とする[59]。
- ^ 劉備が創設した官[74]。牙門は「将軍旗(牙旗)の立つ軍門」を意味する[75]。「牙門将」という官名もあるが、蜀漢の「牙門将」とは「牙門将軍」を指すと考えられている[76]。魏延のほか、趙雲の次子・趙広も牙門将(軍)に就いている[75]。
- ^ 将軍の指揮下で副官や小隊を率いる[83]。「かたわら」「副」の意味を持ち、将軍に昇進した場合に最初に就任することが多い[84]。
- ^ 中国には同姓不婚(同じ姓を持つものは先祖が同じという考えで、不妊や子孫の質への影響を考え、同姓同士の婚姻が禁じられていた)という考えが古くに存在していたため。趙春陽は、これは趙雲の建前であり、趙範が美人計を用いて自分を陥れようとしているのではないかと疑ったのだとする[85]。
- ^ 劉備が創設した官[88]。軍営に留まり、軍務を総括する[89]。周思源によれば、「衛戍(駐屯地)の司令官兼、公安局長のようなもので、本拠地(公安)の安定・管理と宮中(孫夫人)のことも任せられた重要な役職」だという[90]。
- ^ 劉備が創設した官[105]。「兵を統率する」[106]以外の詳細な職掌は不明で、歴代の就任者は趙雲と霍弋。翊軍将軍になった時期が正史(214年)と『華陽国志』(219年)で違いがあるが、宮川尚志は『華陽国志』の記述を採用している[107]。
- ^ 方北辰は、曹軍が撤退した理由として「2か月前、夏侯淵が敵に油断し討ち取られたが、曹操は過去に何度も彼に「勇に頼らず時には臆病になるべきだ」と忠告していた。今この状況はまさにその臆病になる時だったので曹操は撤退した」と述べている[113]。
- ^ 渡邉義浩は、漢が異民族から首都・洛陽を守るため、対騎兵兵器として強弩を開発し、「天下の精兵」と称された当時最強の強弩部隊〈冀州強弩〉が冀州に置かれていたこと、趙雲が冀州の出身かつ幽州の公孫瓚に仕えていたことから、冀州強弩と幽州突騎双方の戦法に通じていたとする[114]。また渡邉によれば、『三国志演義』で諸葛亮が空城計を用いるが、趙雲のこのエピソードをモデルにしているという[115]。
- ^ のちに兵法書『兵法三十六計』に記される『空城計』と呼ばれる心理戦とされ、歴史上初めて行い成功させたのは趙雲とされる[116]。郭沖『蜀記』は、諸葛亮が寡兵で司馬懿の大軍に空城計を用いたと記すが[117]、裴松之に否定されている[118]。そのほか、魏の文聘も使ったといわれる[117][119]。
- ^ a b 方北辰は、趙雲は呉征討時には前線ではなく江州督として後詰めに任じられたこと、劉備の家族の保護・劉備の留守時における大本営の鎮守、敵の軍糧の奪取といったように、武功は立たないが重要な特殊任務で起用されることが多かったことを挙げ、「関羽・張飛のように趙雲に才能がないからではなく、劉備がそのような機会を与えなかった」のが原因とし、さらに「上司の指示に忠実に従い、他の将軍と主役を争うようなことをしなかった」のも一因だったとしている[123]。
- ^ 方北辰は、劉備が関羽の援軍として重鎮を派遣しなかったことに疑問を呈し、「趙雲は当時任務を抱えておらず性質的にも適任者であったのに、不適任な糜芳を南郡太守に任命して大本営の守備を担わせたことが敗北につながった」と批評し、荊州失陥の原因として、劉備の人材登用における縁故主義と不手際、盲目的な楽観に加えて首席補佐である諸葛亮が助言や注意を促さなかったことにも一定の責任があるとしている[126]。
- ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べ[134]、南宋の胡三省は「趙雲の言葉は、何を優先させるかをわきまえていたと言えるだろう」と評するが[135]、一方、清の何焯は「国の政務は諸葛亮の担当であり、趙雲のような武臣が反駁議論するのを待つべきではない。これはおそらく趙雲の家伝が手柄を横取りしたのだ。諸葛亮でさえ劉備を止められず、さらに劉備は法正を信任していたのに、雑号将軍(重号将軍以外の将軍号の総称)ごときがその域に及ぶはずがない」と批判している[136]。
- ^ 禁軍の執掌(指揮、支配)と武官の人事選抜を司り、諸将を統率する[141]。建安12年(207年)に曹操が「護軍」を「中護軍」と改め、呉・蜀でも設けた[142]。
- ^ 四征将軍のひとつ[143]。方面軍司令官[144]。
- ^ 四鎮将軍のひとつ[143]。方面軍司令官[144]。就任時期不明。東に位置する呉との同盟関係により、蜀漢においては征東将軍の官職は設置せず、鎮東将軍のみが置かれていた[146]。
- ^ 周思源は「(殿として)自ら命を危険に晒し、他者に生還の機会を与えた」と評し、「恩賞の辞退も、私欲を一切抱かず公のために尽くしていたことがわかる。北伐では敗北したが、完璧な人物とは決して間違いを犯さない人のことではなく、その過ちの性質とそれにどう対処したかという態度が重要なのである」と評価する[90]。一方、清の何焯は「諸葛亮は賞罰が厳正であり、趙雲は(こののち)降格されたのだから、その下の者がどうしてみだりに恩賞を与えられることがあろうか?これもまた、『別伝』が真実でないことを証明するのに十分である」と批判している[157]。
- ^ 原文の「(箕谷)不戒之失」について、ちくま学芸文庫『正史三国志 蜀書』の「諸葛亮伝」では該当箇所を〈不謹慎〉と訳す[159]。
- ^ 『漢晋春秋』によると、諸葛亮は敗戦後、ある人物(無名)に、本隊が攻めた祁山と趙雲軍が戦った箕谷では、「敵よりも兵数が多かったのに撃破できなかった」と述べたという[160]。趙春陽は、『三国志』「趙雲伝」「諸葛亮伝」の「趙雲らの兵力は劣勢であった」の記述と、『漢晋春秋』の記述の矛盾について、「斜谷道は補給において輸送が困難な悪路で兵の消耗が激しく、趙雲らが斜谷道を通って渭河平原に出たとしても、平原での戦闘は補給が容易かつ良質な西北産の馬を擁する曹魏が圧倒的有利である上、蜀漢は体の小さな西南産の馬かつ優秀な騎兵にも欠いていたため、「兵数は敵より多かった」が「趙雲らの兵は弱かった」という状況になっていた」とする[161]。
- ^ 劉備が創設した官[163]。四鎮将軍の下に位置付けられるとするが[164]、清の胡三省は『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東から鎮軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べ[165]、宮川尚志も「鎮軍将軍は定まった管区のない雑号将軍」とする[166]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[167]。
- ^ 渡辺精一、趙春陽らは、趙雲は疑兵作戦を成功させたものの、北伐全体の失敗という大局から見て、重臣という立場から責任を問われ降格は免れなかったと論じる[168]。一方、周思源は趙雲と鄧芝の部隊が少人数で、曹魏の兵力が圧倒的に強大であったため、斜谷道から郿への出撃が困難となり、任務を果たせなかったとみて、降格の理由を任務の失敗にあると分析している[90]。
- ^ 趙作羹『季漢紀』には「夏4月、鎮軍将軍趙雲が亡くなった。当初、趙雲は降格されたが、賊を討伐する志を益々強くし、憂いと労苦が重なり、病に倒れた。皇帝(劉禅)はこれを聞き、朝廷を中止し悲しんだ」[170]と記すが、その根拠は不明[171]。
- ^ 『三国志』『三国志演義』の関連書籍などによっては、『後出師表』を真作とし、228年を没年として採用しているものもある[175]。
- ^ a b 趙雲への追諡が半年遅かったことについて、劉禅が姜維らから進言されてようやく動いたと解釈し、劉禅は恩知らずで、劉備親子は趙雲を冷遇したと非難するものがある[213]。易中天もこの解釈を支持し、さらに「史実に五虎将はない、四虎将だ」と発言したため、譚良嘯が「劉禅から趙雲に贈るよう姜維に詔勅を出したのだ」「演義を引き合いに語るのは間違っている」と、史料解釈の誤りを含め批判している[207]。
- ^ 渡邉義浩は『趙雲別伝』の「劉備と同じ床で眠った」、「趙雲の離反を疑う者を劉備が退け、彼を信じ抜いた」逸話を挙げ、二人の間に君臣関係を超えた「侠としての強いつながりがあった」と指摘している[188]。
- ^ 後漢末の貴族・豪族子弟が家族と国家を守る義務を負い、幼少期から騎射等の軍事訓練を積む慣習があったことに着目した説。『別伝』に見える趙雲の論理的な対話内容や、劉備の主騎に抜擢された事実から、こうした教育を受けた郡望の出身であったと推論している[192]。
- ^ 尺は時代によって長さが違うため、書籍によっては約190cmを採用している[51]。
- ^ 『西充趙氏宗譜』を根拠に、趙雲(趙統)の子孫と称する男性が中国の遺伝子検査を受けているが、「明代に共通祖先を持つ趙氏のグループ」と結果が公表されており、子孫とは言い難い[197]。
- ^ 『華陽国志』には、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後で、他の五虎将と並んで昇進したと記録され、『別伝』には皇帝になった劉備の呉征討の際に、江州督に命じられたとある(→#益州平定戦、#夷陵の戦い参照)。
- ^ 王前程によると、趙雲が田宅の分配に反対したことで諸将の反感を買ったことから冷遇されたとする論説[208]。
- ^ この説は、趙雲が呉への用兵に反対したことから、普段から呉との連携を唱えていた諸葛亮に共感して諸葛亮派に所属していたと見る説で、劉備が諸葛亮よりも法正を重用していたとみて、諸葛亮への遺言「もし劉禅が補佐するに値しなければ、君自ら国を取れ」が劉備による乱命であり、諸葛亮への不信感の表れであると解釈する。渡邉義浩[209]、易中天などがこの説を唱えている[210]。
- ^ 欒城の城内に建てられた『趙雲廟』は、関羽信仰を広めた山西商人の〈山西会館〉と隣接しており、趙雲廟の事業や資金援助に関わっていた可能性が指摘されている[220]。
- ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応しているという[229]。
- ^ 趙雲を称した「一是身胆(全身が肝っ玉)」は本来、劉備の言葉だが、元雑劇では曹操の台詞になっている。
- ^ 「老〇」は、信頼関係のある自分より年上の者に対する親しみを込めた尊称で、若者にも使用される[303]。
- ^ 姚品文・張峰は、関羽と張飛のイメージは鮮明な民間の色彩を帯びて感情が溢れているが、趙雲は封建社会の知識人の理性的な特質をより強く示しているといい、また、趙雲には関羽・張飛のように民間で確立された固定的なイメージによる妨げもないため、作者の理想とする良将の器として最もふさわしい人物だったという[330]。一方、傅隆基によると羅貫中は趙雲を理想化しておらず、諸葛亮や関羽に比べると最も神秘的な色彩がないと指摘する[331]。
- ^ 小出文彦は、羅貫中が趙雲の出身地である常山真定に近い太原出身であることから、『演義』において趙雲を贔屓し、活躍が際立って描かれる一因になったとしている[332]。しかし、羅貫中の出身地は太原(現在の山西省太原市)、東原(現在の山東省東平県)、銭塘(現在の浙江省杭州市)など諸説紛々であり、正確な出身地は特定されていない[333]。そのほか、趙雲の二人の息子の趙統・趙広を墓守にして、正史で趙広が沓中で戦死したことが『演義』では描かれなかったことについて、「趙雲贔屓の作者、羅貫中にしては謎である」とも述べている[334]。
- ^ また、毛宗崗本『演義』では、五虎大将の序列(関・張・馬・黄・趙)に変更が加わり、趙雲が三番手(関・張・趙・黄・馬)となっている。これは、趙雲が馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、読者を納得させるため[342]、毛宗崗が昇格させたという[343]。
- ^ 嘉靖本の「相貌堂堂、威風凛凛」は、関羽と趙雲にのみ見られる表現[344][345]。
- ^ 毛宗崗本では、嘉靖本にあった樊氏の再婚相手の3つの条件(第一:人才出衆、第二:亡くなった夫と同姓、第三:文武双全)の1「人才出衆」(傑出した才能)から「相貌堂堂」(容貌秀でた人)に変更されている[347]。これについて趙春陽は、3つの条件のうち1と3がほぼ同じ内容だったため毛宗崗が変更したのだろうと推測している[348]。
- ^ 「重頤」は「二重あご」と解釈されることが多いが[349]、趙春陽によると、「頤」の本来の意味は頬で、『孫子・九地』には「偃臥して涕が頤に交わる」とあり、この場合は涙が頬を流れることを指し[350]、また、『新唐書』で武則天が「方額で頤(頬)が広い」と形容されているように[351]、「頤」はやや解釈が難解な言葉という[352]。
- ^ この描写から生年を逆算し、『演義』関連物では趙雲の生年を158年とするものがある[175][356]。孫軟児(民間伝承に登場する趙雲の架空の妻)などの一部の民間伝承では「80歳、90歳まで生きた」とされる[357][358]。また中国の公園や施設に展示されている趙雲像の台座や展示板には「148年生まれ」とするものも存在する[359]。
- ^ 林盈翔によると、40歳以上であったはずの曹休が「少年将軍」と称されるのは不適切として、羅貫中の記述ミスを指摘する。趙雲の場合、33歳を正とすると、やや無理はあるものの「曹休の40歳余りに比べれば相対的にはまだ合理的であろう」と述べている[363]。しかしこれではやはり58歳の関羽が61歳の趙雲を「弟」と呼ぶことの矛盾に突き当たるが、「『演義』は時を超えた壮大な講史小説であり、その中の人物の年齢は元々曖昧になりやすいため、読者は年齢に不合理があっても深く追求しない。ゆえに、趙雲の人物像は少年将軍として登場したことから、受け手に若武者のイメージを抱かせた」と論じている[364]。
- ^ この時、関羽は58歳となっているが[366]、これは『演義』での設定の年齢であり、史実の関羽の正しい年齢は生年不詳のため不明である。
- ^ 孫夫人に対しての言葉[367]。ここで言う「小将」は謙遜の言葉で、「末将」のような意味合いが強く、主君の妻である孫夫人に対して「大将」や「老将」(ベテランの将軍)と自称するのは失礼にあたるためだと考えられる[368]。
- ^ 『別伝』に記される「趙雲が兄の喪に服する」話は採用しておらず、他の登場人物とは違い、彼の家族や家業については一切描かれないため家族構成は完全に空白となっている[90]。
- ^ 上野隆三は、公孫瓚が劉備を取り立てて面倒を見たことから『演義』では善玉扱いしているため、趙雲が公孫瓚から劉備につく場合、公孫瓚を裏切ることになりかねない[369]。一方、袁紹はどちらかと言えば悪玉として登場するので、『演義』の理屈では裏切り(袁紹を見限ること)が許容されるのだという[369]。
- ^ 嘉靖本や葉逢春本といった嘉靖年間に刊行された版本には、趙雲は主母(糜夫人)を叱責して死なせてしまったために不忠であり、伍子胥と同様に武臣廟に入ることができず、共に門番を務めたという記述がある[373][374]。両者が門将だったという記述は、当時の民間伝承によるものか[373]、「思想が陳腐で融通のきかない文人によるもの」だとする推測がある[375]。
- ^ 史実の糜夫人は、正史の記述によると下邳で曹操に捕らえられたと思われ、その後は消息不明であるが、『演義』は甘夫人から糜夫人へと変更している。方北辰は、この場面の描写は虚構が多いだけでなく欠点もあり、史実では逃避行の全過程において趙雲自ら阿斗を抱いて同時に甘夫人を保護して離れることはなかったが、『演義』の趙雲は阿斗らを見失い女性を死なせ、史実の趙雲のイメージを損なっているという[376]。
- ^ 正史には諸葛亮が止めた記述は見られない。劉備を諫める台詞は『別伝』とほぼ同じ言葉が引用されるが、『演義』ではさらに「兄弟の仇は私的、漢の仇は公的、どちらが天下のために重いかお考え下さい」と台詞が追加されている。周思源によると、これは羅貫中が趙雲の意図を史実よりもさらに明確に描写することで、読者に分かりやすくするためという[90]。
- ^ 城の占領時の趙雲の興奮した描写は、毛宗崗本では削除されている[389]。
- ^ 中国では猫カフェで火事が起こり、消防隊員が七進七出で十数匹の猫を救出したとニュースで報じられ(映像[412])、台湾でもASUSのスマートフォン「Zenfone」を購入後にしばしば修理に見舞わたユーザーが、修理店に何度も出入りすることになったことから七進七出に例えられた[413]。
- ^ 黄裳によると、《截江奪斗》(孫尚香から阿斗を奪還する話)では、俳優により髭をつける者(武老生)とつけない者(武生)がいたといい、そのため黄裳は「趙雲には年齢が定まっていないようだ」として、武生ではなく〈生〉と呼んでいる[419]。さらには《斬馬謖》(馬謖を斬る:第一次北伐の演目のひとつ)においても、『演義』ではこの時点で趙雲が老将軍であるにもかかわらず髭をつけない俳優がいたといい、髭のない青年として演じられることが多かったという[419]。
- ^ この三者(周瑜・呂布・趙雲)は見た目こそ似ているものの、それぞれ自惚れ・賤しい・驕らずひるまず、といったように、性格・身分・演技はまったく違ったものになっているという[420]。
- ^ 《奪成都(収馬超)》では、同じ武生の馬超(趙雲と同じく白が基調の靠)との区別をつけるために、この演目でのみ赤い衣装を着ることもある[426]。
- ^ 葉威伸によれば、『演義』における関羽の台詞「子龍は我が弟」が元々の由来で、そこに「関羽・張飛と同じく活躍した趙雲を桃園の義兄弟の一人にしてあげたい」という人々の願いが反映され、「桃園の四人兄弟の一人」という設定が広まった可能性があるという[428]。
- ^ 《失街亭・空城計・斬馬謖》を並称して《失空斬》とも。
- ^ 中国には「一呂二趙三典韋、四関五馬六張飛……」という、三国時代の武将の強さの順を表す数え歌があり、一番が呂布、二番が趙雲、三番が典韋、四番が関羽、五番が馬超、六番が張飛…となっており、《借趙雲》で趙雲が典韋に勝つ[433]という展開が反映されているという[446]。
- ^ 関羽は紅生の役柄で、浄(剛直・粗暴な役)と武生の両方を演じることが出来る[455]。
- ^ テーブルを落とし穴と見立て、高く跳びあがり、両足を開いて横一文字に開いたまま着地、手を使わず立ち上がり、また横一文字…を繰り返す、高難度の技のひとつ。『長坂坡』では、このように、演目内容と高い技巧が深く関連しているという[456]。
- ^ 楊小楼は他の役者が趙雲を演じる際、緊迫感のある曲調で登場したのを、「趙雲の冷静沈着・謙虚・おとなしい性格に合わない」との判断から落ち着いた曲調へ変更、登場後は立ち位置を舞台中央から舞台端へ変更し、戦闘では八卦掌や通臂拳を取り入れ、観客を魅了した[462]。これにより、《長坂坡》は楊小楼の代表作となった[436]。
- ^ 黄忠もまた、京劇の演目『定軍山』で人気を博し、劇中歌は拍手喝采になったという。スローガンの女性版「女は穆桂英に、婆さまは佘太君に学べ」の人物は、どちらも京劇で演じられる架空人物である[466]。
- ^ 抬閣と呼ばれる中国の伝統的な祭りの際に行われる民俗パレード。古代の中原地域で神様を迎え入れる儀式が流行したことが始まりと考えられている。広東省台山市浮石村では「飄色」と呼ばれる。唐宋時代、演劇や話芸が流行するとともに大人や子供が演劇の登場人物に扮して街を練り歩く風習が生まれ、このうち表演者(8歳から10歳ほどの子供)が細い棒で支えられ、台の上で空中に浮いているように見えるものを飄色と呼ぶようになった。毎年旧暦3月3日の北帝(道教の神様の一柱)の誕生日に行われる。2008年、国の重要無形文化財に登録[468]。
- ^ 主に伝統的な物語をテーマにし[468]、巡回公演する際に〈常勝将軍〉趙雲を先頭に配置することで〈旗開得勝:良いスタートを切って勝利を得る〉という縁起を担ぎ、『楊家将演義』の穆桂英(趙雲のように赤子を抱えて敵陣を突破した架空の女武将[469])を最後尾に置くことでパレードの締めくくりにし、必ずこの二人を用いて縁起を担いでいる[470]。
- ^ 安順地戯で使用される趙雲の仮面。白面・朱唇・眉目秀麗の若武者の相を表す[471]。
- ^ 一方で林盈翔は『別伝』の記述〈姿顔雄偉〉、『演義』の記述〈闊面重頤〉を「粗野な武人のイメージ」と訳する[479]。
- ^ さらに、『三国志伝』には「童顔」との記述がある[481]。
- ^ 『袁三国』完結後、1988年には趙雲を主題とした『長坂雄風』が全27回で放送され、この作品では樊氏が趙雲と結ばれる展開になっている[501]。袁闊成のその他の作品に、これら趙雲に関する作品を再構築して小説化した『趙子龍』があり、元雑劇の「幼い頃から馬を売り、西方の戎の地を転々とした」という設定を採用しており、趙雲が鉅鹿郡で馬を売っているところから物語がはじまる。公孫瓚への仕官~死後、劉禅に大将軍に追封されるまでの一生を描いている[502]。この作品では、白馬の名前として〈玉蘭白龍駒〉が登場する。
- ^ 例外として1969年の柴田錬三郎の小説『三国志英雄ここにあり』では「白馬に乗った紅顔の美少年」として描かれている[529]。白馬に関しては、吉川英治も「子龍には自分(公孫瓚)の愛馬――銀毛雪白な一頭を与えた」と描写している[530]。
- ^ 中国の『演義』をモチーフにしたゲームやWEBサイトにおいて、多くが出典を「河北梆子」とするが[539]、しかし『中国梆子演目大事典』によれば、河北梆子の演目に『青鋼剣』は見られず、秦腔の演目とある。また、妻の名前は「李金蓮」となっている[540]。
- ^ 趙雲の最初の主君である公孫瓚が白馬義従を率いていたこと、後に趙雲が劉備の主騎になったことから、白馬に乗るイメージに繋がったとも考えられる[542]。
- ^ しかし司馬光の著書には当陽草の詞は収録されていないことから、元・明時代にすでに民間で流布していたとみられる「当陽草」の里謡を、羅貫中が改編し、司馬光に仮託した可能性が高いという[560]。
- ^ 葉威伸によると、この益州版の伝承は『中国民間故事集成』などには記載がないという[563]。岡本伸也(KOBE鉄人三国志ギャラリー館長)は、現地で収集したことをウェブサイトのコラムで述べている[564]。
- ^ 伝承によると、唐・宋時代に長坂坡の語り部が趙雲が阿斗を救った話を語り、その横で炒飯の屋台主たちが趙雲の槍や剣さばきをヘラに置き換え、七度の作業工程を趙雲の動きに例えて調理したことに由来する。
- ^ 董卓が真定にやってきた際に太守がもてなしたところ、董卓は料理を気に入らず不機嫌になる。そのとき、店の隅に座っていた青年(趙雲)がシュッと長袍を脱いで立ち上がって董卓に話しかけた。この一連の動きを見て新しい料理がひらめいた料理人が、鰻の皮をシュッと剥いて香菜と炒めたところ、董卓は大変気に入った。料理人が若者の字から「子龍脱袍」と名付けたという[572]。
- ^ 「鰻が小さい龍(子龍)に見えることと、皮を剥くことを「袍を脱ぐ」ことに例えた」あるいは「鰻の皮をきれいに剥ぎ取った様子を「紫龍」に例えて名付けた」という説、「湘楚地方の料理人の趙雲への敬慕から、趙雲が戦袍を解いて阿斗を懐に抱いたことからこの料理を考案し、鰻を趙雲に見立て名付けた」という説もあるが、これは近年インターネットで広まった説で、正定の民間伝承[注 87]が広まったことから、新しく作られたものと考えられている[573]。
- ^ 「再会」を意味する桂陽名物の肉団子料理。桂陽旧正月三大料理のひとつ。伝承によると、趙雲が桂陽を占領した後、駆け付けた劉備たちと趙雲が再会を喜んで祝宴を開いた際、桂陽の人々から黄金色の丸い揚肉団子が献上された。これを食べた趙雲らは絶賛し、それ以来、桂陽の人々のお祭りを祝う料理になったという[576]。
- ^ 桂陽名物の肉料理。桂陽の人々からこの料理を献上され、気に入った趙雲が劉備にも献上し、劉備が「子龍郡壇子肉」と名付けたという[576]。
- ^ 伝承によると、出征において冬から春の食料が乏しい時期にタケノコを掘って食べる習慣が身についた趙雲が、保存が効くよう天日干しにし、人々はそれに倣った。趙雲がこの地を去ったあと、乾燥させたタケノコを「子龍タケノコ」「子龍片」と呼ぶようになったという[579]。
出典
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- ^ 『両罍軒尺牍』天性勇毅,身為大帥仍複親冒矢石,為士卒先,此趙順平,常開平之遺風。
- ^ 『活齋集』巻五(看史剰語,趙雲爲將)蜀之虎臣,世必以關張爲稱首,其雄猛氣槩,忠義節行,果可謂古今傑然者也。然其所短者智畧,皆以此見敗。吾觀子龍之爲將,萬夫之勇,固已負於其心,一身之膽,宜見稱於其君,足以上下於關張。而況其辭第分賞及諫伐呉等事,謙退深遠,識機明分,又非關張之所及,真良將也。先主武侯與關張子龍,勠力以圖興復,關張亡而先主継崩,子龍逝而武侯且卒,蜀之君臣上下無人焉。雖欲不亡得乎。
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- ^ 『読史糾謬』趙雲別伝載雲従先主本末及辞賜田諫東征,皆卓然識大体。
- ^ 『歴代名臣録』雲与関張及馬超黄忠。号五虎将。陳寿以其強摯壮猛。比於灌滕。
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- ^ 『四史評議』関羽,張飛,馬超,黄忠,趙雲,皆為蜀之名将,故合伝。
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- ^ 『三国志旁証』引 以孫夫人之橫,但任趙雲、法正二人便足以制之,賢者之有益於人國如此。
- ^ 『史緯』此策甚高,備不従以取敗,天不祚漢也。
- ^ 『史林測義』時則不愧諸葛忠武之大節。而有古大臣之風烈已。
- ^ 『相理衡真』人亦一器也,莫不各有其量。[...]諸葛武侯有智量,[...]趙子龍有膽量,[...]此皆遠大之器。
- ^ 『季漢五志』順平真儒将哉。其律己也厳。接人也慎。其見理也明。其去私也力。若夫当陽救主。奮不顧身。漢水立功。威還似虎。語云。胆欲大而心欲小。志欲円而行欲方。其順平之謂乎。
- ^ 『季漢五志』当陽之戦、孫夫人之帰,微子龍則後主将不免矣,故無論勳烈才品迥出三國諸人之上。
- ^ 『三國志集解』樊氏国色,而子龍不取,賢于関羽之乞娶秦宜禄妻去遠矣。
- ^ 『読三国志蠡述』趙雲於長阪一役,抱後主保護甘夫人皆得免難,又孫夫人還呉,雲与張飛截江奪後主,此両事至今赫赫在目,卒与関羽張飛馬超龐統黄忠同獲美諡,有以哉。
- ^ 『越南新志』為将之道,胆欲大而心欲細;胆大則勇,心細則智,所以能戦勝攻取,即有不利,亦不至一敗塗地。三国時将材,可当此者,魏之張遼,漢之趙雲而已。
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孫権:噯!三進三出!
喬玄:不、不、不,七進七出!
孫権:哽!三進三出!
喬玄:七出七進,是七進七出啊!
孫権:也不怕拌壊了你那老嘴!
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参考文献
主要参考文献
中国語
書籍類
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論文類
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- 王威「(修士論文)趙雲形象史研究」、浙江大学、2011年。
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TV番組
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方北辰 (22 March 2015). “『三国名将·趙雲 2 堂堂勇将』”. 百家講壇 (中国語). CCTV10.映像 - YouTube
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日本語
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その他参考文献
中国語文献
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日本語文献
- 狩野直禎『諸葛孔明』新人物往来社、1981年。 ISBN 9784404012616。
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- 小南一郎 訳『正史三国志8呉書III』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1993年。 ISBN 4480080899。
- 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年。 ISBN 4198602042。
- 渡辺精一『【三国志】下巻「諸葛孔明、中原回復への冀望」特別付録【正史編】三国志人物事典』学研〈歴史群像シリーズ18〉、1990年。 ISBN 4051051552。
- 渡邉義浩『三国志 演義から正史、そして史実へ』中央公論新社、2011年。 ISBN 9784121020994。
- 渡邉義浩(監修)「人物ファイル 蜀:5趙雲-I」『隔週刊 三国志 DVD&データファイル』講談社、2016年。
- 武田靖彦 著、渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス企画協力 編『三国志ビジュアル百科』講談社、2018年。 ISBN 9784065135808。
- 石川夏子 著、渡邉義浩監修 編『三国志 英傑完全ランキング』宝島社、2020年。 ISBN 9784299010926。
- 袴田郁一(著)渡邉義浩(監修)『マンガでわかる三国志』池田書店、2016年。 ISBN 9784262155593。
- 金文京『三国志演義の世界【増補版】』東方書店、2010年。 ISBN 9784497210098。
- 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。
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- 孫玄齢 著、田畑佐和子 訳「中国芸能おぼえがき5『三国志の芝居は楽し(つづき)』—白装束の三将軍 周瑜・呂布・趙雲—」『月刊しにか』 3巻、12号、大修館書店、1992年。
- 趙暁群、向田和弘『京劇鑑賞完全マニュアル』株式会社好文出版、1998年。 ISBN 9784872200225。
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- 塚本助太郎「第九章:現代名優」『支那芝居読本』PC会、1936年、58-77頁。doi:10.11501/1229060。
- 西村保男『満洲芝居』滿洲事情案内所、1944年。doi:10.11501/1885587。
関連項目
人物関連
- 関樾 - 趙雲の娘と関羽の息子の関平との間に生まれたとされる人物。
- 文鴦 - 三国時代から西晋の軍人。『演義』では「趙雲の再来」と称えられる。
- 孫軟児 - 民間伝承に登場する、趙雲の死に関連する架空の妻。
- 劉粋剛 - 中華民国空軍のエース・パイロット。空軍五虎将「空の趙子龍」と称された。
- 国民革命軍第95師団 - 中華民国時代の河南省の国民党地方部隊。『趙子龍師団』と呼ばれた。
遺跡関連
- 趙雲廟 - 正定県の趙雲廟と、中国の趙雲祠廟関連、伝承について。
- 趙子龍祠墓 - 中国の趙雲の墓関連(大邑・臨城・南陽)、伝承について。
- 佳里子龍廟 - 台湾の子龍廟とその関連祠廟(マレーシア)、伝承について。
- 成都武侯祠 - 成都の劉備と諸葛亮および趙雲ら功臣を祀った廟。
その他
外部リンク
- 『趙雲』 - コトバンク(渡邉義浩)。
- 『一身是胆』 - 四字熟語辞典。
- 『祖宗及歴代帝皇介紹(先祖趙雲史略)』 - 香港趙族宗親総会(中国語)。
映像(CCTV:中国中央電視台・中国語)
- 『京劇《長坂坡》』 - CCTV11戯曲/CCTV空中劇院。
- 『講談:《名家書場》袁闊成評書《常山趙子龍》』 - CCTV。
趙雲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 01:49 UTC 版)
「ジャイアントロボ バベルの籠城」の記事における「趙雲」の解説
口からあらゆる物を吸い込む能力を持つ。幽鬼と対決する。ヒィッツカラルドのエネルギーを吸い取り重症を負わせるが、幽鬼の命をかけた最後の技で死亡。
※この「趙雲」の解説は、「ジャイアントロボ バベルの籠城」の解説の一部です。
「趙雲」を含む「ジャイアントロボ バベルの籠城」の記事については、「ジャイアントロボ バベルの籠城」の概要を参照ください。
- >> 「趙雲」を含む用語の索引
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