援軍要請
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 09:35 UTC 版)
「バトゥのリャザン襲撃の物語」の記事における「援軍要請」の解説
物語では、リャザン公ユーリーが、ウラジーミル大公ユーリーに援軍を求めるものの、それを断られたため、周辺を領有する諸公(前述の兄弟たち)を招集し、ヴォロネジの戦いに臨んだ、という展開になっている。 ノヴゴロドの年代記においても、同様に、ウラジーミル大公ユーリーが援軍を拒んだという記述がみられる。ただし、物語では援軍要請をヴォロネジの戦い以前のこととしているのに対し、ノヴゴロドの年代記では、リャザンからの使者がウラジーミルに到着したのはヴォロネジの戦いの後であり、かつ、ウラジーミルには同時にモンゴル軍の使者も到着していた、と記されている。『ガーリチ・ヴォルィーニ年代記』においては、ウラジーミル大公国へ情報が伝わったのはリャザン陥落後であり、その伝達者は、物語ではヴォロネジで戦死しているプロンスク公フセヴォロド(ru)だったと記されている。また、いずれにせよウラジーミル大公ユーリーはリャザン陥落後に軍を発し、リャザン公国の生存部隊と共にコロムナの戦いへと臨んでいることから、リャザンの救援に消極的であったという物語(ならびに年代記)の描写は事実と異なるとする見方がある。 また、物語において、リャザン陥落時にコロヴラートとイングヴァリがチェルニゴフにいたのは、チェルニゴフ公国への援軍要請の使者であったとする見方がある(物語、史料共にチェルニゴフに援軍を要請したとする記述はない)。V.タチシチェフ(ru)は、リャザン公国からチェルニゴフ公国への援軍要請はあったが、チェルニゴフ諸公(オレグ家(ru)諸公)は、リャザン諸公が1223年の対モンゴル戦・カルカ河畔の戦いに参戦しなかったことを理由に援軍を断った、と論じている。
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