援軍派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 01:59 UTC 版)
5月18日、事態を重く見た第33軍司令部は、中国軍の反攻(拉孟・騰越の戦い)に際して雲南方面に派遣していた56師団長に水上部隊の主力をミイトキーナに派遣するよう命じ、また28日にはミートキーナ守備隊を第18師団から離し、第33軍の直轄部隊とした。軍の要請は水上源蔵少将の指揮する歩兵第113連隊の二個大隊等であったが、師団参謀長の川道富士雄大佐は余裕がなかったため、いずれ増援が来るだろうと独断で水上少将に一個小隊と砲兵一個中隊を指揮下に与えてミイトキーナに派遣した。 水上少将は「命令は承知した。雲南の戦場で師団主力と共に死ねないのは残念だが、ミイトキーナでは必ず任務を達成する。恐らく是でお目にかかることは無いであろう。師団長によろしく伝えてもらいたい」と答えた。 驚いた第33軍司令官の本多政材中将がすぐさま軍司令部参謀の野口省己少佐を派遣し問い正したところ、川道大佐は「本件は自分一個の独断的措置であり、全責任は自分に有る」として軍の了承を要請した。野口少佐の報告を聞いた本多は、川道を不問とした。 名目上は水上少将がミイトキーナ守備隊の指揮官であったが、水上少将の手もちの部隊はごくわずかであったため、守備隊の実質的な指揮は丸山大佐が執った。 6月に入ってからはかねてから第33軍から通達されていた援軍である53師団主力がモガウン経由でミイトキーナへ進撃した。この部隊はミイトキーナ20kmの地点に達したが、市内突入の直前に第33軍の命でフーコン戦線に転進させられた。 ミイトキーナの米・中国軍は6月13日に総攻撃を開始した。ガラハット第3大隊はマインナ渡船場を遮断しイラワジ河畔に展開、第150団は製材所を制圧し更に火炎放射器を使用しつつ200ヤード進出、第88団は射撃場にある陣地から更に100ヤード進出した。だが、守備隊は各隊の構築した攻撃拠点の間の隙間を突いて逆に包囲し、市内に展開していた連合軍各部隊を再編不能になるまで追い込み、これを撃退した。ボードナー准将も罷免され、後任は元歩兵学校教官であり、スティルウェルとも旧知の仲であるウェセルス准将が着任した。ウェセルス准将は失敗の要因を兵の訓練不足と考え、守備隊と接触している部隊は毎日4時間、それ以外の部隊は8時間、それぞれ訓練を行わせることにした。
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