スーダンの反乱・ゴードン将軍の死
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「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「スーダンの反乱・ゴードン将軍の死」の解説
エジプト支配下スーダンでイギリスに支配されたエジプトに対する反発が強まり、1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマドによるマフディーの反乱が発生した。マフディー軍は1883年1月19日に西部の都市エル・オベイドを占領して、同地のエジプト軍守備隊(多くは現地スーダン人の兵士)から武器や兵士を奪い取って戦力を大きく増強した。1883年9月にイギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いるエジプト軍がマフディー軍征伐に発ったが、惨敗してヒックス大佐も戦死した。 グラッドストンはこれ以上自己の信念に反する帝国主義政策を遂行することを嫌がり、スーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定した。エジプト守備軍の撤退を指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取り、国民人気が高かったチャールズ・ゴードン少将をスーダン総督に任じてハルトゥームに派遣した。 しかし1884年2月にハルトゥームに到着したゴードン将軍は、マフディー軍を戦う意思を固め、撤退を開始しようとはしなかった。3月中旬になるとハルトゥームはマフディー軍に包囲されてしまった。ゴードンが本国に出兵を強要するために自発的に包囲されたようにさえ見えた。 日を追うごとに「国民の英雄」ゴードン将軍の救出を求める世論が強まっていった。閣内からも大法官セルボーン伯爵と海軍大臣ノースブルック伯爵が辞職をちらつかせて援軍派遣をグラッドストンに迫るようになった。野党の保守党も援軍派遣を強く要求した。ヴィクトリア女王も陸相ハーティントン侯爵を呼び出してゴードン救出を命じた。グラッドストンもついに折れて援軍派遣を決定し、8月にその費用として30万ポンドを議会に要求した。10月からサー・ガーネット・ヴォルズリー将軍率いる援軍がエジプトから南下してハルトゥームへ向かって進撃を開始した。 しかしこの援軍は間に合わず、1885年1月26日にハルトゥームはマフディー軍によって陥落させられ、マフディー軍は市内にいた者を手当たり次第に殺害した。総督邸にいたゴードン将軍も殺害された。 ゴードン将軍の死に英国世論は激昂し、援軍派遣を遅らせたグラッドストンに批判が集中した。グラッドストンは「GOM(Grand Old Man、大老人)」改め「MOG(Murderer of Gordon、ゴードン殺害犯)」と呼ばれるようになった。保守党が多数を占める貴族院は政府批判決議を可決させている。自由党が多数を占める庶民院では政府批判決議は否決されたものの、わずか14票差の辛うじての否決だった。ヴィクトリア女王も激怒し、いつもの暗号電報ではなく、通常電報(つまり手交される人全員が読める状態)で叱責の電報をグラッドストンに送った。 2月末に女王は「何としてもスーダンを奪還してゴードンの仇を取るべし」と命じたが、グラッドストンはこれを無視し、4月の閣議で「マフディー軍は意気揚々としており、今はスーダン奪還の時期ではない」と決定してスーダンを捨て置いた。
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