スーダンの反乱・ゴードン将軍の死とは? わかりやすく解説

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スーダンの反乱・ゴードン将軍の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)

ウィリアム・グラッドストン」の記事における「スーダンの反乱・ゴードン将軍の死」の解説

エジプト支配スーダンイギリス支配されエジプト対す反発強まり1882年夏にマフディー(救世主)を名乗ったムハンマド・アフマドによるマフディーの反乱発生したマフディー軍1883年1月19日西部都市エル・オベイド占領して同地エジプト軍守備隊多く現地スーダン人の兵士)から武器兵士奪い取って戦力大きく増強した1883年9月イギリス軍大佐ウィリアム・ヒックス率いエジプト軍マフディー軍征伐発ったが、惨敗してヒックス大佐戦死したグラッドストンこれ以上自己の信念反す帝国主義政策遂行することを嫌がりスーダンからエジプト守備軍を撤退させることを決定したエジプト守備軍の撤退指揮する人物として「チャイニーズ・ゴードン」の異名取り国民人気高かったチャールズ・ゴードン少将スーダン総督任じてハルトゥーム派遣した。 しかし1884年2月ハルトゥーム到着したゴードン将軍は、マフディー軍を戦う意思固め撤退開始しようとはしなかった。3月中旬になるとハルトゥームマフディー軍包囲されてしまった。ゴードン本国出兵強要するために自発的に包囲されたようにさえ見えた日を追うごとに「国民英雄ゴードン将軍救出求め世論強まっていった。閣内からも大法官セルボーン伯爵海軍大臣ノースブルック伯爵辞職ちらつかせ援軍派遣グラッドストンに迫るようになった野党保守党援軍派遣強く要求したヴィクトリア女王陸相ハーティントン侯爵呼び出してゴードン救出命じたグラッドストンもついに折れて援軍派遣決定し8月にその費用として30ポンド議会要求した10月からサー・ガーネット・ヴォルズリー将軍率い援軍エジプトから南下してハルトゥーム向かって進撃開始した。 しかしこの援軍は間に合わず1885年1月26日ハルトゥームマフディー軍によって陥落させられマフディー軍市内にいた者を手当たり次第殺害した総督邸にいたゴードン将軍殺害された。 ゴードン将軍死に英国世論激昂し援軍派遣遅らせたグラッドストン批判集中したグラッドストンは「GOMGrand Old Man大老人)」改めMOGMurderer of Gordonゴードン殺害犯)」と呼ばれるようになった保守党多数占め貴族院政府批判決議可決させている。自由党多数占め庶民院では政府批判決議否決されたものの、わずか14票差の辛うじて否決だった。ヴィクトリア女王激怒しいつもの暗号電報ではなく通常電報(つまり手交される人全員読める状態)で叱責電報グラッドストン送った2月末に女王は「何としてもスーダン奪還しゴードンの仇を取るべし」と命じたが、グラッドストンはこれを無視し4月閣議で「マフディー軍意気揚々としており、今はスーダン奪還時期ではない」と決定してスーダン捨て置いた

※この「スーダンの反乱・ゴードン将軍の死」の解説は、「ウィリアム・グラッドストン」の解説の一部です。
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