スーダン侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「スーダン侵攻」の解説
この頃、イギリスではスーダン問題が再浮上していた。スーダンはイギリスの傀儡国家エジプトの属領だったが、1881年に発生したマフディーの反乱により、時の英国首相グラッドストンが放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれ、英国支配から離れた独立国家となっていた。しかしロシアとフランスのエチオピアへの野心が高まる中、首相ソールズベリー侯爵はそれに先手を打つべく、エチオピアに隣接するマフディー国家への侵攻を決定した。 チャーチルは従軍を希望し、『マラカンド野戦軍物語』を高く評していた首相ソールズベリー侯爵と会見できたのを好機としてエジプトの実質的統治者だったイギリス駐エジプト総領事クローマー伯爵を紹介してもらい、従軍が許された。この戦争でもモーニング・ポスト紙と特派員契約を結んだ。 1898年8月にホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス軍に加わって、ナイル河を遡って進軍、9月1日にはマフディー国首都オムダーマンを包囲し、翌9月2日、マフディー軍4万が打って出てきて、オムダーマンの戦いが始まった。キッチナー将軍は第21槍騎兵連隊に突撃を行わせたが、これは歴史上最後の騎兵突撃とされる。チャーチルはインド勤務時代に肩を脱臼していた関係で、剣ではなく拳銃を使用して突撃したため、比較的安全に戦うことができた。戦いは多くの戦死傷者を出しながらもイギリス軍の勝利に終わり、マフディー国家は滅亡し、スーダンはイギリスとその傀儡国家エジプトの主権下に戻った。 インドの第4女王所有軽騎兵連隊に帰隊したチャーチルは、今回の戦争についてまとめた『河畔の戦争(英語版)』を著した。この著書の中でチャーチルはキッチナー将軍を批判的に書いている。特に戦い方が犠牲を問わなすぎることや、兵士たちがマフディー国家の建国者ムハンマド・アフマドの墓を暴いたのを止めなかったことを批判している。しかし、この本を読んだホレイショ・キッチナーは自分を批判した本の内容に激怒し、遺恨が生じた。このことは後々チャーチルに祟ることになる。
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