スーダン奪還とファショダ事件とは? わかりやすく解説

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スーダン奪還とファショダ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:26 UTC 版)

ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「スーダン奪還とファショダ事件」の解説

詳細は「ファショダ事件」を参照 スーダン1881年発生したマフディーの反乱により第二次グラッドストン内閣放棄決定して以来マフディー軍支配下置かれており、英国支配から離れていた(マフディー国家(英語版))。 ソールズベリー侯爵は、1898年スーダン再征服計画するようになった。そのために西部スーダンをめぐるフランスとの対立トルコ利権をめぐるドイツとの対立中国分割をめぐるロシアとの対立慎重に回避するほどだった。その背景にはマフディー国家が隣国エチオピアと反ヨーロッパ連携図ろうとしていたこと、またフランスロシアイタリアエチオピア野心見せていたことがある1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍2万5000人がカイロから南進してスーダン攻撃開始し9月までにマフディー軍主力壊滅させてハルトゥーム奪還したマフディー軍ハルトゥーム落とされチャールズ・ゴードン将軍殺害された時から13年の時を経て奪還となった反乱首謀者である「マフディー」ことムハンマド・アフマドはすでに死去していたが、イギリス軍はその墓を掘り起こして遺骸の首をカイロへ移送し胴体は川に投棄したという。 この戦いの間の7月12日ジャン=バティスト・マルシャン(フランス語版率い200名超程度フランス軍小部隊がフランス領コンゴから出動しマフディー国領土ファショダ侵入し同地フランス領土に併合する宣言していた。さらに9月には現地の王(メク)であるアブドゥラヒがこれまで忠誠誓っていたマフディー国裏切りフランス忠誠誓った。これを危険視したソールズベリー侯爵イギリス海軍臨戦態勢に入らせつつ、フランス政府に対してスーダンイギリス(とその傀儡国家エジプト)の主権下に戻ったので、ただちにマルシャンの部隊撤収させねば領土侵犯看做し戦争開始する旨を通達した。フランスはこの脅迫により譲歩し11月にはマルシャンの部隊撤退させた。 この交渉前の8月ソールズベリー侯爵ドイツ政府秘密協定結んでおり、財政破綻噂されていたポルトガル王国債務不履行陥ったら、ポルトガルの植民地英独分割することを約定している。とりわけイギリスポルトガル領モザンビークロレンソ・マルケス欲していた。ここを手にいればトランスヴァール共和国包囲することができたためである。しかし結局ポルトガルパリ公債発行成功したため、この協定空振り終わった

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