スーダン奪還とファショダ事件
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「スーダン奪還とファショダ事件」の解説
詳細は「ファショダ事件」を参照 スーダンは1881年に発生したマフディーの反乱により第二次グラッドストン内閣が放棄を決定して以来、マフディー軍の支配下に置かれており、英国支配から離れていた(マフディー国家(英語版))。 ソールズベリー侯爵は、1898年にスーダン再征服を計画するようになった。そのために西部スーダンをめぐるフランスとの対立、トルコ利権をめぐるドイツとの対立、中国分割をめぐるロシアとの対立を慎重に回避するほどだった。その背景にはマフディー国家が隣国エチオピアと反ヨーロッパ的連携を図ろうとしていたこと、またフランス、ロシア、イタリアがエチオピアに野心を見せていたことがある。 1898年4月からホレイショ・キッチナー将軍率いるイギリス・エジプト連合軍2万5000人がカイロから南進してスーダン攻撃を開始し、9月までにマフディー軍主力を壊滅させてハルトゥームを奪還した。マフディー軍にハルトゥームを落とされてチャールズ・ゴードン将軍を殺害された時から13年の時を経ての奪還となった。反乱の首謀者である「マフディー」ことムハンマド・アフマドはすでに死去していたが、イギリス軍はその墓を掘り起こして遺骸の首をカイロへ移送し、胴体は川に投棄したという。 この戦いの間の7月12日にジャン=バティスト・マルシャン(フランス語版)率いる200名超程度のフランス軍小部隊がフランス領コンゴから出動してマフディー国領土のファショダへ侵入し、同地をフランス領土に併合すると宣言していた。さらに9月には現地の王(メク)であるアブドゥラヒがこれまで忠誠を誓っていたマフディー国を裏切り、フランスに忠誠を誓った。これを危険視したソールズベリー侯爵はイギリス海軍を臨戦態勢に入らせつつ、フランス政府に対してスーダンはイギリス(とその傀儡国家エジプト)の主権下に戻ったので、ただちにマルシャンの部隊を撤収させねば領土侵犯と看做して戦争を開始する旨を通達した。フランスはこの脅迫により譲歩し、11月にはマルシャンの部隊を撤退させた。 この交渉前の8月にソールズベリー侯爵はドイツ政府と秘密協定を結んでおり、財政破綻が噂されていたポルトガル王国が債務不履行に陥ったら、ポルトガルの植民地を英独で分割することを約定している。とりわけイギリスはポルトガル領モザンビークのロレンソ・マルケスを欲していた。ここを手にいればトランスヴァール共和国を包囲することができたためである。しかし結局ポルトガルはパリで公債発行に成功したため、この協定は空振りに終わった。
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