ロシアとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:14 UTC 版)
国会議員からもロシア人は一掃され、人口の3割が参政権を持たない状況が生まれるに至って、国内のロシア人は「ロシア人代表者会議」を結成して抵抗した。ロシア最高会議も、7月17日に在エストニア・ロシア人に対する「人権侵害」の非難決議を行い、エストニアに対する一時的経済制裁をロシア連邦政府に要請した。同月には、エストニアも加盟する全欧安全保障協力会議 (CSCE) が少数民族問題高等弁務官(英語版) (HCNM) の設置を決議したため、9月にエストニア政府は、国籍法と言語法に関するCSCEの調査団を受け入れると表明した。 CSCE調査団は12月からの調査の結果、エストニアの立法に欧州の人権基準から見て大きな逸脱はないと結論し、ロシア側による人権侵害の訴えを退けた。1993年2月7日には、国連総会決議47/115「エストニアとラトビアにおける人権の状態」に基づく国連調査団もエストニアに入ったが、10月26日に調査報告書は、エストニア社会には「1940年以前に時計を戻そうとする願望」が見られるものの、「民族や宗教を理由にした差別は何ら見当たらなかった」と結論した。 一方のロシア最高会議人権委員会は、エストニア永住者の38パーセントもが外国人・無国籍者とされる状況は世界人権宣言第6条・第15条および自由権規約第2条・第25条・第26条に違反する、と非難した。4月4日にボリス・エリツィン大統領は、エストニアとラトビアが少数民族の「迫害」をやめない限りロシア連邦軍の両国からの撤退は延期される、と声明した。 ロシアの武力による威圧に対し、6月16日にエストニア議会はエストニア語の読み書き能力を帰化要件とする「国籍志願者に対するエストニア語の要請に関する法律」を採択し、さらなる強硬姿勢で対抗した。同月21日には、実質的にロシア人に国外退去を迫る「外国人法」が可決され(下記参照)、この状況を危険視するCSCE・HCNM・欧州評議会やヘルシンキ・ウォッチ(英語版)などの国際調査団がエストニアへ入った。 国際調査団の勧告に遭って、レンナルト・メリ大統領は外国人法を議会へ差戻し、外国人法にはCSCEや欧州評議会の要求をほぼ全面的に受け入れた修正が加えられた。また、帰化要件とされるエストニア語能力についても、約1500語程度の日常会話能力で十分との緩和がなされた。メリもまた、「国家に対する貢献者」への国籍付与を認める憲法の条項を利用し、穏健派のロシア人政治家やジャーナリストに対し国籍を付与する懐柔策を採った。結果、その後の両国政府の合意によって、1994年8月にロシア軍はエストニアからの撤退を完了した。 CSCEの後身である欧州安全保障協力機構 (OSCE) の在タリン代表部によれば、エストニア再独立から1995年3月までの間に、1938年国籍法に基づいて帰化した人数は8万4252人である。その内訳は エストニア語能力試験合格者:3万5041人 エストニア民族籍者:2万5251人 国家に対する貢献者:2万3326人 特別功労者:634人 となっている。
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