ロシアとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:11 UTC 版)
「ヤン・カロル・ホトキェヴィチ」の記事における「ロシアとの戦争」の解説
1605年、共和国は偽ドミトリー1世を擁立して動乱時代のロシア・ツァーリ国に介入、ロシア・ポーランド戦争が勃発した。しかしリトアニアのマグナートにはこの戦争は不評で、特にホトキェヴィチは公然とジグムント3世への不満を示し、しばらく王家に忠誠を示すのを拒否するほどであった。 最終的にはこのマグナートと国王の対立は収まり、ホトキェヴィチはスモレンスク・プスコフ方面の司令官としてロシアに侵攻した。 共和国軍はたちまちにしてスモレンスク占領などの勝利をおさめ、スタニスワフ・ジュウキェフスキらはポーランド・リトアニア・モスクワ共和国の創設を夢見たほどであった。 ジグムント3世はホトキェヴィチにモスクワ侵攻を命じたが、セイムが軍費の供給要請を何度も無視したため、一部の部隊が反乱を起こした。そうした本国とのすれ違いもあり、ホトキェヴィチは勝利を重ねたものの決定的な成果を得ることができず、1611年の秋に撤退した。 失望したホトキェヴィチは再び国王と疎遠になり、1613年のセイムでは自らこの戦争を批判した。 1613年から1615年にかけては、共和国が獲得したスモレンスク地域の防衛に努め、リトアニアの鎮撫にあたった。 1617年、王子ヴワディスワフ(後のポーランド王ヴワディスワフ4世)がロシアのツァーリとしてミハイル・ロマノフを排除するべくロシア遠征を行うとホトキェヴィチも事実上の司令官として従い、1617年10月11日にドロゴブージの要塞を陥とした。 しかし1618年12月のモジャイスク攻囲は不成功に終わり、これを最後にロシアとの戦争は終わった。
※この「ロシアとの戦争」の解説は、「ヤン・カロル・ホトキェヴィチ」の解説の一部です。
「ロシアとの戦争」を含む「ヤン・カロル・ホトキェヴィチ」の記事については、「ヤン・カロル・ホトキェヴィチ」の概要を参照ください。
- ロシアとの戦争のページへのリンク