ロシアとともに
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1987年「日本現代音楽協会」主催の作曲コンクールに弦楽四重奏曲が入選したことでこの団体にも所属。また、この年には初めてのオーケストラ作品を発表。その後は、多くの室内楽を作曲。こうしている間も、音楽団体の事務局を務め、1986年から「日本音楽舞踊会議」の事務局次長を、1996年には事務局長を拝命。2000年まで続けた。1998年、恩師寺原が亡くなり、それを機にロシアとの繋がりを保ちつつ自らの道を進むようになる。本格的な作曲活動と執筆活動が増えていく中、全音楽譜出版社からの依頼によるオーケストラ作品のピアノへの編曲は、ハチャトゥリアン、カバレフスキー、リムスキー=コルサコフ、ホルスト、シベリウス、ムソルグスキー、ガーシュイン・・・等と多岐に渡ることとなった。と同時に、自作もオーケストラ作品が増えていく。また管弦楽法の本とも言える<スコアリーディングを始める前に>や 音楽史の事典ともいえる<作曲家ファイル>を執筆。前者を使った公開講座が、全国で行われている。 MUSIMAという名前による平和コンサートは1988年から始められたが、2000年以降は行われていない。1985年から事務局次長を務めていた「日本・ロシア音楽家協会」の事務局長へ2010年に就任、その後2014年まで続けた。
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