保守党政権の閣僚として
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第5代ランズダウン侯爵)」の記事における「保守党政権の閣僚として」の解説
帰国後は自由統一党(リベラル・ユニオニスト)に所属(同党は後に保守党に合流)。1895年、第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシルを首相とする保守党との連立政権(第三次ソールズベリー侯爵内閣(英語版))において陸軍大臣として入閣した。陸軍総司令官人事では初代ウォルズリー子爵ガーネット・ウォルズリー(英語版)元帥を任命し、エドワード・カードウェルの路線を継承して陸軍への文民統制を強化した。在任中の1899年に第二次ボーア戦争が勃発するが、5万人以上と予想されるブーア軍に対して3万5千人の動員が必要である、とのウルズリーの進言を「徹底的に効率の良い状態にある」1万人で事足りるとするなどしたことから、戦争準備が不十分であったことを批判された。 1900年10月にソールズベリー侯の後を受けて外務大臣へ転任した。中国分割をめぐるロシア帝国主義の極東進出を憂慮し、極東の現状維持ができる国として日本に注目し、首相ソールズベリー侯の賛成も得て、1902年1月30日にはロンドンにてイギリス駐箚日本公使林董男爵(後に伯爵)との間で日英同盟を調印した。 続くアーサー・バルフォア内閣でも外相に留任した。1903年5月15日にはペルシア湾におけるイギリスの優越権を宣言してロシア帝国の南下政策を牽制した。また日本国内の日露協商派の動きを警戒し、1903年7月には日本政府に対して日本が独断でロシアと協商を結ばないよう釘を刺した。日英同盟は「日英どちらかが二か国以上と戦争になった場合はもう片方は同盟国のために参戦、一か国との戦争の場合はもう片方は中立を保つ」という約定になっていたため、フランスがロシアとともに日本に宣戦布告せぬようフランス取り込みに腐心した。フランス外相テオフィル・デルカッセと交渉を進め、両国の懸案事項である世界各地での植民地争奪戦を互譲的に解決していき、1904年4月8日に英仏協商を締結させることに成功した。
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保守党政権の閣僚として
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「エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)」の記事における「保守党政権の閣僚として」の解説
第二次ダービー伯爵内閣(1858年-1859年)においてははじめ植民地大臣、ついでインド担当大臣として入閣した。インドをイギリスの直接統治下に置くインド法(英語版)の制定を主導して高く評価された。一方インド軍の再編成をめぐってはヴィクトリア女王の夫アルバートと対立し、女王から不興を買った。 野党だった頃の1862年にギリシャで国王オソン1世が王位を追われる事件があったが、この際に一部のギリシャの政治家から新しい国王の候補としてエドワードの名が挙げられた。これについてエドワード当人は「冗談にしか聞こえない」と述べてまともに取り合わなかった。結局ギリシャ王にはデンマーク王室のゲオルギオス1世が即位した。 第三次ダービー伯爵内閣(1866年-1868年)と第一次ディズレーリ内閣(1868年2月-12月)には外務大臣として入閣した。1866年の普墺戦争には中立の立場を取った。1867年に普仏間で起こったルクセンブルク問題ではロンドン会議(英語版)を開催してルクセンブルクを中立国とする仲裁を行った。基本的に戦争回避の外交に努めたエドワードだが、1867年にエチオピアでイギリス人が拉致された際には出兵を支持した。 1869年10月3日に第15代ダービー伯爵位を継承した。 第二次ディズレーリ内閣(1874年-1880年)にも外務大臣として入閣したが、この頃にはディズレーリは帝国主義者になっており、小英国主義者であるダービー伯爵とは意見が合わなくなっていた。1878年3月、露土戦争でロシアがトルコにサン・ステファノ条約を締結させたのに対抗してディズレーリは、予備軍とインド駐留軍をマルタ島に移動させる決定を下したが、ダービー伯爵はそうした軍事的威嚇に反対して外務大臣を辞した。それまでダービー伯爵とディズレーリは親しい友人関係だったので二人はこの決別を惜しんだという。しかしディズレーリの帝国主義政策に対してはその後も反対し続けた。ズールー戦争には遺憾を表明し、第二次アフガン戦争にも反対した。
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