インド担当大臣として
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「インド担当大臣として」の解説
1874年2月の解散総選挙(英語版)に保守党が大勝し、ディズレーリに再び組閣の大命があった。両院の過半数を制する大議席、大敗を喫した野党自由党の混乱状態、ヴィクトリア女王のディズレーリへの寵愛、不安要素が皆無の第二次ディズレーリ内閣は長期政権になると予想された。 そうした状況の中、これまで反ディズレーリ派で通してきたソールズベリー侯爵も、ディズレーリからインド担当相としての入閣を打診されると、逡巡した末に承諾した。ソールズベリー侯爵の入閣は党内右派のディズレーリへの反発を薄め、内閣に一層の安定をもたらす効果があった。ただしはじめのうちソールズベリー侯爵は植民地相として入閣したカーナーヴォン伯爵とともに首相ディズレーリと距離を置く閣僚だった。 1850年代からインド綿産業が成長し、イギリス・ランカシャー綿産業が脅かされるようになった。ランカシャー綿業者は自分たちの綿製品の競争力強化のため、インドの5%輸入関税の撤廃をインド省に求めるようになった。ランカシャーは保守党の地盤の一つであったため、ソールズベリー侯爵としてもこの意見をないがしろにはできず、関税全廃をインド総督ノースブルック伯爵(自由党所属)に要求した。しかし総督はインド財政が不安定になるとして関税撤廃に反対してソールズベリー侯爵と対立を深めた。地元インド人の世論も総督を支持する声が強かった。 また同じころ、ロシア帝国の南下政策をめぐってアフガニスタン情勢が緊迫化しており、それについてソールズベリー侯爵はイギリス人外交官のカーブル駐屯をアフガン王シール・アリー・ハーンに認めさせるようノースブルック伯爵に指示したが、ノースブルックはアフガンとの関係を損なうとしてこれを拒否した。ソールズベリー侯爵とノースブルック伯爵の溝は深まる一方で、1876年4月にノースブルック伯爵は辞職に追いやられた。 後任にはディズレーリとソールズベリー侯爵に忠実なリットン伯爵が就任した。彼は本国からの要請通りインドの関税撤廃を断行し、またアフガンに対して首都にイギリス外交官を置くよう要求した。しかしシール王はその要求を拒否し、さらに1878年7月にはロシア使節団の圧力に屈する形でロシア軍のアフガニスタン国内への駐屯を認める条約を締結した。これを警戒したリットンは11月に第二次アフガン戦争を開始した。1880年までに勝利をおさめ、アフガンはイギリス保護国となった またリットンの総督就任直後からベンガル地方で飢饉(500万人が餓死したという)が発生したが、この際にソールズベリー侯爵はベンガルからの穀物輸出の制限の要請を拒否している。彼のこの冷たい態度は世論の批判を集めた。
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