インド担当大臣としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > インド担当大臣としての意味・解説 

インド担当大臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:26 UTC 版)

ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「インド担当大臣として」の解説

1874年2月解散総選挙英語版)に保守党大勝しディズレーリに再び組閣の大命があった。両院過半数制する議席大敗喫した野党自由党混乱状態、ヴィクトリア女王ディズレーリへの寵愛、不安要素皆無第二次ディズレーリ内閣長期政権になると予想された。 そうした状況の中、これまでディズレーリ派で通してきたソールズベリー侯爵も、ディズレーリからインド担当相としての入閣打診されると、逡巡した末に承諾したソールズベリー侯爵入閣党内右派ディズレーリへの反発薄め内閣に一層の安定もたらす効果があった。ただしはじめのうちソールズベリー侯爵植民地相として入閣したカーナーヴォン伯爵とともに首相ディズレーリ距離を置く閣僚だった。 1850年代からインド綿産業成長し、イギリス・ランカシャー綿産業脅かされるようになったランカシャー綿業者自分たちの綿製品競争力強化のため、インドの5%輸入関税撤廃インド省求めようになったランカシャー保守党地盤一つであったため、ソールズベリー侯爵としてもこの意見ないがしろにはできず、関税全廃インド総督ノースブルック伯爵自由党所属)に要求した。しかし総督インド財政不安定になるとして関税撤廃反対してソールズベリー侯爵対立深めた地元インド人世論総督支持する声が強かった。 また同じころ、ロシア帝国の南下政策めぐってアフガニスタン情勢緊迫化しており、それについてソールズベリー侯爵イギリス人外交官カーブル駐屯アフガンシール・アリー・ハーン認めさせるようノースブルック伯爵指示したが、ノースブルックアフガンとの関係を損なうとしてこれを拒否したソールズベリー侯爵ノースブルック伯爵の溝は深まる一方で1876年4月ノースブルック伯爵辞職追いやられた後任にはディズレーリソールズベリー侯爵忠実なリットン伯爵就任した。彼は本国からの要請通りインド関税撤廃断行し、またアフガンに対して首都イギリス外交官を置くよう要求した。しかしシール王はその要求拒否し、さらに1878年7月にはロシア使節団圧力屈する形でロシア軍アフガニスタン国内への駐屯認め条約締結した。これを警戒したリットン11月第二次アフガン戦争開始した1880年までに勝利をおさめ、アフガンイギリス保護国となった またリットン総督就任直後からベンガル地方飢饉500万人餓死したという)が発生したが、この際ソールズベリー侯爵ベンガルからの穀物輸出制限要請拒否している。彼のこの冷たい態度世論批判集めた

※この「インド担当大臣として」の解説は、「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の解説の一部です。
「インド担当大臣として」を含む「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事については、「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「インド担当大臣として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「インド担当大臣として」の関連用語

インド担当大臣としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



インド担当大臣としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS