ディズレーリへの寵愛とは? わかりやすく解説

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ディズレーリへの寵愛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)

ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ディズレーリへの寵愛」の解説

1868年2月保守党首相ダービー伯爵病気退任し大蔵大臣庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリ後任首相となったディズレーリユダヤ人として生まれたが、幼い頃、父の判断将来のためにイングランド国教会改宗した小説家として活躍し1837年総選挙初当選して政界入りした。ロバート・ピール首相穀物法廃止への反対運動主導したことで保護貿易主義旗手として名をあげ、ピール派保守党離党した後に保守党指導的地位上り詰めた人物である。 アルバートヴィクトリア自由貿易主義者であり、ピール尊敬していたので、その彼を攻撃したディズレーリのことはもともと憎んでいた。しかしヴィクトリア第一次ダービー伯爵内閣時に大蔵大臣として入閣したディズレーリ送ってくる報告書小説的な面白さ彼に注目するようになり、彼の印象についても「青白い顔、黒い目まつ毛、黒い巻き毛の髪という典型的なユダヤ人風の容貌であり、その表情不快感覚える。しかし話してみるとそうでもなかった。」と書ようになったヴィクトリアディズレーリ本格的に好感を抱くようになったのはアルバート崩御の際にディズレーリアルバート人格称えアルバート記念碑創設尽力したことだった。ヴィクトリアによればアルバート死去後多く者が私を憐れんでくれたが、私の悲しみ本当の意味理解してくれた者はディズレーリけだった。」という。 ディズレーリ政策面にも共感することが増えた国民暴動阻止するため労働者上層への選挙権拡大不可避情勢になった第三次ダービー伯爵内閣期、ヴィクトリア自由党政権のもとで急進的な選挙法改正嫌がり保守党政権による選挙法改正希望したが、その意を汲んで自由党交渉の末に第二次選挙法改正達成したのがディズレーリであったヴィクトリアヴィッキー宛ての手紙の中で「彼は驚くべき方法改正法案を通過させました彼について今の私には称賛以外の言葉は何もありません。」と絶賛している。またウィリアム・グラッドストン目指すアイルランド国教会廃止反対する姿勢にも好感をもっていた。 第一次ディズレーリ内閣少数与党なのですぐに議会敗北したが、世論保守党有利に転じる時期見計らうため、解散総選挙先延ばし図っていた。そのためにヴィクトリア公務復帰させ、彼女の大御心によって政権存続させようとした。彼はヴィクトリア本人に「政治重大な時局にある時は国民君主に備わる"威厳"を再認識すべきであります同時に政府そのような時局における内閣存立女王陛下大御心次第という事了解するのが賢明というものです。」という立憲政治否定に近い上奏行っている。ヴィクトリアまんざらではなくディズレーリ助けるために徐々に公務復帰するようになった1868年春頃からヴィクトリアは自らが摘んだ花束ディズレーリ送りディズレーリお礼自分小説ヴィクトリアへ送るという関係になった。しかし二人蜜月には反発多く保守党内のディズレーリ派の貴族院議員ソールズベリー侯は「玉座君臨しているのは女性であり、ユダヤ人野心家は彼女を幻惑する術を心得ている」と危機感露わにしている。 結局1868年11月総選挙英語版)において保守党惨敗した。これを受けてディズレーリ辞職し自由党ウィリアム・グラッドストン後任首相となった。これは総選挙敗北直接の原因として首相辞任した最初事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前総選挙敗北して議会内で内閣不信任決議なされるか、あるいは内閣信任決議当の法案否決されるかしない限り首相辞職することはなかった。これが慣例化したことは君主首相選定に果たす役割減少意味し立憲君主制進展もたらしたこの後しばらくディズレーリ野党党首甘んじたが、ヴィクトリアディズレーリ親密な関係は続いた1874年2月総選挙での保守党勝利を受けてグラッドストン辞職したヴィクトリアディズレーリ再度組閣の大命与えた。このディズレーリ第二次内閣においてヴィクトリアは彼への寵愛深め不偏不党崩してディズレーリびいき、保守党びいきになった。その寵愛ぶりはかつてのメルバーン子爵をも超えるものがあった。1878年ヴィッキー宛ての手紙の中では「彼は広い心持ち主です。これはビーコンズフィールド卿(ディズレーリにあってグラッドストン氏には完全に欠落している資質です。彼は騎士道精神満ちあふれ、仕える国と主権女王に対して広大な視野持っています」とディズレーリ絶賛している。ヴィクトリア第二次ディズレーリ内閣帝国主義政策全面的にバックアップし1876年5月にはインド女帝即位し以降ヴィクトリアは「Victoria R&I」と署名するようになった。 しかし1880年4月総選挙保守党敗れたため、ディズレーリ辞職余儀なくされた。この選挙の報を聞いたヴィクトリアバーデン大公国にいたが、絶望して「私の人生はもはや倦怠苦しみしかありません。今度選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう」と語ったディズレーリは病を患っており、もはや首相職復帰する日は来ないと覚悟していたが、ヴィクトリア出来るだけ早くディズレーリ首相に返り咲く日を期待していた。ヴィクトリアディズレーリに「これが永遠の別れになるなどと思っていけませんよ。私は必ず近況を貴方に知らせますから貴方もそうすると約束してください」という手紙送っている。ディズレーリ女王文通続けウィンザー城にもしばしば通ったが、1881年4月には死去したディズレーリ訃報接したヴィクトリア女王悲しみのあまり、しばらく口をきけなかったという。当時女王臣民葬儀出席することを禁じ慣例があったので、葬儀への出席見合わせたが、代わりにディズレーリ好きだったプリムラを「彼の好きだった花をオズボーンから、女王からの親愛供花」というメッセージとともに葬儀送った葬儀後、ディズレーリ墓参り希望しディズレーリ自邸埋葬され教会があるヒューエンデン(英語版)へ赴いた女王は、ディズレーリがヒューエンデンにいた時、最後に歩いた道を歩いてから教会向かった女王掘り返されディズレーリの上陶器花輪供えた後、教会内に「君主であり友人であるヴィクトリアR&Iから、感謝親愛をこめて」と刻んだ大理石記念碑を置かせた。 彼女はディズレーリ遺言執行人に「ディズレーリほど厚い忠誠心で私に仕えてくれた大臣、また私に誠意尽くしてくれた友人はいません。その情愛ある配慮賢明な助言野党の時でも変わる事はありませんでした。私はこれまで大事な友人大勢亡くしましたが、今回ほど辛いことはありませんでしたし、今後もないでしょう大英帝国にとって、そして世界にとって掛け替えのない損失です。」という手紙書いている。

※この「ディズレーリへの寵愛」の解説は、「ヴィクトリア (イギリス女王)」の解説の一部です。
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