ディズレーリへの寵愛
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「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「ディズレーリへの寵愛」の解説
1868年2月、保守党の首相ダービー伯爵が病気で退任し、大蔵大臣・庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリが後任の首相となった。ディズレーリはユダヤ人として生まれたが、幼い頃、父の判断で将来のためにイングランド国教会に改宗した。小説家として活躍し、1837年の総選挙で初当選して政界入りした。ロバート・ピール首相の穀物法廃止への反対運動を主導したことで保護貿易主義の旗手として名をあげ、ピール派が保守党を離党した後に保守党の指導的地位に上り詰めた人物である。 アルバートとヴィクトリアは自由貿易主義者であり、ピールを尊敬していたので、その彼を攻撃したディズレーリのことはもともと憎んでいた。しかしヴィクトリアは第一次ダービー伯爵内閣の時に大蔵大臣として入閣したディズレーリが送ってくる報告書の小説的な面白さで彼に注目するようになり、彼の印象についても「青白い顔、黒い目とまつ毛、黒い巻き毛の髪という典型的なユダヤ人風の容貌であり、その表情は不快感を覚える。しかし話してみるとそうでもなかった。」と書くようになった。ヴィクトリアがディズレーリに本格的に好感を抱くようになったのはアルバート崩御の際にディズレーリがアルバートの人格を称え、アルバート記念碑の創設に尽力したことだった。ヴィクトリアによれば「アルバートの死去後、多く者が私を憐れんでくれたが、私の悲しみを本当の意味で理解してくれた者はディズレーリだけだった。」という。 ディズレーリの政策面にも共感することが増えた。国民の暴動を阻止するため労働者上層への選挙権拡大が不可避の情勢になった第三次ダービー伯爵内閣期、ヴィクトリアは自由党政権のもとで急進的な選挙法改正を嫌がり、保守党政権による選挙法改正を希望したが、その意を汲んで自由党と交渉の末に第二次選挙法改正を達成したのがディズレーリであった。ヴィクトリアはヴィッキー宛ての手紙の中で「彼は驚くべき方法で改正法案を通過させました。彼について今の私には称賛以外の言葉は何もありません。」と絶賛している。またウィリアム・グラッドストンが目指すアイルランド国教会廃止に反対する姿勢にも好感をもっていた。 第一次ディズレーリ内閣は少数与党なのですぐに議会で敗北したが、世論が保守党有利に転じる時期を見計らうため、解散総選挙の先延ばしを図っていた。そのためにヴィクトリアを公務に復帰させ、彼女の大御心によって政権を存続させようとした。彼はヴィクトリア本人に「政治が重大な時局にある時は国民も君主に備わる"威厳"を再認識すべきであります。同時に政府もそのような時局における内閣の存立は女王陛下の大御心次第だという事を了解するのが賢明というものです。」という立憲政治否定に近い上奏を行っている。ヴィクトリアもまんざらではなく、ディズレーリを助けるために徐々に公務に復帰するようになった。1868年春頃からヴィクトリアは自らが摘んだ花束をディズレーリへ送り、ディズレーリはお礼に自分の小説をヴィクトリアへ送るという関係になった。しかし二人の蜜月には反発も多く、保守党内の反ディズレーリ派の貴族院議員ソールズベリー侯は「玉座に君臨しているのは女性であり、ユダヤ人の野心家は彼女を幻惑する術を心得ている」と危機感を露わにしている。 結局1868年11月の総選挙(英語版)において保守党は惨敗した。これを受けてディズレーリは辞職し、自由党のウィリアム・グラッドストンが後任の首相となった。これは総選挙の敗北を直接の原因として首相が辞任した最初の事例であり、以降イギリス政治において慣例化する。これ以前は総選挙で敗北しても議会内で内閣不信任決議がなされるか、あるいは内閣信任決議相当の法案が否決されるかしない限り、首相が辞職することはなかった。これが慣例化したことは君主が首相選定に果たす役割の減少を意味し、立憲君主制の進展をもたらした。 この後しばらくディズレーリは野党党首に甘んじたが、ヴィクトリアとディズレーリの親密な関係は続いた。 1874年2月の総選挙での保守党の勝利を受けてグラッドストンは辞職した。ヴィクトリアはディズレーリに再度組閣の大命を与えた。このディズレーリの第二次内閣においてヴィクトリアは彼への寵愛を深め、不偏不党を崩してディズレーリびいき、保守党びいきになった。その寵愛ぶりはかつてのメルバーン子爵をも超えるものがあった。1878年のヴィッキー宛ての手紙の中では「彼は広い心の持ち主です。これはビーコンズフィールド卿(ディズレーリ)にあって、グラッドストン氏には完全に欠落している資質です。彼は騎士道精神に満ちあふれ、仕える国と主権(女王)に対して広大な視野を持っています」とディズレーリを絶賛している。ヴィクトリアは第二次ディズレーリ内閣の帝国主義政策を全面的にバックアップし、1876年5月にはインド女帝に即位し、以降ヴィクトリアは「Victoria R&I」と署名するようになった。 しかし1880年4月の総選挙に保守党が敗れたため、ディズレーリは辞職を余儀なくされた。この選挙の報を聞いた時ヴィクトリアはバーデン大公国にいたが、絶望して「私の人生はもはや倦怠と苦しみしかありません。今度の選挙は国全体にとって不幸なことになるでしょう」と語った。ディズレーリは病を患っており、もはや首相職に復帰する日は来ないと覚悟していたが、ヴィクトリアは出来るだけ早くディズレーリが首相に返り咲く日を期待していた。ヴィクトリアはディズレーリに「これが永遠の別れになるなどと思ってはいけませんよ。私は必ず近況を貴方に知らせますから貴方もそうすると約束してください」という手紙を送っている。ディズレーリは女王と文通を続け、ウィンザー城にもしばしば通ったが、1881年4月には死去した。 ディズレーリの訃報に接したヴィクトリア女王は悲しみのあまり、しばらく口をきけなかったという。当時女王が臣民の葬儀に出席することを禁じる慣例があったので、葬儀への出席は見合わせたが、代わりにディズレーリが好きだった花プリムラを「彼の好きだった花をオズボーンから、女王からの親愛の供花」というメッセージとともに葬儀に送った。 葬儀後、ディズレーリの墓参りを希望し、ディズレーリの自邸と埋葬された教会があるヒューエンデン(英語版)へ赴いた。女王は、ディズレーリがヒューエンデンにいた時、最後に歩いた道を歩いてから教会へ向かった。女王は掘り返されたディズレーリの棺の上に陶器の花輪を供えた後、教会内に「君主であり友人であるヴィクトリアR&Iから、感謝と親愛をこめて」と刻んだ大理石の記念碑を置かせた。 彼女はディズレーリの遺言執行人に「ディズレーリほど厚い忠誠心で私に仕えてくれた大臣、また私に誠意を尽くしてくれた友人はいません。その情愛ある配慮と賢明な助言は野党の時でも変わる事はありませんでした。私はこれまで大事な友人を大勢亡くしましたが、今回ほど辛いことはありませんでしたし、今後もないでしょう。大英帝国にとって、そして世界にとって掛け替えのない損失です。」という手紙を書いている。
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